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第4話 ホテルでの一幕——

シャワーの乾いた音だけが、無機質に室内に反響している。

視線を巡らせれば、そこはいかにもラブホという言葉を煮詰めたような空間が

広がる。


その中心。


無駄に広いベッドの端に、申し訳程度にタオルを腰に巻いて腰を下ろし、俺は刻々と迫るその瞬間を前に、緊張から小さくため息を吐き出した——


あれから俺は、雫の後を追い、そして、手を取った。

その瞬間の雫の顔は、おそらく一生俺の脳裏に焼き付いて離れないだろう。


それから先は、あれよあれよと事が進み……部屋を選び、気まずい雰囲気を吹き飛ばすように、いつもの調子でくだらない会話を重ね……気づけば、互いにシャワーを浴びるという運びに。


先にシャワーを終えた俺は、向こうから聞こえてくる、シャワーの音を聞きながら、悶々と自分と向き合っていた。


「ふぅぅ……マジでなにやってんだろ俺……なんて、今さらだよな……」


口から漏れ出た情けない言葉。

けれど、心のどこかではその曖昧さに溺れ、胸を抉る失恋の寂しさをかき消したいという、あまりに醜い、それでいて切実な欲望が湧いているのもまた事実だ。


そこに、初めて足を踏み入れたラブホの非日常的な空気のせいか、どこか浮ついた高揚感までもが加わり、俺の脳内はゴチャついたまま。


やがて、風呂場から聞こえていたシャワーの音がパタリと止む。

直後、ドアが開くカチャッという軽い音が室内に響き、俺の背筋に静かな電流が走る。


「ふぅぅぅ……おまたせ湊人っ♪なんかボディーソープとかめっちゃいい匂いだねここ……しかもマウスウォッシュとかも置いてあるとか、ラブホってスゴイんだねぇ。あたし初めて入ったよ♪」


その声の方へ、ゆっくり顔を向ける。

そこには、先程までのシリアスな空気感などどこへ捨ててきたのか、俺の葛藤を嘲笑うかのようにいつもの調子で話しかけてくる雫がいた。

そんな彼女は、大判のバスタオルを胸の上で無造作に巻き、濡れた足音を響かせながらトコトコとこちらに向けて歩いてきている。


「むしろ雫が初めてじゃなかったらビビるわ……」


脳を通さず、ボソッと漏れ出た本音。


「あっ!湊人あたしの事バカにしたでしょ!?あたしだってけっこうモテるんだよ!?」


——まあ、なんとなくそれはわかってた。この容姿だ。しかも、朝凪と違って人懐っこいときている。むしろ、そんな彼女が俺と一緒にココにいるのが不思議なくらい。


「バカにしてないって!初めてじゃないって言われたらどう反応していいかわからないってだけだよ!」

「んん〜ホントぉ?まあいいやっ……じゃあ、湊人はこういうトコ初めてなの?」


「当たり前だろっ!?お前に恋愛相談してたって事は、こんなとこに誘う相手はいないってことなんだから……」

「ほう……確かに……そう言われてみればそっかww」

「おい雫!?なに笑ってんだよっ」


コロコロ笑いながらどこか腑に落ちたような表情を見せた雫は、当たり前のような顔をして俺のすぐ隣に腰を下ろしてくる。


ずしりと重みでベッドが沈み、彼女の纏う湯気を孕んだ体温が流れ込んできて、俺は反射的に全身を強張らせてしまう。


照明の下で見る彼女は、湯上がり特有の血色が頬に滲み、濡れて束になった黒髪が白く透き通るような首筋に貼りついている。

そのあまりの色っぽさに、俺は視線をどこに置けばいいかわからなくなってしまう。


そもそも街灯の下ではなく、こうして明るい照明の下で彼女を観察するのは初めてだ。

いつも、バイト終わりにあの公園で待ち合わせて無駄話をしたり、オンライン上で一緒にゲームに興じたりするだけの関係だったから。


考えてみれば俺は、雫のことを知っているようで何も知らない。

同じ学年である事と一人っ子ということ以外、どこの高校で、どこに住んでいて、どんな日常を送っているのか……そもそも、彼女の名字すら知らない。

そんな歪な関係。


けれど、その近すぎない距離感こそが、俺にとって最も心地よく話せる理由だったはずなのだが……その境界線が、今は嘘みたいに崩壊している。


「「ふぅぅぅぅぅ…………」」


互いに視線を逸らしたまま、不意に訪れた沈黙。

そこに、重なり合うようなため息が落ちる。

無理もない。

さっきまでただの友達だった男女が、今はタオル一枚という極限の軽装で、ラブホのベッドに肩を並べているんだから。


そして、この沈黙の先にあるのはおそらく——


「……湊人っ」


雫が意を決したように無言を破った、その瞬間。

ベッドがさらに大きくたわみ、二人の距離が限界を超えて近づいた。

それに呼応するように、指先が微かに触れ合ってしまう。


「「……あっ……」」


またしても声が重なる。


思わず横にいる雫の方へと視線を飛ばすと、彼女は耳まで真っ赤にして視線を泳がせていた。

その場に満ちた甘ったるい空気に背中を押され、どちらからともなく、絡まり合うように指が結ばれてゆく。


「ねぇ湊人……もう、わかってるよね?……」

「ああ、いちおうな……」


顔を伏せ、照れ隠しのように小さく笑う雫。


「あたしね、こういう雰囲気苦手でさ……だから、いつもみたいに楽しくやりたいんだ。その……そういうコトする時も……」

「そっか……わかったよ。努力はする……」

「じゃあさ……早速しちゃおっか?えっち……」

「…………」


軽口を叩くように、笑いながら言ってみせる雫。

けれど、それはきっと、彼女なりの強がりなのだろう。

だが、俺にはその一線を越える前に、どうしても確かめておかなければならないことがあった。


これ以上、雫を傷つけないために。


「なぁ雫……これだけは聞いてもいいか?」

「なに?」

「雫は……その、本当にいいのか?こんな流れになっちゃって言うのもあれだけど……俺で?たぶんお前、初めてだろ?」


俺の問いかけを受けた瞬間、雫は一瞬だけ丸く目を見開いた。

けれど、すぐにいつもの茶化すような笑みを浮かべ——


「…………ぷぷっww湊人まじめぇww」

「なっ……なに笑ってんんだよ!?もしかしてお前初めてじゃない?!」

「……そうだったら、湊人はどうするの?」

「どうするって……そりゃ……えっと……」


雫はわざと意地悪く目を細め、俺の反応を楽しむようにじっと見つめてくる。

けれど、俺はその問いに返すためのまともな答えを一つも持っていなかった。


「…………えへへ〜ww困ってる困ってるww嘘だよ嘘っ!からかっただけ♪あたしは初めてだよっ!」


ふざけ返す気力もなく、俺はただ大きく胸を撫で下ろしていた。

雫のプライベートがどうであったかなんて、俺には何の関係もないはずなのに。


「おっ……おまえなぁ……マジで心臓に悪いから止めてくれ……」

「ごめんごめんっ♪つい面白くってww」


軽口を叩き合いながら、雫は一度だけ深く、吐き出すように息をつく。

その途端に、彼女を覆っていた笑いがふっと剥がれ落ち、目元に真剣な温度が戻り、彼女は呟くように言った。


「それとさ、あたしキスも初めてだったし……だから、この先もあたしは湊人がいいな……」

「……えっ……雫っ……おまっ……マジか……」


——おい、あれ雫もファーストキスだったのか……?!


「えへへっ♪湊人びっくりして固まってるぅww」

「そりゃ……そうだろ……」

「……じゃあ湊人、そういうことだから……しよっ?お互い、色んな嫌なこと全部忘れちゃおうよ……ね?」


そう言って、曇りない瞳で俺を見つめてくる雫は、あまりにも可愛かった——抱きしめたくなるほど、残酷に。


けれど、俺の心の片隅には小さな棘のような違和感が引っかかっていた。


——《《お互い》》、嫌なことを忘れる。


雫は一体、どんな嫌なことを背中に背負っているのだろうか。

その問いを口にするには、今の空気はあまりに甘すぎた。


俺はただ、彼女の華奢な手を優しく握り返し、彼女の選んだ未来に身を委ねることしかできなかった――


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