第37話 お家デートは焦燥と共に——
「おっ邪魔しまーすっ!!」
元気な声に続いて、ガチャッと無機質なドアの鍵が閉まる音が響く。
玄関でローファーをポイッと脱ぎ捨てると、彼女——雫は制服のプリーツスカートをふわりと揺らしながら、俺の聖域である6畳のワンルームへとあっさりと足を踏み入れた——
……ついに俺は、自分の部屋に女子を……しかも彼女を招き入れてしまった。
学校帰りのそのまんまの姿の雫。学校では見慣れたはずの制服。
けれど、それが今のこのプライベートな空間にあるという事実に、俺の心は激しくかき乱される。なんとも背徳的で、甘酸っぱい気分だ。
「ん〜……なんか思ってたより全然綺麗じゃん。もっとこう、男の子特有の何ていうか、独特の匂いとかがするかと思ってたのに。ちょっと残念……」
「雫お前なぁ……俺をなんだと思ってるんだよ。これでも一応、マメに掃除してるんだからな?」
「えっ……マジ?!湊人、几帳面過ぎん?」
「まっ、まあな……」
マメに掃除しているというのは、完全な嘘。たまたま数日前に勢いで掃除をしただけ。
つい数十分前、彼女から突然甘ったるい声で家に行きたいとおねだりされた瞬間。
俺の脳内はフル稼働して室内の状況を精密に思い出し、雫を招き入れても問題ないことを瞬時に確認済みではあるが……。
見られたらヤバい代物は全てデジタルへと移行し、幾重ものパスワードの奥底に封印されているし。
俺の部屋は、玄関から続く短い廊下にキッチンがあるタイプの典型的な学生向けワンルームだ。
部屋の奥にはベッドと小さなラグ、ローテーブル。壁際には勉強机という名のPCデスクが鎮座しており、ハンガーラックが一つあるだけという極めてシンプルな構成である。
いったん俺の部屋に鞄を置いた雫は、落ち着いて座ることもせずソワソワしながらあちこちを興味深そうに見渡している。
「あっ!!絶対あのクローゼットの中にあたしに見られちゃいけないやば〜い本とか隠してるんだ!」
「おいっ?!そこ勝手に開けるな!なんもないって!!」
ジト目でクローゼットの取っ手に手をかけようとする雫を、俺は慌てて背後から引き剥がす。
やばい本などは入っていないが、脱ぎ散らかした服がぐちゃぐちゃに突っ込まれているのは間違いないからだ。
「む〜!!湊人のケチッ!……でもさ、なんかいい部屋だね。なんだかんだ言って……あ、このPCデスクの上はすっごく湊人っぽーいwwゲーマー感が
ww」
そう言って、雫はブレザーの袖口から細い指先を覗かせながら、楽しそうに部屋を回っている。
俺はそんな彼女を落ち着かせるべく、すぐさまお茶の準備に取り掛かっていた。
「……ほら、麦茶しかないけどいいか?……とりあえず、適当に座ってくれよ」
俺が光の速さでローテーブルに2人分の麦茶の入ったグラスを乗せると、雫が部屋の見回りから満足げに返ってくる。
「ありがとっ!じゃあいただきま〜す!」
やっとのことでラグの上に座った雫が、グラスに手を伸ばしグイッと麦茶をあおる。
「あ〜、冷たくて美味しい……生き返るぅ!」
雫のニコニコの笑顔を見てほっと胸を撫で下ろした俺は、向かいに座ろうとラグの上に腰を下ろそうとした。
その時、雫は当然のように立ち上がって、俺のすぐ隣、肩と肩が触れ合いそうな距離へと近づいてきてピタリと陣取ってくる。
「……おいっ……いきなり近いな……」
「いいじゃん別に。それとも湊人は、あたしが隣にいるの嫌なの?」
そういう問題ではない。
ベッドしかないこの狭いワンルームで制服姿の彼女に隣にいられると、どうにも理性が削られて心が落ち着かないだけだ。
「嫌じゃないけど……お前の制服姿が見慣れなくてさ……」
「あははっwwたっ、確かに制服姿のあたしは見慣れないもんね〜wwでもさ、あたしは湊人といると落ち着くよ?」
雫は当然のようにコツンと俺の肩に自分の頭を預けてきた。
密着した肩から伝わってくる確かな体温と柔らかさ。
今日は香水を着けていないからか、朝凪のシャンプーの甘い香りがよりダイレクトに鼻腔をくすぐってくる。
そして何より、いつもと違うのはラグの上に投げ出された彼女の足だ。
学校指定の黒タイツの微かな肌の透け感のそれが、俺の脚にほんのりと熱を伝えながら密着していて……強烈に理性を削ってくる。
それから数十分だろうか。
他愛のない馬鹿な会話を続けていると、窓の外は既に茜色に染まっていた。
そんな折——
「……ねぇ、湊人……」
「……なんだよ、急に……」
ふとこちらを見つめた雫は、どこかもじもじと指先を弄りながら、上目遣いで。
「あたし、なんか今日……湊人とすっごく、くっつきたい気分なんだ……」
「……くっつきたいって……おまえ……」
先ほどまで弾むようだった雫の声が、ふと湿度を帯びた甘いトーンに変わった。
持っていたグラスをテーブルに置いた彼女の手が、俺のシャツの袖をそっと摘まむ。
「あ〜、照れてる〜湊人ww」
「……そりゃそうだろ……」
俺の顔が急激に熱を持ったのを察したのか、雫は俺の反応を楽しそうにからかってくる。 だが、その裏にある彼女の視線は熱を帯びていて……。
「……既にくっつきすぎだろ……」
「じゃあ、離れたほうがいい?」
「……それは……」
急に、部屋の空気が濃厚なものに変わった気がした。
俺の肩に預けられていた顔がゆっくりと上を向き、薄暗くなり始めた部屋の中で、彼女の潤んだ瞳が俺を真っ直ぐに射抜いていた。
次いで、少しだけ開いた桜色の唇から甘い吐息が漏れる。
「……ねぇ……ちゅー、しよっか……?」
挑発するような、それでいて許しを乞うような雫の妖艶な囁きに、俺が応える暇もなく雫の顔がゆっくりと近づいてくる。
それに抗えるはずもなく……俺はその柔らかい唇に、自分の唇を重ねた。
「……んっ……」
微かな吐息が彼女から漏れ出し、世界から一切のノイズが消え去ると、重なり合う唇の隙間から雫の熱い舌が滑り込んでくる。
「……んっ……湊人……」
息継ぎの隙間もないほど、何度も何度も角度を変えてキスが繰り返されてゆく。
彼女の甘い吐息が俺の口内に流れ込み、俺の背中に回された雫の腕がシャツ越しに俺の体温を確かめるように強く、強くしがみついてきた。
どうしてこうなったのかはわからないが、これが恋人と過ごす秘密の放課後というものなんだろうか。
「……はぁ……湊人…………」
銀の糸を引きながら唇を離すと、雫は完全に潤みきった眼差しで俺を見つめていた。
荒い息を吐きながら、彼女の小さな指先が俺の胸元をなぞる。
「……ねえ、湊人……」
「……ん?」
「ベッド……借りちゃダメ?」
雫の視線は、部屋の隅にある俺の万年床であるベッドへと向けられていた。
それは、あまりにも明確で、わかりやすい意味を持った誘いで。
「べっ……別にいいけど……」
「よかった……じゃあ、行きましょ……?」
熱を孕んだ声で囁かれた俺は、ただ無言で頷くことしかできなかった。
立ち上がった彼女は俺の手を引き、熱に浮かされたようなふらつく足取りでベッドへと向かってゆく。
ベッドに二人の体重をかけると、安物のスプリングが小さく軋む音が静かな部屋に響き、流れるままにポニーテールを解いた雫が俺の肩を押し、コロンとベッドに押し倒してきた。
自然と俺の上に跨るような体勢になった彼女の長い黒髪が、俺の顔にフワリとかかる。
そんなシチュエーションの中——
「ねえ、湊人——」
その一言の後、彼女の口角が微かに釣り上がり、震えているのが見えた。
それは、今まで俺に向けられていた雫の無邪気な笑みとは違う。何か。
ベッドのシーツを掴む彼女の指先にグッと力がこもる。
彼女は俺に顔を寄せ、甘く、そして微かに震える声で問いを投げかけてきた。
「いまあなたの前にいる私は……雫と澪……どっちだと思う?」
「…………えっ……?」
いま目の前で小さく笑っているその少女の問いに、俺は完全に声が出せなくなる。
なぜ今そんな事を聞くんだ?ただの冗談か?…………目の前にいるのは、誰だ?
しばらく、俺は答えを見失ったまま沈黙の中に身を置いていた。
わからない……何も言えない……考えたくない……。
彼女の瞳の中に広がる底知れない感情の波。
俺は、それにただ身動きも取れず呑み込まれていく——




