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第25話 心に従って。前編——

あの決定的な出来事から数日——


俺の思考はずっと、地に足がつかないまま浮ついていた。

既に中間テストが直近まで差し迫っているにもかかわらず、全く勉強に身が入らない。

教科書を開いても、親友と朝凪のあの親しげな後ろ姿がフラッシュバックして、俺の視界曇らせ、匠の言葉が脳内にこびりついて離れないのだ。


どこまで行っても、あれは他人の恋路であり他人事。俺には俺の生活があり、俺のことだけを真っ直ぐに好きでいてくれる『雫』という存在がいる。

そう自分に言い聞かせて、このどす黒い感情を無理やり押し殺そうと何度努力したことか。


俺の彼女は雫であり、朝凪澪ではない。朝凪が誰を選ぼうが、それは彼女の自由だ……そう割り切れるほど、俺の感情は大人にできていなかった。自分の情けなさと幼さを嫌というほど自覚させられる。


そして、俺のその見苦しい感情を後押しする事象が、校内で目に見える形で起き始めていた。


あの誰も寄せ付けなかった『茨姫』が、ついに心を開いてバスケ部の王子と付き合っている——

そんな無責任な噂が一大スキャンダルと言わんばかりに、学年中のあちこちでまことしやかに囁かれる事態となっていたのだ。


火のない所に煙は立たない。

実際、朝凪は今も教室内で秘密を共有している俺以外とはほぼ会話もせず、相変わらず周囲には刺々しく冷徹な態度を取り続けている。

だが一方で、匠の前にいる時だけは俺と同等……いや、それ以上に近い距離感でひどく自然体な彼女の姿が目撃されている。

あれを見せつけられればそう噂されても仕方ない。


そして、その決定的な出来事は今日の放課後に起きた——


ホームルームが終わり、解放感から教室が慌ただしくなっていく。

その雑多な空気の中を、俺はバイトへ向かう為、机に広げたあれこれを鞄に乱雑にまとめていた。

その時、クラスの空気が不自然にざわつき、一瞬で一点に視線が集中したのがわかった。

視線の先、そこは俺たちの教室の入口。


(あっ、舟橋くんじゃない?!)

(ほんとだっ……何しにきたんだろう?相変わらずかっこいいよねぇ〜)


女子たちの黄色い声がたちまち湧き上がる。

その視線を一身に集めているのは、相変わらず爽やかな笑顔を張り付けたイケメン。俺の幼馴染である匠だ。

そんな彼は、周囲のざわめきなど全く気にしていないように、迷いなく歩みを進めて、一直線に俺の方へと歩いてくる。


匠の視線が一瞬だけ俺の方へと送られ、何か用事かとそれに応えようと俺は自然に右手を上げて声を上げた。


「おうっ、たくっ——」


が、俺の口から出たその声が匠に届くことはなく、無情にも空を切ってすり抜けてしまう。

そして匠は、まるで最初から俺の声など聞こえていないかのように、俺という障害物をただの空気として扱い、俺の横を通り過ぎていった。


俺は上げた右手を宙に浮かせたまま、間抜けに顔だけで振り返る。


すると匠は、俺のすぐ隣の席の前でピタリと止まり、優しくて甘い笑顔とともに声を上げていた。


「朝凪さん、おまたせ」

「ああ舟橋くん。わざわざ教室まで来てくれたの?ありがとう」

「まあね、早くホームルームが終わったし。今日からテスト前で部活休みの期間になってるから……じゃあ、いこっか?」


甘いエスコートの一言を受けた朝凪は、待っていましたとばかりに足早に席を立つ。


「ええ、そうね。いつもありがとう……」

「いいんだよ、俺がやりたくてやってるんだから」

「そうなの?それならいいのだけれど……」

「じゃ、いこっ?朝凪さん」

「ええ……」


小さく、愛おしそうに笑った朝凪。それを慈しむように見つめる匠。


俺のすぐ真横、手を伸ばせば届く距離でごく自然に起こる親密な小さな会話。

そこにはまるで、俺という存在が『最初からこの教室に居なかった』かのような、二人だけの完璧に閉ざされた空間が広がっている。


心が痛い。

親友が俺の知る親友じゃないようで。朝凪が、俺の知っている朝凪じゃないみたいで……。


俺は声さえ出せず、そんな二人をただただ目線だけで追うことしかできなかった。

いや、仮にここで声を出したとしても、今や二人には届かない。

そんな強烈な疎外感だけが目の前にあった。


俺が呆然としている間にも、朝凪と匠は肩を並べて俺の横をゆっくりと横切ってゆく。

そして、朝凪がこの前と同じく、匠の腕にそっと自分の手を掛ける仕草をしたその刹那——


匠の鍛え上げられた小麦色の筋張った腕が、そっと朝凪の肩へと動き、これ見よがしにその華奢な肩を自分の方へと抱き寄せたのだ。


それからすぐに、匠は一瞬だけ、明らかな意志を持って俺の方へ振り返り、俺の目を真っ直ぐに見つめてきて……すぐに何事もなかったかのように朝凪へ視線を移した。


『俺は本気だから』


あの夜の言葉が、態度で俺の眼前に突きつけられた瞬間だった。


「…………っ」


俺の中で、何とか保っていたなにかが音を立てて壊れそうになる。

眼下の完璧な二人に注がれるクラス中の視線。羨望と嫉妬。

その全てのノイズを、二人の纏う絶対的な空気はものともせずに、教室の出口へとゆっくりと足を向ける。

まさに他者が介入する余地のない、無敵といえる空気感。


一方の俺は、本来なら感じる必要のないはずの、ひどく惨めで不思議な敗北感を全身で覚えていた。

俺は無言のまま机に置かれた自分の鞄に重たい目線を落とし、必要な物を詰め込んでゆく。


そして、二人の気配が教室から完全に消えたと同時に、止まっていた教室全体の時が一気に動き出した。


(えっ!?えっ!?やっぱあの二人!?)

(はぁぁぁぁぁ〜……いいなぁ〜美男美女すぎるでしょ……)


ため息をつくもの、興奮気味に声をあげるもの。分かりやすく騒がしい日常が俺の元へ戻ってくる。

次いで俺を襲ってきたのは、なぜか周囲からの俺に対する同情のような生暖かい視線だった。


(鳳のやつ……大丈夫か?流石にちょっと同情するわ……まあ、相手が舟橋じゃあな……)

(あちゃ〜……鳳くん、きっついだろうねぇ……)


まわりから見れば、この学年はおろか、全学年で唯一、あの朝凪の鋭い茨に耐え続け、健気に彼女の側にずっと身を置いていた『おもしれーモブ男』の俺がひどく不憫なんだろう。


ただ、学園のアイドル的なポジションの匠が、いとも簡単に朝凪の隣の席を掻っ攫っていくのも、スクールカースト的には必然という感じもする。


無責任な外野の声が、今の俺には余計に深く心に刺さってひどく痛い。


その空気に耐えかねた俺は、乱暴に荷物を掴んで逃げるように教室を後にした。

まるで何かに追われるように廊下を抜け、階段を一段飛ばしで駆け下る。

そして靴箱で乱暴に靴を履き替え、外へ飛び出した時、俺の脳は不思議な事をわめき出し始めた。


——これでいいのか?

「大丈夫。俺には雫がいる……雫がいれば、それで十分だろ。むしろ朝凪に対してこんな感情を抱くのは、雫に対する浮気に近い感情じゃないか……」


——本当にそうか?お前は本当は知りたいんじゃないのか?あの二人の関係を。このまま諦める前に、きちんと納得したいんじゃないのか?

「そんなの必要ない。俺の知ったことじゃない。朝凪が誰と付き合おうと、俺には関係ないだろ」


——そうか?なら、なぜお前は……さっきからずっと震えている?


脳内を巡る声にハッとして視線を落とすと、そこには、どうしようもない喪失感で震えながら、爪が食い込んで血が出るくらいに強く握りしめられた自分の両の拳があった。


なんなんだ、この感情は?今さら俺に何ができるというんだ?俺はもう朝凪にフラレてるんだぞ?

——鳳湊人。お前は、朝凪澪という存在全てを……。


それは理屈ではなく、ほとんど無意識に近いものだった。

俺はポケットを漁りスマホを取り出すと、上手く動かない指先でどうにか操作をする。


「……店長……すいません。ちょっと急に体調を崩してしまって……今日のシフト、休ませてください——」


端的な嘘の会話を終え通話を切った瞬間、俺は校舎に向けて勢いよく身を翻していた。


自分でも、自分が何をしているのか全くわからない。

自分で自分の感情が制御できない。

でも、心が『今すぐ行け』と俺を煽ってくるんだ。


最低で野暮なことだってわかってる。でも、もう止められない。

俺は自分の人生で初めて、その理不尽な感情に素直に従い、心の赴くままに放課後の生徒が溢れ出す校舎の中へと全力で駆け戻っていった——


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