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第3話 2つの選択——

雫に連れられ向かったのは、先程までの静謐な公園とは打って変わって、暴力的なまでの色彩が渦巻く繁華街だった——


今日は金曜日の夜ということもあり、誰もが羽目を外しても許されるとでも錯覚しているかのような、無責任な熱狂がそこにある。


雫は、その喧騒の中を、俺の手を引いたまま迷いなく突き進んでいく。


俺たちは無言のまま、幸福そうな他人の合間を縫って歩き続け、気づけば人通りがまばらになった、とある場所へとたどり着いていた。


俺の目の前に現れたのは、どこか周りの建物とは決定的に違う、異様な雰囲気を放つ建造物。

そこに掲げられた看板には【ホテル海風】という、このシチュエーションにはあまりに安直で、それでいて残酷な文字が煌々と浮かび上がっていた。


「着いたよ湊人……ここ年齢確認もない穴場なんだって。入ろ?」

「おいっ雫……!?おまっ……ココって……」


紛れもないラブホテルが、俺たちの目の前に鎮座している。

そこに躊躇もなく足を踏み入れようとする雫を、俺は反射的に、けれど必死に手を引いて止めていた。


雫が口にした慰めるという優しい単語と、この欲望を具現化したような場所が、俺の壊れかけの脳内で最悪な形で結びついてしまう。

ここに入るということは、すなわち——


「ちょっと待てって!行くってラブホのことだったのか!?雫、流石にここに一緒に入るのはマズイだろ……?!」

「なんで?別にあたしたち男女だし、はたから見ればカップルじゃん」

「なんでってお前……わかんだろ!?……ここで何すんだよ?!」


一緒にゲームをしたり、映画を観て朝までワイワイ騒ぐ。

そんな、いつもの雫が言いそうな、救いようのないほどくだらない回答を、彼女特有のふざけた笑顔で言ってくれることを、俺は心の底から期待していた。


ここで今までの行動がすべて特大級の冗談になってくれたなら、この惨めな失恋の夜を、笑い話にできるから。


けれど、雫の唇から溢れたのは、そんな俺の淡い期待を無慈悲に踏みつける言葉だった。


「そんなの……決まってんじゃん。湊人とえっちするんだよ……慰めてあげるっていったじゃん」

「おまっ……正気か?!さっきからどうしちゃったんだよ、急に!?」

「…………っ」


逃げ腰な俺の情けない声に、雫の表情が微かに揺れる。

それでも、彼女の手は未だ俺の手を離そうとはせず、まるで凍えているかのように微かに震えていた。

その直後、夜の静寂を切り裂いて落ちてきたのは、雫の剥き出しの感情そのもの。


「…………ばか……湊人のバカッ!鈍感っ!あたしは正気だよ!正気でここに来てんのっ!」


繁華街に響き渡る雫の絶叫。

不審そうに振り向いた通行人の冷ややかな視線が一瞬こちらに突き刺さり、そして興味を失ったように逸れていく。

その無関心さが、余計に今の俺を息苦しくさせた。


こちらを向いた雫の頬には、先程止まったはずの涙が、再び明らかな航跡を描いて伝っている。


泣くなよ、なんて言えない。

彼女をこんなにも泣かせている原因が、他ならぬ俺自身であると、嫌というほど分かっているから。


俺がそんな彼女にかけるべき正解の言葉を必死に探していた、その時。

俺の手が強く引かれ、視界が雫の温度へと引き寄せられる――


——……ちゅっ……


いつしか、激情の勢いのままに俺に抱きつき、もう一度唇を重ねてきた雫。

彼女と胸がぶつかり、パーカー越しに伝わる柔らかい圧が俺の思考を麻痺させる。

一気に移ってくる彼女の体温が、俺の逃げ道を塞いでいく。


「……っ……?!」


今度のキスは、先程の公園のものとは決定的に違っていた。

感情をそのまま流し込むような激しさで舌が絡み合い、俺はまたもや、呼吸という基本的な動作すら忘れてしまった。


柔らかい香水の匂いが間近に迫り、涙の塩気がほんの一瞬だけ、舌先に触れる。

雫の指が俺の背中に食い込み、まるで俺という存在を自分のものとして固定しようとするかのように引き寄せてくる。


——ちゅっ……ちゅくっ……。


小さなリップノイズが、密室のような二人の空間に響き、脳が蕩けそうな感覚に見舞われる。

拒めない。拒むべきだと、理性のどこかが必死に警告を発しているのに。

朝凪にフラれた直後の、空洞のようになった俺の心は、皮肉にもこの代替品のような熱を激しく求めているみたいだった。


それから暫くの間、互いの存在を確かめ合うかのように舌が動き、やっとのことで雫の唇が離れていった。

名残惜しそうに透明な糸が引き、雫は俺に寄り添ったまま、今にも消えてしまいそうな儚げな表情で言葉を紡ぐ。


「……ごめん湊人、バカって言って……でも、そういうとこだよ?湊人」

「…………雫……」

「これでわかった?あたしの気持ち……」

「わかったって……それは、うん……たぶん……」


胸が、痛い。適切な言葉がどこにも見当たらない。

雫の頬を流れる一筋の涙が、街灯の冷たい光を反射して白く光る。

さっきまでの激情は嘘みたいに影を潜め、彼女は小さく肩を震わせていた。


「ねぇ、湊人……あたしじゃダメ?湊人をフッたその人の事なんて忘れて……あたしの事見てよ……あたしなら湊人のこと、全部受け入れてあげるよ?」


その一言に、俺の喉がきゅっと収縮する。

そんなこと、これまでの人生で一度だって考えたこともなかった。

なにより、もう決定的にフラれたはずなのに、俺の中でまだ生き永らえている朝凪の影が、亡霊のようについてきている気がして。


「湊人。あたしとはお試しでもいいから……だからホテル行こ?付き合うとか、そういうのは一旦置いといてさ……そこで全部忘れちゃおうよ……嫌なこと……あたしと一緒に……」

「……っ……」


俺達の間に、重苦しい静寂が満ちた。

雫の瞳と視線がぶつかり、逸らすことすら許されない。


――雫は俺の大事な女友達で、唯一の恋愛相談役で……俺は彼女のことを、本当はどう思っているんだ?


どうやら俺の脳は、これ以上の痛みを回避するために、都合よく現実から目を逸らし続けているらしい。

そんな情けない俺に向かって、雫は乱れた息を整えてから、そっと2つの選択肢を告げる。


「わかった、じゃあこうしよ?……湊人が少しでも、あたしのこといいなって思ってるなら、このまま付いてきて?でも、もし湊人が本当に嫌ならあたしは諦めるよ。だけど、湊人が付いてきてくれないなら、あたしたちの関係も今日で終わりにしよ?こんな事しちゃったし、あたし、これからどうやって湊人と顔合わせていいかわからないからさ……」


弱々しい言葉が、ネオンの明かりに溶けて消えていく。

雫は一度だけ、俺に縋るような視線を向けてから、繋いでいた指を解いた。

それから、ゆっくりと俺から距離を置き、ホテルの入口へと背を向けて歩き出す。


俺はいつの間にか、究極の選択を迫られていた。


どうすればいい。俺にとって雫はかけがえのない友達だ。だから、この積み上げてきた友情だけは大事にしたい。

でも、このまま彼女を見送ってしまえば、朝凪だけでなく、雫との関係までもが完全に消失してしまう。それは――


それは、心が弱っている今の俺にとっては、あまりに耐えがたいものだった。

自分の人生のすべてが、一晩でリセットされてしまうようで。


雫を行かせたら、何かが終わる。それだけは理解できた。

終わってしまったら、俺はまた一人であの放課後の西日を反芻するだけだ。


迷っている間も、刻一刻と雫の影が遠ざかってゆく。


それを見つめながら俺は、ひとつの歪な未来を選び取った。

たとえそれが、後戻りできない過ちだったとしても、後悔だけはしないと心に決めて。


俺は一歩、踏み出す。

予想さえできない、けれど確実に昨日までとは違う明日に向けて――


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