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第30話 つかの間の幸せな時間——

波乱に満ちたあの日から数日。


俺はいまだにどこか地に足がつかない感覚の中にいた。

だが、そんな事はお構いなしに中間テストというのは迫ってくる。

そして明日にテスト本番を控えた放課後——


「……湊人くん……そこの問題、違うわよ?」

「あっ……マジ?」

「マジよ……ここの数式から全部間違ってるわ」

「げっ。そこ、ほぼ最初からじゃん……」

「ええ。そうよ、あなたほぼ最初から間違ってるのよ……」


隣に座る朝凪がどこか呆れ気味に、冷ややかなジト目で俺を見つめてくる。


そんな馬鹿丸出しの俺が今いるのは、図書室に併設された自習室という名の生徒の憩いの場だった。

沢山の長机が並び、清潔な空間で多くの生徒がテスト前の追い込みをかける中、俺もその端に陣取り猛勉強中だったりする。


「ふぅ、まったく……お願いだから赤点だけは取らないでよね?湊人くん……」

「わかってるって朝凪……」

「本当にわかってる?」

「本当だって……そんな疑うような目で見ないでくれよ……」

「だって……あなたが赤点とって補習になったら、せっかくのデートがおじゃんになりかねないから、私だって心配なのよ……」


そう、俺がなぜこんなアウェーな空気に耐え、不安げな表情の朝凪を横につけてまで必死に勉強しているかと言えば、それが最大の理由だ。


あの日、朝凪とデートについて話し合って了承したはいいが、当然日程は中間テスト明けになるわけで……。


もし俺が赤点を叩き出すと、流石は進学校らしく土日は補習に継ぐ補習の地獄が待っている。

そうなればだいぶデートが先延ばしになってしまうという懸念があり、それを察した朝凪がこうして徹底的なスパルタ教育を施してくれているわけだ。


当の本人はたぶんテスト範囲など余裕なのだろう。

自分の教科書は一切開かず、ずっと俺の手元だけを見て専属の家庭教師みたいに指導してくれていて……流石、理系トップの頭脳は伊達じゃないと思い知らされる。


「ほんと頑張ってよね、湊人くん?私、楽しみにしてるんだから……」

「だ、大丈夫だって朝凪……たぶん……いや、絶対……」

「それならいいけど……」


そう言いながら机に腕枕をして顔を預け、結われたポニーテールをふんわり揺らして訝しげにこちらを見上げてくる朝凪。

その白くて美しい顔は真っ赤に染まっていた。


悔しいが、その上目遣いの仕草が可愛すぎる。

これが、学園中を震え上がらせていた茨姫のデレというものだろうか。


未だに俺以外の生徒にはチクチクと棘を刺しまくっている彼女だからこそ、俺以外では絶対に享受できないその甘い仕草には、つい理性を忘れて心がトクンと脈打ってしまう。


「とりあえずもう一回計算しなおしてみるよ」

「ええ、出来たら教えてちょうだい」


あの日からたった数日で、俺の日常で変わった事はいくつかある。


まずは、なぜか急に朝凪が俺のことを「湊人くん」と下の名前で呼び始めたこと。

そして一番の変化としては……俺が朝凪澪と「いい関係になっている」という噂が校内に急速に広まっている事だった。


その原因はほかでもないイケメン幼馴染のせいだ。

どうやら俺はまんまと匠の仕掛けた罠に掛かって、あの日あそこに呼び出されていたらしい。

それもこれも、全ては俺と朝凪をくっつける為だったとその日の夜に匠本人から電話で打ち明けられた。


そして翌日には、あのバカは『朝凪さんに言い寄ってみたら見事に返り討ちにあった』と陽キャグループにわざとらしく話し、その上で俺と朝凪の関係を仄めかす噂までご丁寧に流したのだ。


その結果。


俺はどうやら茨姫のサンドバッグという不名誉なあだ名から、茨姫の側近という恐れ多い立場に格上げされたらしい。そんなあだ名全く知らなかったが。


ちなみに周りの男子からのやっかみはほぼない。

それほどまでに朝凪澪という存在は恐れられていたのだろう。


「よしっ……出来た!なぁ、朝凪——」


どうにか自力で問題を解き終え、隣の朝凪に声をかけようとしたその時。

隣には机に突っ伏したまま、一切動かない朝凪がいた。


……まさか、寝てたりする……?


そう思いながらも、周りの迷惑にならないようもう一度小声で朝凪を呼んでみる。


「えと……朝凪?」


起きる気配がない。

流石にボディタッチは憚られたが、ほんのちょっとだけ彼女の華奢な肩に手を掛けて揺すろうとしたその時——


「んっ——」


小さな甘い吐息とともに俺の手の上に朝凪の柔らかい手がそっと重なり、そのまま優しくギュッと握られた。


……えっ……わぁ……。


急すぎるボディタッチに童貞のように激しく困惑する中、のそっと朝凪が身体を起こす。


「ああああっ、朝凪……そのっ、出来たっ、けど……」

「ん……」


眠そうな目をパチパチさせながら、朝凪は俺の手元へと視線を落とす。

そして彼女は俺と握った手は離さないまま、周りの生徒から見えないよう自然な流れで机の下の膝の上へと持っていった。


そんな大胆な仕草に、俺の心臓は破裂しそうになっていた。

だって、俺の汗ばむ手を机の下で無造作に握っているのは……あの朝凪澪で——


「えとねぇ……うん。これ正解だよっ!……あ゛っ……正解よ」


たった一言。

しかし、その一言に俺は明らかな違和感を感じ取った。


……えとねぇ?……だよっ?


俺は解けた問題などそっちのけで隣に座る彼女の顔を凝視する。

何も変わらない完璧に美しい顔立ち。両目の下の泣きぼくろ。しかし、その口元のニシシと笑うようなニンマリとした感じ。

絶対におかしい。


「……朝凪?……」

「…………」

「なんで黙ってるんだ? てか、めちゃくちゃ目が泳いでるぞ?」

「そっ、それはぁ……」

「お前……まさか……」


俺が眉潜め疑念を向けると、目の前の朝凪……いや、その少女は観念したようにいとも容易く白状した。


「……どっ……どもぉ……雫ですぅ……てへぺろっ♪」


誤魔化すように、ひどくばつが悪そうな顔をするコイツ。

俺は慌てて周囲を見回し、自習室の静寂を乱さないようそっと彼女の耳元に顔を寄せて囁いた。


「雫っ?!おまっ、バカ……!万が一、周りにバレたらどうすんだよ?!てか勝手に出てきたら朝凪にも怒られるだろ?!」


すると雫も、俺の耳元に顔を寄せてコソコソと耳打ちで返してくる。


「それがさぁ……澪、今ぐっすり寝ちゃってて……」

「はぁ?!」

「だって、湊人に勉強教えるんだって昨日意気込んで色々準備してたから……疲れちゃったんだと思うよ……?」

「まっ……マジか……それは……」


そんな理由を聞かされたら流石に何も言えないだろ。

むしろ、俺の不甲斐なさのせいで彼女に無理をさせてしまったのかと、心底申し訳ない気持ちになってしまう。


「……まあ事情はわかったから、とりあえずここでは朝凪っぽく振る舞えよ?……あとさ、話変わるけど……お前俺のやってる勉強、わかんのか?」

「それがさ、なぜか分かるんだよねぇ……だから、この数式はちゃんと合ってるよ?」

「…………」


……感情や思い出は完全に共有されなくとも、記憶の底にある学力や知識については共有されているのか。マジでそれチートだろ……。


俺がキョトンとしていると、雫は次の瞬間パァッと花が咲いたようなとびきり柔らかい笑顔を浮かべた。


「でもさwwあたし初めてこうやって高校に来たからちょっと嬉しいよ……しかもさ、隣に湊人がいて一緒に勉強してるなんて……ほんとに普通の高校生みたいだね、あたしww」

「雫、それはっ…………そうだな……」


雫の心底嬉しそうな天然な発言に、俺はつい苦笑いしてしまう。

ずっと澪の影に隠れて表立って存在できなかった雫。そんな彼女の境遇を思うと、俺も胸の奥がキュッと締め付けられる。


そして、今俺たちがどれほど奇跡的で貴重な体験をできているのかに気づかされる。


「あたし、今すっごく幸せだよ?バレないか、ちょっとドキドキしてるけど……」


そう言って机の下で繋がれた彼女の手が、俺の手を握る圧を少しだけ強める。

それは俺にとっても初めての、高校内で恋人と秘密の時間を過ごす瞬間だった。


……俺も全く同じ気持ちだ。こんなくすぐったくて満たされた気持ちになるんだな。一緒の高校にいるって……。


「そっか……それならよかったよ……」

「えへへっ……♪」


机の下で彼女の柔らかい手をそっと握り返す。

すると、彼女の頬がほんのりと嬉しそうに赤く染まった。


意外と生徒の声が飛び交う明るい自習室。

誰にも気づかれない机の下の秘密のぬくもり。


そんな甘くて幸せな時間を、俺は壊れないように噛みしめるように味わっていた。

下手したらこの先、こんな穏やかな時間は味わえないかもしれない。


そんな拭いきれない一抹の不安を胸の奥底に静かに隠しながら、俺は勉強へと再度向かい合っていった——



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奥付

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