第16話 恋人同士なのに、俺は葛藤する——
楽しい時間は、どうしてこうもあっという間に終わってしまうのだろうか。
俺は今日、その残酷な真理を嫌というほど痛感していた——
そもそも、雫とこんな歪な関係になる前……俺の恋愛相談役であり、友人だった頃から、彼女と過ごす時間は俺にとっての癒やしだった。
くだらない雑談で盛り上がり、気づけば終電近くまで話していたなんて事もあるほどに。 そして今日も、同じように一瞬で時間は過ぎ去っていった。
ハンバーガーショップを出た後、二人でウィンドウショッピングがてら電気屋を巡り、歩き疲れて入ったお洒落なカフェで甘いパンケーキをつつき、そしてゲームセンターで白熱の対戦ゲームを繰り広げ……。
濃密すぎる時間を過ごしているうちに、気づけば街はオレンジ色の夕暮れを宿し始めていた。
俺たちは今、祭りの後のような名残惜しさを引きずりながら、帰りの駅へと向かって歩いている。
「いやぁ……めちゃくちゃ楽しかったなぁ……」
改札が近づいてくるにつれ、つい本音が口をついて出る。
そんな俺の横顔を、雫がひどく嬉しそうに見つめていた。
「えへへっ♪ でしょ? あたしとのデート楽しっしょ?」
「なんかお前にそうドヤ顔で言われると……あれだな……腹立つな」
「ん? なによ〜!ホントのことじゃん!」
「まあ……そうなんだけど」
俺が苦笑しながら認めると、雫はパァッと顔を輝かせてみせる。
「まあさ、あたしもめっちゃ楽しかったよ!湊人とこんなに長く一緒にいれるなんて初めてだしねっ!」
「そっか……それなら、良かった」
俺は歩きながら、ポケットの中に忍ばせていた『それ』を指先で弄る。
渡すなら、今が最後のタイミングだろう。
「雫っ……大したもんじゃないんだけどさ、コレ……」
俺は立ち止まり、先ほどゲームセンターに寄った際、雫がトイレに行っている隙にこっそりクレーンゲームで取っておいた、彼女のお気に入りキャラのキーホルダーを差し出した。
「なに湊人?……えっ!?これ、あたしに!?」
「まあな。お前、いつもゲームでこのキャラ使ってるし……好きかと思って……」
「湊人っ♡ありがとっ♡めっっっちゃ大事にするねっ!」
受け取った瞬間、雫はぱっと花が咲いたような笑顔になり、そのまま勢いよく俺の腕に抱きついてきた。
薄いニット越しの彼女の感触と体温、そして甘い香りが至近距離で弾け、俺はあからさまに動揺してしまう。
「そ、そんな、大したものじゃないからな!?」
「ううん。あたしにとってはとっても大事なものだよ……だって、初めてあたしが人から貰ったものだから……」
愛しそうにキーホルダーを両手で包み込む雫。
その言葉の意味を理解した瞬間、俺の心臓がきゅっと締め付けられた。
朝凪澪の裏に隠された存在である彼女は、自分だけの持ち物を何一つ持っていないのだろう。
この世界にあるすべてのものは『澪のもの』であり、雫に向けて贈られたものはこれが本当に初めてなのかもしれない。
そう思うと、どうにもいたたまれない気持ちになる。
未だに俺の腕に抱きついている彼女。
その温もりがあまりにも切なく、後ろ髪を引かれるような思いを抱えたまま、俺たちは駅の改札前へと到着してしまった。
「じゃあ……帰るか?」
「…………」
俺の言葉に、雫は少し俯き気味に黙り込んでしまった。
休日の夕方、駅の改札前で帰るのを渋って見つめ合うカップル。
今までそんな光景を見るたびに『とっとと帰れよ』と毒づいていた俺だったが、今の俺なら彼らの気持ちが痛いほどよくわかる。なんとも皮肉なものだ。
「雫?」
少しだけ顔を覗き込むように声をかけると、雫が俺の右手をそっと両手で握りしめてきた。
「……ねぇ湊人……あたし、まだ帰りたくない……」
「……へっ?……」
「もうちょっとだけ……湊人と一緒にいたい……」
上目遣いで、縋るように見つめてくる潤んだ瞳。
その破壊力に脳がショートしそうになるのを必死に堪え、俺はあえて常識的な代案を捻り出した。
「もうちょっとだけって、じゃあ……どうするんだ?どっか近くのカフェとか、もう一回行くか?」
時刻はまだ18時を回ったところだ。
門限というわけでもないし、時間はまだある。
そう思って提案してみるも、雫の回答は俺の予想を遥かに超えるものだった。
「カフェとかじゃなくて……ゆっくり出来るとこ、行きたい……」
「……えっ……ゆっくり出来る所?」
彼女が言わんとしている意味は、俺のような鈍感男でも流石にわかる。
が、あまりにも急展開すぎないか?
雫は耳まで真っ赤に染め、モジモジと内股になりながらそれでも俺の目から視線を外さずにそう言った。
「うん。意味、わかるでしょ……?」
「いや、それはわかるけど……」
もし俺たちが普通のカップルであったなら、何ら問題はない。
むしろ男としてガッツポーズをして歓迎する場面だろう。
しかし、俺と雫の関係においては決定的に事情が違う。
今俺が握っているこの手も、俺を見つめるこの美しい顔も、すべては『朝凪澪』のものなのだ。
朝凪と雫が同一の身体を共有していると知らなかったあの夜なら、俺も勢いで流されていたが……だが、今は違う。
彼女が朝凪澪の身体を使って俺を誘っているという、とてつもない背徳感と罪悪感が、俺の理性を強烈に引き戻してくる。
いっそ、あの秘密を知らなければよかった。
そんな自分勝手な後悔さえもが、頭の中をぐちゃぐちゃに巡っていく。
「湊人……行こ?」
……やめてくれ。そんな、世界で一番可愛い顔で俺を誘わないでくれ。ズルいぞ雫……
「あたしわかるよ、湊人の考えてる事……」
俺の迷いを見透かしたように、雫が少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「ごめんね、わがままで……でもさ、あたしはあたしなんだよ。……そう思ってほしいな。せめて二人で一緒にいる時だけは……」
「雫……」
彼女は今、必死に『雫』という一人の存在として俺に触れようとしている。
その健気で必死な思いを前にして、俺に一体どんな正義が語れるというのか。
朝凪澪への罪悪感。雫への愛おしさ。二つの感情が激しく衝突し、俺の精神をめちゃくちゃにかき乱してゆく。
「湊人……どうする? やっぱ、やめとく?」
「………………」
ここで断って健全に家へ帰すのが正解だ。問題は何も起きない。
でも、悲しげに揺れる雫の顔を見たら、俺に断るという選択権なんてとっくに存在していなかった。
ここで彼女を拒絶することは、雫という存在そのものを否定することになる——どうしても、そんな気がしてならなかったから。
もちろん、これから朝凪澪にどんな顔をして会えばいいのか全く想像もつかない。
けれど、今の俺にとって一番大切なのは、目の前で俺を求めてくれている雫なんだ。
……ごめん朝凪……土下座でも何でもする。お前に殴られたって文句は言わない。だから今は……雫の事を優先させてくれ……。
俺は心の中で、俺をフったかつての想い人に深く頭を下げた。
「……雫……行くか……?」
「……うん……♡」
繋がれた雫の手を強く握り返し、俺は家へと続く改札から背を向けて歩き出す。
隣を歩く雫に目をやると、彼女は今日一番のキラキラと輝くような瞳をこちらに向けてくれていた。
「……湊人……ありがと……大好きだよ♡」
俺の腕にすり寄りながら囁かれたその言葉は、ひどく甘くて嬉しかった。
しかし、同時に、どこか終わりの近づく砂時計を見ているような物悲しさを帯びていて、俺はどうしようもなく複雑な気持ちになってしまう。
正解なんてわからない。誰を傷つけ誰を救っているのかも。
それが何よりも俺にとって辛く、恐ろしかった。
そして、俺はその後ネオンの光に誘われるように、雫と二人きりの世界で、一番幸せで背徳的な時間を過ごしたのだった——




