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第32話 茨姫が朝凪澪になる時——

そこはまるで都会の喧騒から切り離されたオアシスのように、落ち着いたクラシックが流れるシックなカフェだった。

対面するテーブルの向こう側には、俺に向けて柔らかく微笑む一人の美女、朝凪澪がいる——


俺と朝凪は、家電量販店で俺のオタク知識を存分に垂れ流した結果、無事に彼女の念願であったゲーミングPCを買い終え、今は繁華街の喧騒から少し外れたこの隠れ家的なカフェで休憩していた。


今日の改札前の空気はどこへやら。一緒に過ごす時間と比例するように、いつの間にか俺達の間を隔てていた見えない壁は消え去り、まるで本当のカップルのように、ごく自然に会話が出来るようになっていた。


「まさか、朝凪があんな高いパソコン即決するなんてな……」

「うふふっ、そう?まあ今持っていたノートパソコンはだいぶ古くなっちゃってたし、普通に高性能なパソコンとして使えるならいいかなって思って両親に相談したら、好きなの買いなさいって言ってくれたのよ」


「凄いな、朝凪の親御さん……」

「そう?まあ……両親どっちも医者なのよ。そういう点では恵まれてるわね……私」

「えっ……マジで凄い家庭なんだな」


そういえば以前、雫が夜の公園で『うちはちょっと厳しい家庭だから』と、ちょろっとこぼしていた気がするが……完全に合点がいった。

それに、彼女が学年トップの頭脳を持ち合わせている理由も、その恵まれた環境と無縁ではないのだろう


「でも、どうにかパソコン買えてよかったわ。私、優柔不断な所があるし、知識も少ないから一人じゃたぶん買えなかったし……湊人くん本当にありがとう」

「そんな。朝凪もだいぶパソコン詳しかったじゃないか……ぶっちゃけびっくりしたぞ?」


俺の言葉は嘘ではない。朝凪は予想以上にPCのスペックや専門用語に詳しかった。

その理由は多分……。


「まあ、事前に湊人くんの趣味とかの資料を色々読まされていたし、そのおかげかもしれないわね……これだけは舟橋くんに感謝しないと」

「そういえば朝凪……PC雑誌机の上に積んで持ってたもんな」

「そうよ……専門用語ばっかりでけっこう読むの大変だったのよ?あれ」


お互いの顔を見合わせ、俺たちは自然と小さく吹き出して笑い合った。

朝凪は目の前に置かれたオシャレなグラスを手に取り、カフェラテで優雅に喉を潤す。


「でもこれで、湊人くんとやっと一緒にゲームできるようになったわ」

「朝凪……」


グラスの縁から唇を離し、小さく嬉しそうに笑う朝凪。

俺の趣味に合わせようとしてくれる、その健気な彼女の努力は素直に嬉しい。

でも、俺の心の奥底には少しだけ拭いきれない不安があった。

それは、朝凪自身が本当にそれがやりたいことなのかという根本的な疑問だ。


「あのさ……気を悪くしたら悪いんだけど……なんでもかんでも無理して俺に合わせようとしなくてもいいんだぞ?朝凪がやりたいことしたって……」

「……やりたい事?」

「そう。朝凪のやりたいことだよ……なにか無いのか?趣味とか……」


俺の問いかけに朝凪は少しだけ目を伏せ、カップの縁を指先でなぞりながら静かに考え込む。


「そうね……それが実は、あまり思い当たらないのよ。というかずっと一人で、深く人と関わって来なかったし……そのせいで自分が何をしたいのか余計わからなくて……時間があれば、ただ勉強とかばっかだったしね……」


ポツリとこぼされた言葉。その横顔は少しだけ寂しそうに見えた。

俺は咄嗟に自分の無神経な質問を後悔し、慌ててフォローを入れる。

せっかくの楽しいデートに水を差してしまった気がして。


「そっ……そうなのか……ごめん、変なこと言って……」


俺が申し訳なさそうに頭を下げるのを遮るように朝凪は顔を上げ、花が咲いたような優しい笑顔で返してくれた。


「ううん、いいのよ……むしろ、そうやっていつも心配してくれてありがとう、湊人くん」

「どっ……どういたしまして……」


真っ直ぐな感謝の言葉をぶつけられ、俺は照れくさくなってつい頭を掻いてしまった。

すると朝凪は、少しだけ改まったように背筋を正し、そのキラキラとした瞳で俺の目を真っ直ぐに見つめ返してくる。


「そういえば……私ちゃんと湊人くんに謝ってなかったわ……」

「謝る?」

「そう。ずっと……ずっと私の事、気にかけてくれてたのに。冷たくして、酷いこと言って……本当にごめんなさい」


俺を突き放していた過去の自分を反省するように、朝凪はペコリと頭を下げた。

そんな彼女の姿に、俺は慌てて両手を振る。


「ちょっ、ちょっと朝凪?!そんな急に謝らないでくれよ!?俺は大丈夫だって!しかも朝凪にはちゃんと理由もあったんだし……」


あの不器用な態度の裏に、彼女なりの怯えや葛藤があったことは今の俺にはよくわかっている。だからこそ、彼女を責める気など微塵もない。


「私ね……湊人くんが周りの人と私を仲良くさせようとしてくれたり、一人でいる時いつも話しかけてくれたの……本当は凄く嬉しかったの。言葉には出せなかったけど……だから今、こうしてちゃんと言えて嬉しいわ」

「そうか、朝凪……それはよかった」


俺の目の前で憑き物が落ちたように柔らかく、そしてとびきり可愛らしく笑う朝凪。

その圧倒的な美しさに、俺はドキリとして言葉を失いかけてしまう。


「だからね、変な言い方かもしれないけど……私の趣味はたぶん、湊人くんなんだと思う」

「俺が……趣味?」


予想外すぎる一言……それに俺は目を丸くしてキョトンと聞き返してしまった。

朝凪は頬をうっすらとピンク色に染めながら、ひどく楽しそうに続ける。

その声色は、今まで聞いたどんな声よりも弾んでいて、優しかった。


「そう、あなたの事を知れると嬉しくなれるし、今日みたいに同じ事を一緒にやったりしてる時間は本当に楽しいの……だから、私は湊人くんの好きなことを好きになりたいし、同じ事を一緒にやりたい……私、好きなものには没頭出来るタイプなのよ」


その言葉に込められた純粋な好意。

それを脳が正確に理解した瞬間、俺の顔はカッと熱を帯びて一瞬で茹で上がってしまった。

ある意味でストレートな告白を、これ以上ないほど柔らかな笑顔で言い放つ朝凪の破壊力……それは凄まじい。


「…………っ!?」


恥ずかしさにフリーズする俺を見て、朝凪はさらに追い打ちをかけるように続ける。


「趣味……それじゃ、ダメかしら?」


少しだけ小首を傾げ、上目遣いでいたずらっぽく俺の反応を窺う朝凪。

俺はもう、完全に彼女のペースに巻き込まれていた。

本当の朝凪澪のペースに。


「いやっ……なんていうか……うん。それでもいいのかもしれないな……」


その言葉を受けて朝凪はまた、心底嬉しそうに笑ってみせる。

今日一日の中で……いや、俺が彼女に出会ってから今までで一番の、最高に無防備で可愛い笑顔で。


「じゃあ、早速PCが届いたら沢山教えてね、湊人くん……私、楽しみにしてるから」

「……ああ、任せろ……」


こうしてゆったりと甘いコーヒーの香りに包まれながら、二人だけの穏やかな時間が過ぎてゆく。


頭の片隅にあった複雑な事情も、この瞬間だけはどこかへ飛んでいってしまっていた。


ただ純粋に、この温かくて心地よい時間がずっと続けばいいのにと願う自分がそこいた。

今、目の前で笑っている彼女は間違いなく、俺がずっと憧れ続けていた理想の『朝凪澪』そのものだったから——



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