第8話 初めての朝チュンロンリネス——
——ねぇ、みなと。起きて……。
鼓膜をくすぐる、聞き慣れたはずの甘い声。
——起きて、湊人。あたしの事、ちゃんと見て。
仰向けのまま、鉛のように重い瞼をこじ開けようと試みるが、身体が言うことを聞かない。これがいわゆる金縛りというやつか、あるいは昨晩のイベントによる極度の疲労のせいか。
——湊人、早く。
「……んっ……」
ようやく脳から末端神経へ無理やりの命令が届く。
薄く開いた視界はピントが歪み、何もかもが白く、ぼやけた抽象画のようだ。
けれど、そこに誰かがいることだけは確信できた。
「……しず……く……?」
漏れ出たのは声とも呼べない吐息。
いまだ霧が晴れない視界に苛立ちを覚えつつ、俺は懸命にレンズを絞る。
——しず……く……
ホワイトアウトした視界のド真ん中。
ゆっくりと浮かび上がってきた彼女の顔が、段々と鮮明になってゆく。
——誰よそれ。なに言ってるの鳳くん?気持ち悪い——
————————
「……うわっ!??!……」
突如として視界に現れた黒髪ポニーテールの美少女。
茨姫こと、朝凪澪の凍てつくような蔑みの視線と鼓膜を切り裂く冷徹な声に、俺は弾かれたように飛び起きた。
慌てて辺りを見回すがそこに朝凪の姿はない。
視界に広がるのは、昨日から継続中の非日常——ラブホの光景だけだ。
「……ゆっ、夢か……」
俺は無様にベッドの上で上体を起こし、荒い呼吸とともに吐き出した言葉でようやく現実感が芽生えた。
あまりにも瓜二つの二人。そこに追いうちをかけるように雫の目元へ重なった、あの小さな黒い影。
脳の片隅にこびりついた違和感のせいで、とんだ悪夢を見てしまったようだ。
心臓は早鐘を打ち、平衡感覚はまだグラついている。
俺は、一度大きく頭を振って意識を現実へと強制浮上させた。
すると、今度は別の違和感が俺の隣から伝わってきた。
そこにあるべきはずの熱が、綺麗さっぱり消失していたから。
「あれ……雫は……?」
昨日、俺は雫をこの腕に抱いたまままどろみへ落ちたはずなのだ。
その確かな感触が腕に残っているというのに、現実の隣は不自然なほどに空っぽだった。
「あいつ、どこいったんだよ……トイレか?」
部屋のどこにも、人の気配はない。
俺は頭を軽く掻き毟り、とりあえずベッドサイドのスマホへ手を伸ばした。
10:10 アプリ通知が1件——
その通知をタップすると、ゲーマー御用達のコミュニケーションアプリが勝手に起動し、DMの画面が表示される。
そこには雫からのメッセージが届いていた。
【雫:湊人、昨日はありがと。めっちゃ楽しかったよ!ホントはずっと一緒に寝てたかったんだけど、ちょっと急用が出来ちゃったからあたし先に帰るね!じゃ、またすぐに会おうね♡あたしのお試しの彼氏くんww】
「………………はぁ……?」
絶句。
けれど、次の瞬間には口元がわずかに緩み、鼻から抜けるような笑いが漏れていた。
いかにも雫らしい騒々しい文面。
おまけに、これまで一度も見たことがなかった♡の記号。
そして何より、文字として突きつけられた彼氏という称号。
「マジであいつ、いつも騒がしいな……」
誰もいない空間に俺の声が虚しく響き、溶けていく。
静寂の中、俺はもう一度苦笑いを浮かべ指先を走らせた。
【湊人:雫おまえなぁ。まあいいや。またあの公園とかネトゲでな。俺も昨日は楽しかったよ】
送信。
俺はスマホをベッドに放り投げると、重い腰を上げて洗面所へと向かった。
チェックアウトは11時。意外と時間は残されていない。
洗面所の鏡に映し出されたのは、パンツ一丁で寝癖全開の俺の姿。
そしてその首筋には、くっきりと刻まれた複数の真っ赤な征服痕。
それが昨夜の出来事は夢じゃないと、饒舌に語りかけてくる。
「なんだよ、お前も俺にキスマーク着けてんじゃん。しかも結構沢山……どうすんだよこれ」
雫の吐息、甘い香り、弾けるような笑顔、そして溶けるような柔らかな感触……。
そのすべてが鮮明に蘇る。
気づけば鏡の中の俺は、照れ隠しのように小さく鼻を鳴らして笑っていた。
やっぱり雫は雫だ。俺の考えすぎだ。
彼女は俺の恋愛相談役からお試しの彼女へとジョブチェンジした、変わった美少女。
それに昨日、俺は確かに彼女を抱いた。
その証拠が、いまもこうして首筋に刻まれているのだから。
いくら雫と朝凪が似ていたとしても、それはただの偶然だ。
そもそも冷静に考えてみれば、そんなのありえないことがわかる。
わざわざ別人のフリをして俺に接近し、告白の背中を押し、いざ告白されたら無慈悲にフっておきながら、舌の根も乾かぬうちに別人のフリをして身体を重ね、さらに仮の交際までスタートさせるか?
ただし、あまり考えたくはないが唯一ありそうな可能性を挙げるとすれば、雫が朝凪の近しい血縁者、それこそ双子の姉妹だったりしたら……顔の造作が似ていることへの説明はつく。
その可能性だけは保留だ。
雫に一人っ子と嘘を吐かれていた事になるが……まあそれならそれで、俺の中では納得できる。
思い返せば、俺は朝凪について何も知らないのだ。
一年という決して短くない時間を共有しておきながら、家族構成さえ聞き出せなかった。
それよりも、彼女と一方的にでも言葉を交わし、彼女がクラスで孤立しないよういかに人の輪にへ繋ぎ止めるか……。
そんな、自己満足に満ちた立ち回りに必死だったから。
「はぁぁ……とりあえず歯磨いてシャワー浴びてチェックアウトしよ……」
俺は考えるのを辞めた。
考えたところで、得られるのは頭痛と虚無感だけ。
せっかく少し軽くなったはずの胸の奥を、わざわざ自分で重くしてどうする。
それより、これから始まる雫との新しい関係ついて考える方が、よほど健康的だ。
あんなレベルの美少女、俺の知る限りでは朝凪を除けば雫しか存在しない。
そんな相手と付き合えるなんて、幸福以外の何物でもないだろう。
しかも大声では言えないが……身体の相性も抜群ときているのだから。
俺は自分を納得させるように頷き、歯ブラシを口に突っ込んで風呂場へ向かった。
そう。俺は好きな人に似た、とびきり可愛い女の子の彼氏になった。
今はそれだけで十分じゃないか——




