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第18話 修羅場——

人生で初めての修羅場という物を、俺は今まさに経験しようとしていた——


それも、浮気だの二股だのといったよくある昼ドラ展開とは次元が違う。ある意味、学術的かつ天然記念物的な特大の修羅場だ。


いつかはこんな時が来ると腹をくくっていたつもりだったが、実際に当事者である『彼女』と真っ向から向き合ってみるとなかなか、いや、相当怖い。


職場に訪れた朝凪と共にバイトを上がり、俺たちはいつもの公園の、いつものベンチで隣り合って座り、重苦しい無言の時間を過ごしていた。

この夜の公園という俺と雫の甘い聖域は、朝凪澪によっていとも容易く侵略されてしまったようだ。


横を向くとそこには雫……いや、朝凪澪がいる。

首から下は完全に雫の仕様だ。しかし、首から上に宿る冷徹で理知的な雰囲気は間違いなく朝凪のものであり、カフェに現れた時のような無造作に下ろした髪ではなく、いつの間にか彼女はその長い髪をチャームポイントであるポニーテールへとキッチリまとめ上げていた。


そのせいで、雫の象徴であるインナーカラーは内側に隠れ、ほとんど見えなくなってしまっている。


……なるほど、これが学校でインナーカラーがわからなかった理由なのかもしれない。

なんて今の絶望的な状況には全く関係のない、どうでもいい現実逃避的な考察ばかりが脳内を駆け巡る。


「……さてと、鳳くん。時間取ってくれてありがとう」

「あ、ああ……」


発せられる言葉の一つ一つの重みが、雫のそれとは全く違う。

やはり、今俺の隣に座っているのは茨姫……朝凪澪なんだと嫌でも痛感させられる。


いっそのこと、『ぷぷぷぅwwひっかかったww』なんて雫のドッキリみたいな結末であればどんなに救われるかと思ったりもするが、この凍てつくような空気の中で、そんなご都合主義が通るはずもなく——


「それで……鳳くんはどこまで知っているのかしら?」

「どこまで……というと?」

「私と雫の関係……というか私の秘密についてよ」

「それは……どこまでって言われてもわからないけど、朝凪が二重人格だっていうことは雫から聞いたよ……」

「……ふぅ……まあそうよね、知られてしまったなら仕方ないわね……」


俺が慎重に言葉を選ぶと、朝凪は重たい息を吐き出し少しだけ俯いて、声のトーンをさらに一段落としてから俺の方へ向き直る。


「鳳くん。この事は絶対に誰にも言わないでほしいの……おねがい……」

「朝凪……」


いつもはあんなにトゲトゲしている彼女が、俺なんかに頭を下げて懇願している。

その弱々しい姿に、俺は慌てて首を横に振った。


「そんなっ!?頭上げてくれよ朝凪……誰にも言うわけないだろ?こんな重大な事……」

「……そう、それならよかったわ」


俺の即答を聞いて、彼女は少しだけ安堵したように顔を上げる。

だが、修羅場の本番はここからだった。


「それで……これは雫から聞いたのだけれども。あなた雫と付き合ってるって、本当?」

「……ああ……それも本当だよ」


俺がごまかしようのない事実を肯定した瞬間、朝凪は一瞬だけ小さく唇を噛み、苦しげに目を閉じた。

そして、すぐにいつもの冷ややかな彼女に戻り、眉間に小さなシワを寄せて大きくため息をついた。


「はぁー……そう。ここ半年以上、私の意識が度々飛んでたのはそのせいね。じゃあ雫が言っている事はやっぱり全部本当なのね……」

「全部がどんなものかわからないけど……雫は朝凪に嘘はつかないと思うぞ?」

「……鳳くん……あなたは雫のこと、怖がらずちゃんと向き合ってあげてるみたいね……」

「ちゃんと向き合う?そんなん当たり前だろ?」


至極当然のこととして俺が言い放つと、朝凪は驚いたように目を丸く見開き、それから小さく自嘲するように口元を歪めた。


「当たり前……なのね。本当に鳳くんって優しいのね……本当に、バカみたい……」

「……はあ?」


朝凪はどこか遠い目をして、宙に向かって言葉を吐き捨てる。

馬鹿みたい——その一言は俺に向けられていたのだろうか?そう疑うほど、その言葉は軽く、そしてどこか俺ではない別の誰かに向けられていたような、そんな気がした。


「……それで、雫とはその、シちゃったのよね?」

「…………っ」


どこか悲しげな、ひどく複雑な表情をして彼女はついに核心を突いてきた。

だが、この話題だけは絶対に避けられるはずがない。


俺が朝凪の立場なら、こんな穏便な言い回しは絶対にできない。

自分が意識を失っている間に、自分がフッたどうでもいい男に抱かれる。

しかも、そいつに自分の初めてを奪われたのだ。

こんなの、控えめに言って地獄絵図じゃないか。


主人格が朝凪澪である以上、極論を言えば、俺は同意なき行為として警察に捕まる可能性だって十分にあるんだ。


「ああ。俺は雫と……シたよ」


俺は乾いた喉を必死に動かし震える声で言葉をひねり出すと、その言葉に朝凪は俺から視線を逸らす。


「あっ、朝凪っ!本当にごめんっ!殴るなりなんなり好きにしてくれっ!全部俺のせいなんだっ……だから雫のことは絶対に責めないでやって——!」


そこまで一気にまくし立てた時。

俺の目の前に朝凪の白く細い手のひらがスッと差し出され、言葉が強制的に遮られた。

そして彼女は一呼吸だけ置いてから、小さく口元をほころばせて話しだした。


「……ふふっ……鳳くんって本当に馬鹿みたい……雫からは、『全部あたしから誘った』って聞いてるけど……?」

「……なっ?!」


その笑みの意味が俺には全く理解できなかった。

……雫のやつ、俺を庇う必要なんて無いのに……。


「違うっ!それはっ——」


雫の言葉を否定しようとすると、またしても俺の声は冷静さを帯びた声に遮られてしまう。


「いいのよ鳳くん……別にあなたをどうこうしようなんて思ってないわ。全ては私の管理責任の問題。もっといえば私と雫の問題だから……」


そう言って微かに微笑む彼女の表情は、どこまでも悲しげだった。

当たり前だ。身体を勝手に使われた被害者は他の誰でもない彼女なのだから。


……俺は……朝凪に一体何をしてあげられるんだろう?


それは雫と付き合う前からずっと俺の根底にあった、届かなかった想いの残滓。

でも、こんな最低の事態を引き起こしておいてどの口が言っているんだとも思う。


「朝凪……」


完全に言葉を失い俯く俺を前に、朝凪はおもむろにベンチから立ち上がると、俺の目の前にスッと立った。


夜の闇の中、街灯の光に照らし出される彼女の姿。

きっちりと結われたポニーテール。完璧な造形を誇る顔立ちに見下すような冷たい瞳。そして、その目元で妖艶に主張する泣きぼくろ。


身なりは雫なのに、纏う空気は朝凪澪。

二つの人格の要素が混ざり合ったそのアンバランスな存在感は、ひどく恐ろしく、そして抗い難いほどに美しかった。


そんな彼女は腕を組むと、座っている俺の方へグイッと上半身を近づけ、至近距離で顔を向き合わせてきた。


「まあいいわ……とりあえず鳳くん。これだけは覚えておいてくれるかしら?」

「…………」


「私は朝凪澪であり、同時に雫なの。だから……あなたが雫と付き合ってるってことは、私と付き合っていると同義なのよ。もちろん、キスも、セックスも、全て私とシたって事なの……」

「そっ……それはっ……」


論理的には理解できる。

だが、彼女が一体どういう意図でその言葉を投げてきたのか……朝凪の本心が全く読めず、俺の脳は完全にパニックに陥ってしまった。

そんな俺の混乱を置き去りにして、朝凪の美しい顔が息がかかるほど近くに寄ってくる。


「鳳くん。私の秘密を知った以上覚悟しなさい……必ず——」


そこまで意味深に言い残すと、朝凪は一瞬だけ俺の奥底まで射抜くような強い視線を向けてきた。

そしてすぐにくるりと身を翻し、公園の出口へと向かって歩いてゆく。

その不可解すぎる行動の連続に、俺は口を半開きにしてポカンとしたままベンチに縫い付けられていた。


「……あっ……朝凪?おいっ!?」


俺が慌てて背中に声をかけても、彼女は一切振り向かない。

ただ真っ直ぐに、公園の闇の中へとじんわりと溶けてゆく。


「私はこれで……じゃあね、鳳くん……また、学校で——」


夜風に乗って俺の耳に飛び込んできたのは、いつもの冷たいトーンでありながら、どこか微かに棘が抜け落ちたような、不思議な響きを持った声だった——


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