第38話 永遠の3分間——
シーツが微かに擦れる音が、静まり返った部屋にやけに大きく、そして生々しく響く。
ベッドに押し倒された俺の視界には、俺の上に覆いかぶさるようにして両手をつき、上から真っ直ぐに見下ろしてくる少女の姿が映っている。
その表情には、普段の雫が見せるような無邪気で人懐っこい笑顔は一切ない。
彼女が顔を寄せるたび、長い黒髪がさらりとこぼれ落ちて俺の頬をくすぐる。
その髪の奥で揺れる瞳はひどく切実で……どこか深い絶望と悲しげな色を帯びていた——
「ねぇ、湊人くん……私は……どっちかわかる?」
甘さを孕んだ、けれど背筋が凍るほどひんやりとした声
俺はその静かな問いに、心臓を鷲掴みにされたような悪寒を感じた。
「…………なっ……何言ってんだよ……冗談はよせって……」
その先の、彼女の名前が喉から出てこない。
俺は自分の動揺を悟られまいと乾いた笑いを作って誤魔化そうとするが、俺を上から縫い留めるような彼女の鋭い視線は、決して俺を逃がしてはくれなかった。
「……冗談?私は本気よ……?」
「…………」
至近距離で見つめ返す、その双眸の奥底にあるもの。
それは間違いなく、かつて俺を冷たく突き放した『彼女』自身の強い意志だった。
いつも俺の隣で騒いで、甘えていた雫の奔放な気配が、この空間から綺麗さっぱり消え失せている。
「もしかして……朝凪……なのか?」
「……そうよ……ちゃんとわかってくれてたんだ……」
俺が恐る恐るその名前を口にすると、ふわりと、彼女の唇に儚くも妖艶な笑みが浮かんだ。
「さっきまで雫で、今変わったのか?」
「ふふっ……そっか……湊人くんはそう感じてたんだ……」
「そう……感じてた……?」
不敵に笑うようでいて、その実、ひどく傷ついたように自嘲的に笑う朝凪。
そのアンバランスな表情を見た瞬間、俺の心臓がドクンと嫌な音を立て、最悪の予感が脳内を駆け巡り始めた。
「私……上手く雫の事、演じられてたかしら? 案外、あの子の言うことも正しかったのね……」
「演じる?正しい……?朝凪……どういう事だよ?」
俺の混乱など意に介さず、朝凪はゆっくりと、さらに俺の顔へと自分の顔を近づけてくる。 彼女の首元から漂うのは、さっきまでと同じはずなのに、なぜかひどく重たく、むせ返るように甘く感じるシャンプーの香りだった。
「今日は……ずっと私のままだったのよ?雫は、一度も出てきてないわ」
「……えっ……」
心臓が、もう一度ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
今日一日、放課後からずっと俺の隣で笑って、手を繋いで、俺の部屋に来て楽しそうにして……キスまでしたのは雫じゃなかった?
ずっと朝凪が俺を欺き、雫のフリをして俺と過ごしていたというのか。
「湊人くん……このまま私を抱いてくれない?……ねぇ……エッチしよ?」
唐突な、そしてあまりにも直接的な誘惑の言葉。
朝凪の顔がさらに近づき、彼女の少し開いた桜色の唇が、俺の唇を塞ごうと重なりかけたその瞬間——
「……朝凪っ……」
俺は無意識に、反射的に顔を横に背け、そのキスを避けてしまった。
「「………………」」
空を切った朝凪の唇。
部屋の空気が一瞬で凍りついたように冷たくなる。
顔を背けた俺の肩先を見つめる朝凪の瞳が、みるみるうちに深い絶望の色に染まっていくのがわかる。
……どうして……俺は避けたんだ……?
「……何やってんだよ朝凪?!なんで雫のフリなんかして……俺と……」
俺が混乱のままに声を荒げると、朝凪はポツリと絞り出すような声で呟く。
「どうして……どうして私の事は抱いてくれないの……?どうしてなのよ……」
「それはっ——」
「ずっと……ずっとあなたの事が好きだった!!」
その理由は、朝凪の悲痛な叫びに強引に遮られた。
静寂の部屋を切り裂くような、あまりにも重くて痛々しい叫び。
学校での冷たい茨姫の面影は既にそこにはなく……ただ一人の、恋に狂い、傷ついた普通の女の子がそこにいる。
そして、彼女はボロボロと抑え込んでいた感情を決壊させていった。
「あなたと最初に出会ったのも私!あなたが最初に告白したのも私!あなたの事を最初に好きになったのも私!!……雫じゃない!!澪なのっ!!」
「……っ……」
「全部私が最初なの!!私が先にあなたのこと好きだった!!なのになんで……なんで湊人くんは雫ばっかり……」
「…………」
まるで血を吐くような朝凪の言葉に、俺は息を呑むことしかできなかった。
こんな取り乱した朝凪を、俺は見たことがない。
彼女の大きな瞳から限界を迎えた大粒の涙がポロポロと零れ落ちはじめ、その雫は俺の頬に温かい滴となって弾けて消える。
「なんで……なんで私の事を見てくれないの?今でも大好きなのに……なんで……」
「……朝凪……」
ぽろぽろと子供のように泣きじゃくる朝凪を前に、俺は完全に言葉を失い、喉が干からびて声が出せない。
すると、朝凪は泣きながら再び動き出し、俺の胸にすがりつくように強く抱きしめてきた。
「ねぇ……お願い湊人くん……私のことも抱いて……私の事も認めて……私のことも愛して……?」
縋るように、命綱を握るように、朝凪の細い腕が俺の首に回される。
涙でぐしゃぐしゃになった美しい顔で、プライドも何もかも投げ捨てて必死に俺に懇願してくる彼女。
だが。それでも俺の心の中にある雫という存在への想いと誠実さが、どうしてもその朝凪の誘惑にすぐに頷くことを許さない。
「朝凪……そっ、それは——」
俺が拒絶の言葉を口にしかけた瞬間。彼女の口から信じられない言葉が。
「それが出来ないなら……私……雫の事……《《消す》》から……」
ピタリと、俺の思考が完全に停止した。
その声色は先ほどまでの悲痛な響きとは打って変わり、地を這うように低く、そしてドロドロとした強烈な嫉妬を孕んでいて。
「雫を……消す……?」
「雫は私の中に出来た別の人格よ……私が……私がこの病気を治療すれば……彼女は完全に消えるわ」
……病気……。
「おい……朝凪、本気でそれを言ってんのか……?」
見下ろしてくる彼女の瞳に宿っていたのは、愛憎が入り混じった、狂気にも似た暗い決意。
なんでそこまで……彼女は俺を。
「本気よっ!あなたが私を抱いてくれないなら……私を愛してくれないならっ……彼女を消すわっ!」
「……朝凪……それは……」
朝凪の疾患が治り、彼女が健康になるのは人としては間違いなく良いことだ。
でも、俺にとって雫という存在は……すでに俺の人生の一部であり、決して失いたくない光なのだ。
思考が激しく乱れパニックに陥りながらも、俺の口から無意識に出たのは……最悪に情けない言葉だった。
「頼む……やめてくれ……朝凪……彼女を消すなんて……」
俺の情けない懇願を聞いて、朝凪は涙で濡れた瞳をひどく妖しく、そして残酷に細めた。まるで、獲物の最大の弱点を完璧に握り潰した捕食者のように。
「なら?……私と……してくれる?」
「………………」
朝凪の冷たい手が俺のシャツの裾を捲り上げ、服の中に潜り込み素肌を直接這い始める。 その滑らかな指先が、腹部から胸板へとゆっくりとなぞり上げるたび、俺の身体は拒絶と快感の狭間でビクッと大きく跳ねた。
「あなたは……いつも私の身体は抱いてるじゃない……中身が少し違うだけで、やっている事は全く同じ事よ?」
「同じって、そんな……」
「私、沢山勉強したの……そういう事……だから、絶対あなたを満足させてあげられるわ……雫なんかより、絶対に……」
「ちがう……俺はそんなこと求めてるわけじゃ——」
必死に反論しようとした俺の口は、彼女の唇によって強引に塞がれた。
「……んっ……」
さっきのような寸止めではない。逃げ場の全くない深く濃厚なキス。
俺の唇をこじ開け、熱を帯びた舌が激しく絡み合い、甘く卑猥な水音が静かな部屋に響き渡る。
いつもの雫との甘いソレとは全く違う、朝凪自身の強烈な独占欲と情念が、キスの感触を通して直接俺の頭の中に暴力的に流れ込んでくる。
息も絶え絶えになりようやく唇が離れると、朝凪はとろけるような熱を帯び、それでいて俺の意思など有無を言わせぬ絶対的な瞳で俺を支配するように見下ろした。
銀色の唾液の糸が、二人の唇の間に艶かしく引かれている。
「湊人くん……しよ?」
「………………」——




