第7話 答え。その先にあったもの——
「付き合う……俺が、雫と……?」——
向かい合っていた雫が落とした言葉を、俺はただ愚直に繰り返した。
聞こえないフリをする自分の耳へと、無理やり叩き込むために。
「うん……まあ、あたしから誘ってえっちしちゃった後に、こんな事言うのもズルいけどさ……」
「………………」
「やっぱ、イヤ……?」
「……いやっ、そういうわけじゃないけど……」
目の前で潤んだ瞳を向けてくる雫に対して、強く感情移入している自分がそこにいた。
けれど、惰性で付き合うという行為がどんな結果を生むのか、それが怖い。
かといって、いわゆるセフレみたいな関係に落ち着くことは、俺の倫理観が拒絶している。
彼女は俺にとって大切な友達なのだ。そんな彼女を中途半端な気持ちで傷つけることが一番怖い。
だが、今この瞬間から昨日までの友達に戻ろうなんて、そんな虫の良い話があるわけもなく……。
彼女が密かに抱き続けてきた想いに気づかず、こんな引き返せない状況を作り出してしまった俺には責任がある。
どうすれば雫という一人の女の子と誠実に向き合えるのか。
俺はその答えを、思考の中で必死に探していた。
そんな時——
湯船の中で俺の右手に雫の手が触れた。
俺を射抜くように真っ直ぐに見つめたまま、彼女は俺の手をそっと握りしめ、言葉を続ける。
「湊人。あたしでいいじゃん……あたしは湊人のこと、傷つけたりしないよ?こうやって、湊人の側にいてあげるよ……?」
いつものおどけた笑顔を完全に消し去り、真剣さだけを瞳に残して俺を見つめる雫。
その澄んだ瞳に当てられて、俺の心は容易く揺らぐ。
「まあさ、あたしの勝手でこんなに事になっちゃったし、湊人は今日好きな人に振られたばっかでそれに漬け込むのはズルいって思うけどさ……でも、仕方ないじゃん。そうでもしないと、湊人はあたしのこと見てくれないし……」
「…………っ」
「ねぇ湊人……湊人があたしを見てくれるなら、正直セフレでもいいよ。でも、湊人が少しでもあたしとの事考えてくれるなら、まずお試しでいいから……だからあたしと付き合ってみない?友達以上、本当の恋人未満って感じで……」
論理的に考えれば、その内容は支離滅裂でめちゃくちゃだ。
けれど、それがいつもの冗談ではないことは、雫の表情が雄弁に物語っていた。
「お試し……?」
「そっ、付き合いながらお互いのことを知っていくって感じでまずは1ヶ月くらい仮交際みたいにしてさ……それで、その期間中に湊人があたしのこと本気になってくれたら、そのままちゃんと付き合うってのはどう?もちろんあたしに嫌なとこがあったり、湊人が別の人を好きになっちゃったら、この交際は無しにしていいから……」
一言ずつ言葉を紡ぎ出すたびに少しずつ勇気を削り取っているかのように、どこか苦しげに口にした雫。
その提案の内容はあまりにも残酷で、そして今の俺にとってはあまりにも都合が良すぎて……。
だからこそ、俺は反射的に声を上げていた。
「雫っ!そんなんダメだろ!?……それじゃあまりにもお前が——」
そこまで言った所で、雫の細い声が俺の言葉を強引に遮った。
「いいんだ。あたし湊人のこと……好きだし。湊人ってホントにずっと真面目で優しいよね……こういうのは追っかけてる方が負けなんだよ……だからいいの」
少しだけ視線を伏せ、声のトーンを一段落とした雫の姿は驚くほど弱々しかった。
いつも太陽のように元気な彼女をここまで摩耗させてしまうなんて、恋とはあまりに非情だ。
それを、俺は今日という一日だけで嫌っていうほど思い知らされた。
「……雫……」
俺の手を握りしめている雫の指先に、さらに微かな力が込められる。
それから間をおかず、彼女は薄い唇を小さく噛み、俺にもう一度熱を持った視線を戻して口を開いた。
「だめ?お願い湊人、あたしにもチャンスちょうだいよ……好きな人の恋愛相談聞くの……辛かったんだよ?」
「…………」
辛かった——
その一言が重く落ちた。
いままで彼女が俺の背後で静かに流し続けてたそれが、初めて言葉という形を伴って、俺の胸の底へとズシリと沈み込む。
雫は俺を逃さないように手を握ったまま、震える瞳で俺の答えを待っている——
もう限界だった。
これ以上、こんな彼女を見ているのは。
俺の心を埋めるための都合のいい隙間に彼女を押し込むような、そんな真似はしたくない。ちゃんと一人の男として、雫と正面から向き合いたい。
俺だって、少なからず彼女に好意を抱いていたのは紛れもない事実なのだから。
だから、俺は自分なりの答えを導き出した。
「……わかったよ雫……でも、お試しだとしても俺はちゃんと真剣にお前とっ——」
「……っ!!ほんとっ!?」
俺が最後まで誠意を口にし切る前に、湯面がチャポンと大きな音を立てて、俺の声を物理的にかき消す。
「湊人っ!!」
「……うおっ!?」
いつの間にか、獲物に飛びかかる小動物のような勢いで俺に抱きついてきた雫。
彼女の柔らかな膨らみが俺の胸元に押し当てられ、湯船の熱量と共にダイレクトに身体へと伝わってくる。
逃げ場のない圧。濡れた肌同士が滑り合う官能的な感触。
そのあまりの熱気に意識がぼーっとし始めた頃、雫はそっと身体を俺から引き離すと、これまでの不安が嘘だったかのように無邪気に笑った。
「えへへっ♡じゃあ今から……湊人はいちおうあたしの彼氏だよ?お試しのっ」
雫は意外と頑固な一面があり、一度決めた事はなかなか曲げようとしない。
だから俺は、あえてお試しという彼女なりの妥協案を断ち切ることはしなかった。
俺がこれから彼女に真剣に向き合い続ければいいだけだ。
そこにお試しか本気かなんてない。
「あっ、ああ……わかったけど……でもお試しって堂々と言うなよ……」
「いいじゃん本当のことなんだから!改めてよろしくねっ、湊人!じゃあ記念のちゅ〜しよっ♡」
「おっ、おいっ!?話が早いって!?」
先ほどまでの湿っぽい空気はどこへやら、満開の笑顔を浮かべた雫が至近距離までその顔を寄せてくる。
視界のすべてが彼女で埋め尽くされ、唇が重なり合う。
浅い呼吸と互いの存在を確認し合うような舌の絡みが、身体にゾクッとした衝撃を走らせ、思考は再び真っ白な空白へと帰っていく。
長い口づけの後——
雫がゆっくりと唇を離すと、二人の隙間に数本の銀色に光る唾液の糸が橋を架けるように引かれた。
「……ぷはぁ……えへへっ♡」
嬉しそうに、けれど少しだけ誇らしげに肩を揺らして笑っていた雫。
そんな彼女はふと、何かに気づいたようにいたずらっぽく目を細める。
「ああ〜湊人……また《《ココ》》が……すごい事になってるよ♡」
「ちょっ、それは……急に裸で抱きつかれたりキスされたら……仕方ないだろっ……」
「いいんだよっ、言い訳しなくて……あたしもぶっちゃけおんなじ気持ちだから……」
「……そっ、そうなのか……?」
「うんっ……♡」
あまりにも純粋で、暴力的な可愛い笑顔が咲き、俺はただ苦笑するしかなかった。
——雫が。こんなにも可愛くてエッチな子が今日から俺の彼女……?
「湊人、もうお風呂出よ?それでさ……もう一回しよ?」
「ああ…………」
俺の腕に自らの腕を密着させてくる雫を見つめ返すと、冷え切っていた心がじんわりと暖かくなっていくような感覚を覚えた。
なのに——
彼女に急かされるまま、腰を上げて湯船から上がろうとしたその瞬間。
俺の視界に微かな違和感がよぎった。
一度目を逸らしてしまえば、単なる見間違いとして処理できてしまうほどあまりに小さな《《それ》》。
なのに、俺の視線はそこに吸い寄せられてしまう。
「…………っ?!」
「ん?湊人……?あたしの顔になんか付いてる?」
つい《《それ》》を凝視し続けてしまったせいだろう。
雫がキョトンとした表情で、不思議そうにこちらを見つめている
俺は悟られぬよう慌てて視線を逸らし、何事もなかったかのように浴槽から立ち上がると言葉を繋いだ。
「いやっ……なっ、なんでもないよ雫……ちょっとのぼせてクラっとしただけ。ベッドいくか」
「そかそかww……じゃあ行こっ♡」
俺の手を取り楽しそうに引っ張ってゆく雫。
その掌は温かいはずなのに、俺の指先だけが冷たさを帯びてゆく。
——ありえない。他人の空似だ。たまたま似ているだけ。雫は雫なんだから。
タオルで身体を拭いている間も、俺はさっき脳裏に焼き付いた違和感を必死に意識の片隅へと追いやっていた。
俺に向けていつもの人懐っこい笑顔を浮かべていた雫。
その瞳のすぐ下。
シャワーで化粧が落ちたのだろうか。
そこに今までの存在しなかったはずの、掠れたホクロのような影が浮かび上がっていた。
それは朝凪の泣きぼくろの位置と、驚くほど一致していて。
まるで、雫と朝凪の境界線が、どろどろに溶け合って曖昧になったみたいで――




