第40話 その茨は、自らをも傷つける 澪SIDE——
澪SIDE——
湊人くんと外でデートをしたり、こっそりホテルのベッドで彼と一緒に朝起きたり。
舟橋くんという気さくな友人が出来て、学校のお昼休みでも、一緒に笑いながらごはんを食べられる人ができたり。
夜にはボイスチャットを繋いで、時間を忘れてゲームに没頭したり。
ずっと孤独だった私の人生において、ここまで充実した温かい日々は、今まで一度もなかった。
たとえ湊人くんの心の中で、私が一番になれなかったとしても。それでも私は、本当に満たされていた。毎日が輝いていて、幸せだった。
でも。
私が幸せを感じてしまったこと自体が……すべての間違いだったのかもしれない——
————————
それは、あまりにも突然の事だった——
自宅で湊人くんと舟橋くんとの楽しいボイスチャットを終えて、満ち足りた気分のまま寝ようとベッドに入った時。不意に心の中の部屋で、雫から強く呼ばれた気がした。
静かに瞳を閉じると、いつもの空間が広がる。
何もなくて、でもどこか安心できる、私と雫だけの真っ白な空間。
雫とは、今では前のようにいがみ合うこともなく、まるで本当の姉妹みたいに穏やかに話ができるようになっていて、お互いに体験した色々な事を共有したりしているのだけど。
その日、私の目の前に現れた雫はどこかひどくバツが悪そうな、思い詰めた顔をしていた。
「雫……どうしたの?急に呼んで?また身体貸してほしいとか?」
「……澪……実はちょっと真面目な話があって……」
「真面目な話?」
「うん……ちょっと座って話そ?」
「あっ……そうね……」
いつもなら『湊人とこんなことあったよ』と無邪気に報告してくる彼女の、あまりにも重い声のトーンに、私は戸惑いながらも彼女と向かい合って座った。
「それで雫、話ってなに?」
「あのさっ——」
雫は一度言葉を切り、ぎゅっと自分の膝を抱え込んでから私を真っ直ぐに見つめてくる。
「あたしたちの仲だし、ストレートに言うんだけど……あたし最近、自分の意識が保てなくなってるんだ……なんていうか、あたしがあたしじゃないみたいで。澪の身体を借りたくても、借りられない事が多くて……」
「……えっ……それって……」
あまりにも急な雫の言葉に、私は息を呑み、思考が一瞬真っ白になる。
いつもエネルギッシュな彼女の口から、そんな弱々しい言葉が出たことが信じられなかった。
「澪はさ、今……幸せだよね?なんとなく気持ちが伝わってくるんだよ」
「それはっ、そうだけど……それと雫になんの関係あるのよ!?」
「まあまあ、そんなに熱くならないで聞いてよ……」
「ごっ、ごめんなさい……つい……」
私が慌てて謝ると、雫はふわっと、どこか諦めたような儚い笑顔を浮かべてみせる。
「あたしはさ、澪を守るために……澪を幸せにしてあげる為に生まれたんだと思うんだ。少なくとも自分ではずっとそう思ってる。それでさ、澪が今、毎日充実してて、しかも湊人っていう大好きな人に出会えて幸せになれてるなら……あたしが存在してる意味って、もう、なくなると思うんだよね……だからこうなってるのかなって……」
その言葉の響きが持つ、決定的な喪失感。
まるで自分自身の死を受け入れているかのような、そのあまりにも穏やかで静かな彼女の態度に、私は背筋が凍るような寒気を覚えてゆく。
「ちょっ……ちょっと?!なに言ってるのよ雫?!」
「ごめんね、急にこんなこと言って。でも、そんな気がするんだ。確証はないけど、あたしがどんどん澪に溶けていってるみたいな感覚があるんだよ……もう私って人格が消えちゃいそうな……そんな感じで……」
雫の言葉に、私はハッとして血の気が引いた。
思い返せば、最近の私は以前より明らかに意識がはっきりしていて、深夜に湊人くんたちと話していても、全く眠気を感じずにずっと起きていられるようになっていた。
雫の主な活動時間であるはずの夜でも、私が主導権を握り続けていられる。
それは私が健康になった証拠ではなく……雫が消えかけている兆候だったとしたら。
「それでさ……ここからが本題なんだけど……」
雫は震える声で、あまりにも残酷な願いを口にする。
「もし、あたしが消えちゃったら……たぶん……ううん、絶対に湊人は悲しむと思うんだ。だから……少しの間でいいから澪があたしのフリをして湊人の事、支えてあげてほしいんだよ……せめて、湊人の心がちゃんと安定してるってわかるその時までは……」
「雫のフリ?!なっ、なに言ってんのよ縁起でもない?!それは、あなたがもっと気合を入れて頑張ればいいだけでしょ?!」
私はたまらず立ち上がり、彼女に向かって声を荒げていた。
そんな馬鹿げた提案、到底受け入れられるはずがない。
「それができればいいんだけどね……えへへっ……でも、なんか上手くいかないんだよ、澪」
「……雫っ……」
力なく笑う彼女の姿は以前のようなくっきりとしたものではなく、輪郭が少しだけ透けているようで……。
彼女は力なく話を続けてゆく。
「あたしだってもっと湊人とか澪と一緒にいたいし、こうなるとしても、湊人にちゃんと話して綺麗に身を引きたいよ。でも……そこまでもう、保たなそうなんだよね」
「………………」
「澪にこんなこと頼むなんて最低だってわかってる……でも、湊人の為にお願い出来ないかな?あたしが今の湊人にこの事を素直に言ったら……あいつがどうなるか澪もわかってるでしょ?」
「……っ……」
痛いほど、わかっていた。
あんなにも優しくて、お人好しで、真っ直ぐな湊人くんが雫の消滅を受け入れられるはずがない。
彼が雫に向けていたあの無防備な笑顔が、絶望に染まってしまう姿が容易に想像できてしまい、私の心は激しく締め付けられてゆく。
「これからは、澪が湊人の事……幸せにしてあげてよ。それで、湊人がこの事を受け入れられそうになった時、真実を話してあげて。あたしも湊人に向けて、本当の事を書いた遺書だけは残しておくからさ……」
「ばっ、バカじゃないの!?そんなのただの自分勝手じゃない!!嫌よっ!!問題を先延ばしにしているだけなんだから!」
「そうだけど……でも、湊人がちゃんとこの事を受け入れてくれるまで、あたしが消えない保証なんてないんだよ?もし中途半端に彼にこの事を伝えてあたしが消えたら……それこそマズくなっちゃうかもしれないよ……」
まるで何もかも見透かしているかのような彼女の言葉に、声が出ない。
「もし、そんな感じであたしが消えたら、湊人がショックすぎて……そのせいで澪の事を真正面から見れなくなったりしたら……そしたら澪、また一人になっちゃうよ。そんなの……嫌だよ……」
彼女の言うことは、悲しいが一理ある。そう思えた。
彼がそんな事になったら……私の言葉はもう、彼に届かなくなってしまうかもしれない。
「…………っ……でも……」
「お願い。あたしの最後のわがままだから……」——
そこから何時間も、泣きながらの押し問答は続いた。
雫の身勝手な願いへの怒り、彼女が消えてしまうことへの恐怖、そして『湊人くんの隣にいられる』という甘い誘惑への自己嫌悪。
でも、結局。私は雫の言葉を呑んでしまった。
だって、他でもない大好きな人の心を守るためだから。
なにより、影から私を支え続けてくれた彼女が告げた、たった一つの、最初で最後のお願いだったから。それを無碍に出来るほど、私は冷酷な人間にはなれなかった。
そもそも幼い私の心では、この状況における正解を導けるはずもない。
それが悔しかった——
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そして、運命の日——
実際、私は上手く雫のフリが出来ていたのだと思う。
なぜか、彼女の行動の仕方が手に取るようにわかってしまうのだ。
意識しなくても。
だから、湊人くんは最後まで私が澪であることに気づいていなかった。
そして、彼の部屋の中で気づけば甘い空気が作られ、私がそれにほだされて、ついキスをせがんでしまったその折——
私の奥底で、ドス黒いエゴが激しく疼いた。
雫のフリをして彼から愛情を受け取るのは、耐えられないほど辛かったのだ。
私は雫の代用品じゃない。私は朝凪澪なんだから。
だから、バカな私は限界を迎え、自分の感情に正直になってしまった。
私は、大好きな湊人くんに朝凪澪として愛してほしかった。
朝凪澪として、彼に抱かれたかった。
……彼に……私の名前を呼んでほしかった……。
そう思った時には、私は完全に理性を失って暴走していた。
ただ、がむしゃらに彼を求めて。心の内を全て吐き出して。
消えかけている雫の命を『私が消す』という最低の脅し文句に使ってまで、彼を無理やり支配し、抱かれた。『私だけを愛して』と懇願しながら。
最低だ。
あんな真似をして、雫の優しくて悲しい作戦を最悪の形で台無しにしてしまった——
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そして、今——
夕暮れの公園で、雫が最後の力を振り絞って湊人くんにこの事実を話している。
その内容や彼女の悲痛な感情が、全て私の内側にダイレクトに入り込んでくる。
そう、まるで雫と私が完全に混ざり合っていくような。
そんな恐ろしい感覚が身体を巡っている。
雫しか知らなかった夜の公園での思い出や、ホテルでの甘い記憶のあれこれも、全部私が直接体験したかのように鮮明に思い出せる。
……どうやら雫はもう……本当に……。
私は、どうすればいいんだろう?
雫がいなくなったら、どんな顔をして湊人くんに接すればいいんだろう?
彼から雫を奪ったのは、幸せを感じてしまった私なんだ。
なにもかも正解がわからないまま、残酷に時間が過ぎてゆく。
『…………消える?!……雫、お前なに言って?!……』
外の世界から、湊人くんの悲痛な焦りの声が聞こえる。
私はそれを見えない場所で聞きながら、ただ自分の無力さと身勝手さを呪い、ひたすらに自分を恨んでいることしかできなかった——




