第20話 微かに変わる日常——
夜の公園で朝凪からカミングアウトされて数日。
季節は四月の末に近づき、学生にとってのオアシスであるゴールデンウィークの足音がもうそこまで近づいてきている、そんな頃——
俺は今、とある絶望的な問題に直面し、苦戦を強いられていた。
それは——ゴールデンウィーク明けに始まる中間テスト。それに備えるための各教科の地獄の確認テストラッシュだ。
正直に言おう。俺は地頭もそこまで良いわけではないただのモブ男子である。
それなのに、何を血迷ったのかイキって理系クラスに進んでしまい……案の定、特に数学が絶望的に苦手で……。
今日行われた数学の確認テストで赤点を見事に叩き出した俺は、昼休みを返上し確認問題集という名のペナルティに一人で立ち向かっていた。
「………………っ」
目の前のプリントに並ぶ数字と記号の羅列に、声帯が機能を停止する。
進学校という特性上、一般的な高校のカリキュラムよりレベルが高いのはわかっている。だが、それにしてもこれはあまりにも難しすぎないか?
なんて理不尽な恨み言を脳内で並べ立ててみるが、自分で選んで進学してしまったんだから仕方ない。
そして、ただでさえ皆無に等しい俺の集中力を妨げる要因がすぐ横にもう一つ存在していた。
それは、数日前から急に身の回りで起き始めた些細な変化ではあるのだが——
——じーーーっ……。
さっきからずっと、明らかに圧倒的なプレッシャーとして肌を刺す無言の視線の圧。
そのせいで、ただでさえ解けない数式が完全にただの模様に見えてくる。
俺はシャーペンを握ったまま、顔は動かさずにこっそりと視線の大元だけを探った。
そこは、俺の隣の席。
黒髪のポニーテールをぴょこんと揺らし。
身体を自分の机ではなくこちらに完全に向け。
膝の上にちょこんと手を揃え。
ピンと背筋を伸ばしてこちらをまるで監視するかのように、その冷たくも美しい瞳でじっと見つめ続けている美少女——茨姫、朝凪澪がそこにいた。
「…………こっ、コホン——」
そのあまりにも強烈すぎる視線に耐えきれず、俺はわざとらしく一度咳払いをした。
というか、なぜ彼女はさっきから俺をガン見し続けているのだろうか?全くもって意味がわからない。
一応、俺は今何も悪いことはしていない。ただ黙々と赤点の補習プリントと格闘しているだけだ。
だが、この監視するような視線は、授業中や休み時間にも時々感じるようになっていた。
もしや俺が朝凪の秘密を誰かにうっかり喋らないよう、見張っているのだろうかと勘ぐってしまうほどだ。
「……えっと、朝凪?……どした?」
あまりの居心地の悪さに、つい痺れを切らして俺は音を上げてしまった。
「……いや、なんでもないわ。鳳くん」
「なんでもないって……なんかさっきからずっとこっち見てただろ?」
「……それは、そうだけど……」
朝凪はバツが悪そうに微かに視線を逸らす。その時、俺の脳裏にとある可能性がよぎった。
俺は周囲に聞かれないよう極限まで声を潜めて、そっと朝凪に近づいて囁いてみる。
「なあ。まさか、雫……じゃないよな?」
昼休みの喧騒に爆弾発言を紛れさせると、朝凪はほんの一瞬だけ肩をビクッと跳ねさせ、すぐに眉を吊り上げて小声で言い返してきた。
「そっ、そんなわけないじゃない鳳くん!まったく、こんな所で言わないでほしいわっ!……彼女は寝てるわよっ!」
「ごっ、ごめん……朝凪」
俺は慌てて小声で謝罪するほかなかった。
確かにここは学校の教室であり、誰がどこで聞いているかわからないのだから。
「じゃあさ、なんでずっとこっち見てたんだ……?」
俺が気を取り直して改めて問い掛けると、彼女の反応はいつもとは少し違っていた。
「それはっ……」
「それは?」
朝凪は言い淀み、ほんのりと頬を桜色に染めて視線を泳がせた。
いつも孤高のオーラで他者を寄せ付けない彼女が、こんな風に言葉に詰まる姿なんて学校中の誰も見たことがないはずだ。
「鳳くんがなんか勉強で苦戦してそうだから……だから私が少し教えてあげようかなって思ってただけよ……」
脳を未知の言語が駆け抜ける。
そんなバグみたいなイベントがこの現実世界で発生していいはずがない。
俺の思考回路は完全に固まり、気づけば口からは間抜けな音声だけが漏れ出していた。
「…………へっ……?」
……朝凪が俺の勉強の手伝いを?
忘れたとは言わせない。かつて、俺が彼女に話しかけるための口実として「勉強を教えてほしい」と頼み込んだ時、彼女は虫ケラを見るような冷徹な視線を俺に向けて断られた。
それが、一体どんな風の吹き回しだというのだろうか。
「なっ、なによその顔は……余計なお世話だったかしら?」
「いやっ……悪い。ちょっとびっくりして……」
信じられないものを見るような俺の視線に、朝凪はみるみるうちに顔を赤くし、少しムキになったように唇を尖らせている。
「それでっ?鳳くんは教えてほしいの?それとも教えてほしくないの!?」
グイッと威圧するように顔を近づけて詰め寄ってくる朝凪。
その言い回しや態度はさておき。俺にとっては、これはまたとないほどありがたい機会だった。
俺は中の下を地で行く底辺の学力だが、一方の朝凪はどのテストでも学年トップクラスの学力を誇る生粋のエリートである。
そんな彼女が家庭教師になってくれるというなら、心強いどころの騒ぎじゃない。
赤点回避の最強の切り札を手に入れたも同然だ。
「朝凪がいいなら、マジで教えてほしい……」
「ほっ、本当にっ!?」
俺が素直に頭を下げると、朝凪の顔がパッと明るく輝いた。
その表情は、まるで雫が喜んだ時の顔に瓜二つで……そしてなにより、かつて俺が朝凪に恋をしていた頃見た、あの笑顔にひどく似ていて——
「じゃあ、私がしっかりわかるまで教えてあげるわ!」
「あっ、ああっ……」
つい不意打ちでドキッとしてしまった俺は、それ以上気の利いた声が出せなかった。
俺が固まっている間にも、朝凪はまるで雫のようにウキウキした様子で自分の椅子を俺の椅子の脇にピタッとくっつけてくる。
その瞬間、俺の鼻腔をくすぐったのは雫が纏っているあの甘い香りではなく……朝凪本来の、優しくて清潔なシャンプーのような良い香りだった。
「じゃあまず、鳳くんはどこがわからないの?」
距離があまりにも近すぎる。
ノートを覗き込む彼女のサラサラとしたポニーテールの毛先が、俺の肩に触れるか触れないかの距離で揺れている。その刺激の強さに、俺は完全に言葉を奪われてしまった。
「…………。」
「鳳くん……?」
返事をしない俺を不思議に思ったのか、朝凪が小首を傾げてこちらを見上げてくる。
至近距離で目が合ったその顔には、かつての茨姫の冷たい棘はなく、ただ純粋に俺を心配するような柔らかい光が宿っていた。
そんな朝凪と真っ直ぐに視線が合ってしまうと、俺はどうしようもなくドギマギしてしまい、ひどく上ずった声で質問を絞り出していた。
「あっ……えと、まずここ……」
「ここね……あら、だいぶ序盤ね。わかったわ、まず最初に——」
こうして、図らずも始まってしまった朝凪による数学講義。
だが白状すると、俺はその解説のほとんどを覚えていなかった。
なぜって、それは隣に座る朝凪がいつもの冷たい朝凪じゃなく……でも、確かに俺が最初彼女に抱いていた理想の人物像そのままの、どこまでも優しくて美しい朝凪澪だったからだ。
こんな状況で、数式なんかが頭に入るはずがないじゃないか——




