第29話 2人きりの教室で 後編——
目の前で放たれたありえない言葉。それを俺の脳は理解しまいと拒絶していた——
茜色に染まる教室で、俺と朝凪はお互いに合わせる顔が見つからず別の方向を見つめたまま、ただただ気まずい沈黙に支配されていた。
「えと……興、味……す……き?」
自分でも驚くほど間抜けな声でオウム返しをして、その非現実的な単語を自分の脳に直接叩き込もうと試みる。それでも、全く上手くいかない。
……だってこんなの、ありえないじゃないか。
元想い人からの告白だというのに、嬉しいとかそんな感情はどこへやら。今はただ、強烈な困惑だけが脳内をぐちゃぐちゃに掻き回している。
そんな中、恥ずかしさからか限界までうつむいていた朝凪は、思い切ったようにバッと顔を起こし真っ赤な顔で俺の方を再度強く睨みつけてきた。
「……なによそんなに驚いて!?悪い!?まあ、今の鳳くんには雫がいるもんねっ!」
「いやっ!?だって俺てっきり、朝凪は俺のこと嫌いなんだとばかり……」
「嫌いっ?!……なんでそうなるのよ!?」
「なんでって、そりゃ……俺一回朝凪にフラレてるし。あの時、迷惑って言ってただろ……」
思った以上の逆ギレに若干ビビりながらも、俺はどうしても理解できない矛盾をそのまま口に乗せた。
だってそうだろう。なんで一度自分からフッた相手の事を、今更になって好きなんて言えるんだよ。
「それはっ……!それは私の中に雫がいるってあなたが知らなかったからじゃない……そんなの知られたら嫌われて、気持ち悪がられるって思うじゃない……普通。私、変なんだから……」
「……それは……朝凪……」
その消え入りそうな声色には、彼女の隠しきれない孤独と恐怖が滲んでいた。
秘密を知られれば、周囲から人が消え迫害されるかもしれない……その防衛本能があの日の拒絶に繋がっていたのだとすれば、俺が彼女に向けた身勝手な想いによって、どれだけ彼女を追い詰めていたことだろう。
「ねぇ鳳くん。もうこんな感じになっちゃったし……どうせなら腹割って話したいわ……いい?」
「腹を割るって……どういう事だよ?これ以上何を話すっていうんだ?」
……これ以上の事があるというのか?
俺は警戒しながら後ずさるように身構えると、そんな俺に対して朝凪は頬を染めたままどこか焦ったようにいじらしい表情で唇を噛み締めた。
——ダンッ!!
「うおっ!?」
不意に静寂を切り裂くような強い音が響き、俺は肩を跳ねさせて驚いてしまった。
見れば、朝凪が机を勢いよく叩いてパイプ椅子から立ち上がり、俺の目の前までズカズカと歩いてきてこちらに突っかかるように身を乗り出して来ていたのだ。
「おっ……鳳くん!わっ、私とデートして欲しいのよ!」
至近距離で顔から火が出そうなほど真っ赤に染まった朝凪が、俺の目を真っ直ぐに射抜いている。
……デート?……え?
「……俺が……朝凪とデートぉ?!」
自然に漏れた素っ頓狂な叫びなど意に介さず、朝凪はさらに距離を詰めまくしたてるように言葉をぶつけてくる。
その様子はいつもの冷静な彼女とはかけ離れた、まるで子供のように必死で感情的なものだった。
「雫だけ……雫だけズルいわ……私だってあなたとデートしたいのよ!!」
その言葉を真正面から浴びてもなお、俺の思考は完全に宙に浮いたまま。
なにより、朝凪からの熱烈なアプローチを受けているにもかかわらず、俺の脳裏には夜の公園で俺を待っている雫の笑顔が真っ先に思い浮かんでしまった。
故に俺は、あまりにも真っ当で、今この状況で吐くには最悪にデリカシーのない言葉を口走ってしまう。
「その……朝凪……でも俺、雫と付き合ってるん——」
その言葉を言い切る前に、朝凪が被せ気味に割り込んでくる。
「知ってるわよそんなの……!これは前から私と雫で話し合ってて、二人で決めた事なの!」
「はあ?!……雫と……?!」
ますます意味がわからない。
なんで俺の彼女であるはずの雫が、別の女の子とのデートを許可するような話し合いをしているんだ?厳密には同じ女の子だが。
「あなたが雫と付き合ってるのは知ってるわよ……でも、それはあくまで『お試し』だって雫からそう聞いてるわ」
「それは……雫がそう言ってたのか?」
「ええ、そうよ……」
俺の困惑の視線を受け、朝凪は少しだけバツが悪そうに視線を逸らしコクリと頷いた。
確かに嘘ではない。あの夜、確かに雫にお試しと言われた。
だが、その事実を突きつけられた事で俺の胸にチクリとした痛みが走り、どこか複雑な気持ちになる。
「まあ……確かに雫とはそんな話をしたけど……でも——」
俺が反論しようとすると、朝凪はもう一度すがるように割り込んできた。
それはなりふり構わない必死の懇願。
「ならっ!……なら私ともお試しでデートしてくれてもいいじゃない……一回だけでいいから……お願いよ……」
あの朝凪がここまで見事に凹み、俺なんかに泣きそうな顔で頭を下げている。
その姿に俺の良心は激しく揺さぶられていた。
「お願いって、朝凪……そう言われても、いくら同じ身体だとはいえ急には決められないって!?雫の気持ちとか考えると、なおさらだろ?!」
俺の中の雫に対する誠実さが、ここで朝凪の手を取ることを強く拒絶していた。
二つの人格を天秤にかけるような真似は、いくらなんでもキツすぎる。
「わかったわ……ちょっと待ってて鳳くん……」
俺の葛藤を見た朝凪は、何かを決意したように小さく呟き、俺の目の前で「ちょっと待って」と人差し指を立てて合図を送ってきた。
俺が首を傾げて見ていると、朝凪は静かに目をつむり、ふぅ、と深く長い息を吐き出し……次の瞬間——
「……ねぇ、湊人……」
再び目を開けた彼女は、見た目はもちろん服装も髪型も全く同じはずなのに、纏っている空気の成分が明らかに先程とは違っていた気がする。
見上げてくる潤んだ目線。
少しだけ高くなった甘く弾むような声色。
無防備で柔らかい仕草。
微かな違いだが、それは間違いなく朝凪澪のものではない……明確に断言できないが俺の本能がそう告げていた。
「……えっ……朝凪?」
それでも、一応の確認として恐る恐る名前を呼んでみる。
すると彼女は、俺の顔を見てペロッと舌を出しておちゃめにウインクをして見せた。
「ぷぷっww……湊人、あたしが澪に見える?……って、まあ同じ顔なんだからそりゃ見えるか……ww」
その笑い方。完全に警戒心を解いた俺だけに見せる親しげな態度。
「えっ……おまっ……まさか雫なのか?」
俺が驚いて目を見開くと、彼女は制服のスカートをふわりと揺らしてその場でクルリと一回転して見せた。
「ご名答!……実は今、澪に代わって雫になってましたぁ!……どう湊人?あたしの制服姿は?」
「どうって……お前、今そんなのんきな場面じゃないんだが?澪から聞いてないのか?」
俺の目の前で初めて意図的に行われた人格の入れ替わり。
そのあまりにも不思議な光景に唖然としながらも、俺はついツッコミを入れてしまった。
すると雫は『まぁまぁ』と俺の肩を軽く叩き、どこかいじけるように唇を尖らせてみせた。
「わかってるって、真面目すぎだよ湊人ぉ……ちょっとくらい褒めてくれたっていいじゃん。む〜〜……」
その雫らしいマイペースさに、俺の調子がいつものように狂わされる。
ひとしきりいじけた後、雫は急に真面目な顔になり俺の目を見つめてこう続けた。
「あのさ……さっきの澪の言ってる事、ホントだよ?むしろあたしの方から提案したんだよ……」
「雫……えっ、提案って……なんで……?」
マジで意味がわからなすぎる……そんな俺の視線を受けて、雫は少しだけ悲しそうに視線を落とし言葉を紡ぐ。
「だってさ……見方によればあたしが湊人のこと澪から横取りしたんだもん。もし湊人が澪の立場がだったら……どう思う?」
「それは……」
もし俺が朝凪だったら……好きだったにもかかわらず仕方なく拒絶をしたのに、別の人格と好きだった相手が密会して付き合っていたら……間違いなく絶望して怒り狂うだろう。
朝凪の苦痛と横取りしてしまった雫の罪悪感……二人の複雑な感情考えて俺はハッとして息を飲んだ。
「ね?わかるでしょ?……だからさ、一回くらい澪とデートしてあげてよ?……澪だってお試し。あたしもお試し……これでやっとおあいこだよ」
そう言う雫の表情は、どこか寂しげに沈んでいた。
「まあさ、あたしたちの問題を湊人に押し付けるのは本当に悪いって思うんだけど……でもこれしかいい解決方法が思いつかなくって……二人の間で公平っていうか……そんな感じの。本当にごめん、湊人……」
「雫……」
そんな風に謝られてしまうと、どうにもやりにくい。
それに、朝凪と雫、二人の抱える状況を考えると、どうしていいかわからない自分がいる。
澪を立てれば雫が傷つき、雫を立てれば澪が絶望する。
……何でこんな事になってしまったんだ……余計に辛いじゃないか……。
「雫……お前の気持ちはわかったけど……でも、ほんとにいいのか?嫌じゃないのか?」
俺が念を押すように確認すると、雫は少しだけ困ったように眉尻を下げる。
「嫌じゃないのかって言われると……正直ちょっと妬いちゃうけどさ……でも、あたしも澪も器は同じだし。全く関係ない別の人とそんな事されるよりは100倍マシだよ……それに——」
雫はまるで俺の不安を吹き飛ばすように、とびきり明るい笑顔を振りまいて見せた。
その表情は、俺だけが知る雫だけの太陽のような笑顔。
「あくまでお試しだしっ!湊人は絶対に最後はあたしのとこに帰ってくるって自信もあるしね!」
そこまで真っ直ぐに言われてしまえば、俺も彼女の決意に従うしかない。
自分で自分の気持ちが全くわからない。そもそも俺は最初、朝凪澪のことが好きだったはずなのに。
……いや、今も心の何処かには——?
「わかったよ……雫がそう言うなら……」
俺が小さく息を吐き出して折れると、雫は本当に嬉しそうに、優しい笑顔で何度も頷いた。
それからおもむろに俺の目の前でゆっくりと目を閉じると、数秒の静寂のあと——
「……鳳くん……?雫、なんだって……?」
再び目を開けた時、そこにはまた緊張感を纏った朝凪澪が戻ってきていた。
目の前で人が切り替わる瞬間……なんて不思議な感覚なのだろう。
「ああ、朝凪か……その。『デートしてあげて』だってさ……」
「……ね?嘘はついてないわよ?……それで……その。あなたの答えは——」
緊張で声が震える朝凪を前に、俺はもう一度グルグルと悩み、そして答えを出した。
「わかったよ朝凪……なんか変な感じだけど……俺でよければ……デート、しよう」
「本当!?本当に?!鳳くん!!」
その言葉を聞いた瞬間、朝凪は飛び上がるように、まるで雫のような無邪気さで大いに喜んで俺に詰め寄ってきた。
「ちょっと朝凪!近いって!?」
「あっ……ごめんなさい……つい嬉しくって……」
俺が慌てて後ずさると、朝凪はハッとして赤面してモジモジと身体をよじらせた。
そこには既に茨姫の面影は一切なかった。ただ朝凪澪という普通の女の子がそこにはいた。
そんな彼女に俺は釘を刺す。
これは俺の心を守るためでもあり、何より俺に譲歩してくれた雫への最低限の誠意だ。
「でもあくまでお試しだからな?俺は……その、今は雫と付き合ってるわけで……」
「いいわ、それでも……今はそれでもいいからっ……!」
朝凪は俺の条件を食い気味に、力強く肯定してみせる。
こうして、俺たちの関係はさらに複雑で修復不可能なほどに絡み合ってしまった。
一つの身体に二つの魂。その両方から向けられる別々の気持ち。
「ありがとう。私のわがままを受け入れてくれて……私の事、ちゃんとわかってくれて……鳳くん本当に……ありがとう……」
目の前に広がったのは、残照に照らされた見たこともない最高の笑顔だった。
一難去ってまた一難。こんな展開が待っているなんて予想もしていなかった。
でも、目の前で嬉しそうに笑う朝凪は今までで一番……とんでもなく可愛かった。
だから余計にキツイんだよ——




