第92話:焦熱の前の休息、大悪党たちのパジャマ会議
地獄へのカウントダウンが刻まれる中、アークの船内には意外なほど穏やかで、そして濃密な時間が流れていました。
「最後くらい、みんなで楽しもう!」というメイの提案で始まったお茶会。それは、普段は超然としているフェネクスを巻き込み、フラウロスやアスタロトの秘めた想いが剥き出しになる、大悪党たちの「愛」に満ちたひとときとなります。
二度と戻れない旅を前に、彼女たちが交わす、甘く切ない誓いの物語です。
地獄へと続く道のりは、皮肉なほどに穏やかだった。
アークのエンジンは、メイの調整とアスタロトの加護を受けて、かつてないほど滑らかな低音を響かせている。窓の外には、遠くの方でゆらゆらと揺らめく陽炎と、どこまでも続く赤茶けた砂漠が広がっていた。数時間後には、ここが溶岩と熱風の渦巻く焦熱地帯に変わるなど、今の静寂からは想像もつかない。
「――よし! 今日はもう作業禁止! 地獄へ行く前に、みんなで最高に贅沢なお茶会をするよ!!」
メイがコクピットから勢いよく飛び出し、アークの居住スペース兼工房のテーブルに、両手を広げて宣言した。彼女の顔にはまだ昨夜の整備の煤が残っていたが、その瞳はキラキラと輝いている。
「……はぁ? ざぁこ。ざぁこ整備士、あんた正気なの?」
工房車のメインコンソールに身を預けていたフラウロスが、片眉を上げて呆れたように鼻を鳴らした。だが、その手元では既に、メイの宣言を予測していたかのように、ノアで仕入れた最高級の茶葉を温める準備が始まっている。
「いい? これからあたしたちは『二度と戻れない旅』に出るのよ? 演算リソースをすべて防衛システムに割くべき時に、お茶会なんて……。あんたの脳細胞、熱で蒸発しちゃったんじゃない?」
「いいの! 戻れないからこそ、今、この瞬間を最高に楽しくしなきゃダメなんだよ。……ほら、フラウロスちゃんだって、ノアでこっそり買った『幻のフォンダンショコラ』、隠してるの知ってるんだからね!」
「――っ! ざぁこ! なんでそれ……、ハッキングしたわね!?」
「してないよ! 匂いでバレバレだもん!」
メイに図星を突かれ、フラウロスが顔を真っ赤にして地団駄を踏む。その様子を、アスタロトは柔らかな微笑みを浮かべて見守っていた。彼女は慣れた手つきで、アークの狭いキッチンから、普段は使わない白磁のティーカップを並べていく。
「……メイの言う通りだ、フラウロス。……戦士にも休息は必要だ。特に、これからの地獄では、魂の余裕こそが最大の盾となる。……それに、私も少しだけ、甘いものが恋しいと思っていたところだ」
「アスタロトまで……! あーもう、わかったわよ! 出しなさいよ、その茶葉! あたしが世界で一番完璧な温度で淹れてあげるから、感謝して飲みなさいよね!!」
フラウロスは毒づきながらも、テキパキとお茶の準備を開始した。
やがて、狭い車内に芳醇なアールグレイの香りと、甘いチョコレートの匂いが立ち込める。砂漠の乾燥した空気の中で、その香りはあまりにも場違いで、だからこそたまらなく贅沢なものに感じられた。
「……ふむ。騒がしい女子らよな。……余が静かに因果の整理をしようとしておるというのに、菓子の匂いで台無しではないか」
アークの棚の上、一番高い場所で丸くなっていたフェネクスが、片目を開けて尊大に言い放った。その小さな体、少年のような愛らしい顔立ちからは想像もつかないほど重厚な声。だが、その短い足は、メイがテーブルに並べたお菓子の方へと、無意識のうちにパタパタと動いている。
「あ、フェネクス様! 起きてたんですね。……ほら、フェネクス様には、特製の『ハチミツ漬けのナッツ』を用意しましたよ。……一緒に食べましょう?」
「……。……くっ、致し方あるまい。主がそこまで請い願うのであれば、余がこの場に同席してやるのも、主従の理というものよ」
フェネクスは「やれやれ」と翼を広げ、音もなくメイの膝の上へと舞い降りた。その重みは驚くほど軽く、温かい。メイは紺色のグローブを外すと、白くて柔らかいフェネクスの羽毛に指を沈めた。
「――っ、ぬ……主! 許可なく余の御身に触れるとは不敬であるぞ!」
「えへへ、だってフェネクス様、すごくモフモフなんだもん」
「モフ……!? 何を……ひゃうんっ!!」
メイがフェネクスの首筋の、羽が一番密集しているあたりを優しく指先で解きほぐした瞬間、フェネクスは短い悲鳴のような声を上げた。少年の姿をした神獣が、顔を真っ赤にして、短い手足をバタバタとさせて悶える。
「……そこ、そこは余の……因果が集中する、敏感な……っ! よさぬか、くすぐったいと言うておろう!!」
「あ、本当だ。ここ、すごく柔らかい。……アスタロト、見て! フェネクス様、ここを触ると羽がふわぁって広がるよ!」
「……ほう。それは興味深いな。……メイ、私も手伝おう。……神獣の毛並みを整えることは、騎士の嗜みでもある」
「ア、アスタロトまで! 貴様ら、余を……ひゃんっ! あ、あぅ……」
二人の美少女に挟まれ、文字通り「モフり攻め」に合うフェネクス。普段の威厳はどこへやら、彼はメイの膝の上で、とろけそうな表情と必死に抗う自尊心の間で激しく揺れ動いていた。その様子を、フラウロスが呆れたような、けれどどこか楽しげな表情で眺めていた。
「――ざぁこ。本当にざぁこ可愛いわね、このショタジジイ……。……いいわ、記録に保存してあげる。一生の恥として、あたしの秘密フォルダに刻みなさい」
パシャリ、とフラウロスの端末がシャッター音を鳴らす。
灼熱の地獄まで、あとわずか。
だが、この瞬間のアークの中には、世界で一番温かくて、騒がしくて、最高に幸せな時間が流れていた。
ひとしきりフェネクスを「堪能」し終えた後。
お茶会の余韻と、糖分を摂取したことによる特有の眠気が、アークの狭い居住区にまどろみをもたらしていた。ティーカップの底にはわずかな茶葉が残り、フォンダンショコラの甘い香りが、エンジンの油の匂いと混ざり合って、どこか官能的な空気を醸し出している。
「……はぁ。まったく、主の好奇心には困ったものだ。余の因果がどれほど乱れたか、分かっておるのか……」
メイの膝の上で、毛並みをボサボサにされたフェネクスが、火照った顔を隠すように羽を繕っている。その少年のような唇はわずかに震え、荒くなった呼吸がメイの太腿に直接伝わり、彼女をくすぐったい気分にさせていた。
「ごめんね、フェネクス様。でも、本当に可愛かったから……」
メイは悪戯っぽく微笑むと、今度は横で静かに紅茶を啜っていたフラウロスへと視線を向けた。フラウロスは端末の画面を凝視していたが、その指先はわずかに震えている。
「……ざぁこ。何見てんのよ、この変態整備士。……そんなに暇なら、これ、貸しなさいよ」
フラウロスは、メイがテーブルの上に置いていた「紺色のグローブ」を、奪い取るように手にした。
「あ、フラウロスちゃん。……どうしたの?」
「……ここ、ほつれてる。あんたの使い方が乱暴だから、繊維が悲鳴を上げてるわ。……あたしが直してあげるから、黙って見てなさい」
フラウロスは工房車の奥から、銀色の繊細な裁縫道具を取り出した。彼女の細い指先が、メイのグローブの「綻び」を愛おしむように撫でる。
フラウロスは、あえてメイの隣に座り直した。肩と肩が触れ合い、布越しに伝わるフラウロスの体温が、メイの心拍を少しだけ速める。フラウロスは真剣な表情で針を動かし始めたが、その距離の近さに、メイは彼女のうなじから漂う甘い、けれどどこか刺激的な、電子部品と香油が混ざったような香りに気づかされる。
「……あの、フラウロスちゃん。……私、フラウロスちゃんのこと、本当に大好きだよ」
「――っ!! ざ、ざぁこ!! ざぁこざぁこ!! 急に何言ってんのよ、このバカ!!」
フラウロスは顔を一瞬で林檎のように真っ赤にし、針を刺しそうになって激しく動揺した。その拍子に、彼女の薄い胸元がメイの腕に押し付けられる。柔らかく、けれど熱い感触。
「いい? あたしはあんたを監視しなきゃいけないから、ここにいるだけなんだから! 変な勘違いしないでよね!!」
「……ふふ、フラウロスは素直ではないな。……だが、その赤らめた頬こそが答えだろう」
背後から、アスタロトの艶やかな声が響いた。
彼女はいつの間にか重い鎧を脱ぎ、薄手のインナーウェア一枚になっていた。鍛え上げられたしなやかな肢体、白い肌に浮かび上がる細い汗の粒が、室内の照明を反射して真珠のように輝いている。
「……メイ。髪が乱れているぞ。……これから地獄へ向かうというのに、そんなだらしない姿では困る」
アスタロトはメイの背後に回り込むと、メイの首元にその涼やかな指先を滑らせた。ひやりとした指の感触が、メイのうなじを愛撫するように這い回る。アスタロトはメイの髪を優しく解き、一本一本を丁寧に整えていく。その動作は過保護なほどに甘く、メイは抗いがたい背徳的な快感に身を委ねそうになった。
「アスタロト……、ちょっと、くすぐったいよ……」
「……我慢しろ。……これは、私の『儀式』だ。主を最高の状態で戦場へ送り出すためのな」
アスタロトの唇が、メイの耳元をかすめる。吐息が耳を打ち、メイの背筋にゾクゾクとした震えが走った。
「――ちょっと、アスタロト! あんた、どさくさに紛れて何してんのよ!!」
グローブの修理を終えたフラウロスが、嫉妬を隠しきれない声で叫ぶ。
「メイはあたしの整備対象なんだから、あんたが勝手に触らないで!!」
「……ほう。ならばフラウロス、お前も加わるか? 主の美しさを保つための『メンテナンス』にな」
「な……っ!? 変なこと言わないでよ、この戦闘馬鹿!! ……でも、……あんただけが良い思いをするのは、論理的に許せないわ……」
フラウロスは、震える手でメイのもう片方の腕を掴んだ。
メイは、膝の上で丸くなるフェネクスの温もりと、両脇から迫るアスタロトの強引な優しさ、そしてフラウロスの不器用な情熱に挟まれていた。
狭いアークの中で、四人の体温が混ざり合い、濃密な熱気が充満していく。
これから始まる死の旅路。
その直前の、あまりにも甘美で、狂おしいほどに幸せな、大悪党たちの秘められた時間。
「……やれやれ。……余を差し置いて、何を熱くなっておるのだ。……よかろう。……余の加護を、お前たち全員にたっぷりと授けてやろうではないか」
フェネクスがメイの胸元に顔を埋め、いたずらっぽく笑った。
狭い車内に満ちた熱気は、もはやエンジンの排熱だけが原因ではなかった。四人の体温、混じり合う吐息、そして「二度と戻れない」という極限の心理状態が、彼女たちの理性を少しずつ、だが確実に溶かしていく。
「……んっ、……アスタロト、……そこ、……あ、……っ」
メイの口から、無意識に震えるような吐息が漏れた。背後から抱きしめるようにして髪を整えていたアスタロトの指先が、いつの間にかうなじの柔らかな肌を愛撫し、鎖骨のラインをなぞり、そのまま薄いシャツの隙間から胸元へと滑り込んでいたからだ。
騎士の指は驚くほど器用に、メイの感受性を刺激するポイントを捉える。メイの体は逃げ場を失い、後ろのアスタロトの豊かな胸の膨らみに、背中をぴったりと押し付ける形になった。
「……メイ、体が熱いぞ。……心拍も、……ひどく速い。……そんなに、私の指が、……嫌か?」
アスタロトの声は低く、そして濡れていた。彼女の長い銀髪がメイの首筋に絡み合い、冷たい感触と熱い肌のコントラストが、メイの意識を朦朧とさせる。
「嫌じゃ、……ない、……けど……。……フラウロスちゃんも、……見てる……」
メイが助けを求めるように視線を向けると、フラウロスは自身のグローブを修理し終え、潤んだ瞳でこちらを凝視していた。その顔は、怒っているのか、それとも欲情しているのか判別できないほど紅潮している。
「……ざぁこ。……あんた、そんな顔して……。……ずるいわよ、……あたしにも、……ちゃんと、……分担させなさいよ」
フラウロスは毒づきながらも、メイの正面へと跪いた。彼女はメイの紺色のグローブを嵌めた手を掴むと、その指先を一つずつ、自らの唇へと運んだ。
「……この手は、あたしのプログラムを実行し、……あたしの理想を具現化する……あたしのための道具なんだから。……メンテナンス(愛撫)の優先権は、あたしにあるのよ」
フラウロスは、メイの指を包み込むように吸い上げ、舌先でグローブの繊維越しに、指の輪郭を執拗になぞる。
「あ、……っ、……フラウロス、ちゃん……」
前からはフラウロスの情熱的な独占欲、後ろからはアスタロトの包み込むような過保護な愛。挟み撃ちにされたメイは、腰の力が抜け、膝の上で丸まっていたフェネクスの背中に、ぐったりと体重を預けた。
「……く、くく……。……実に、……良い因果が渦巻いておるな。……お前たちの、この剥き出しの執着、……地獄への供物としては最高ではないか」
フェネクスは、メイの太腿の間に顔を埋めたまま、愉悦に満ちた声を上げた。彼はメイのシャツの裾を、小さな手で弄び、時折その柔らかな腹部に唇を寄せた。
「……安心せよ。……この熱が冷める前に、余が地獄の門を抉じ開けてやろう。……お前たちのこの『愛』という名の狂気さえあれば、……炎など、ただの微温湯に過ぎん」
その時。
アークの船体が、これまでとは違う、腹に響くような重低音に揺れた。
窓の外。遥か彼方の地平線で、七つの巨大な影が、ついに漆黒の噴煙を天高く吹き上げた。雷鳴のような轟音が、厚い装甲を通り抜けて、彼女たちの鼓動と共鳴する。
「――来たわね。……ざぁこ共。……最高の、お茶会だったわ」
フラウロスが、メイの指を離し、潤んだ瞳のまま不敵に笑った。彼女は立ち上がり、メインコンソールへと向かう。その足取りは、先ほどまでの甘えが嘘のように、冷徹なハッカーのそれへと戻っていた。
「……メイ。……名残惜しいが、儀式はここまでだ」
アスタロトもまた、メイの耳元に最後の一吻を残すと、静かに身を引いた。彼女は再び、自身の剣と、アークの動力源を繋ぐソケットへと手をかける。
メイは、火照った体を整え、紺色のグローブを固く握り締めた。
指先にはまだ、仲間の温もりと、言葉にできないほど濃厚な愛の余韻が残っている。
二度と戻れない。
けれど、この瞬間の熱さえあれば、世界のどんな理不尽だって直せる気がした。
「……行こう。……私たちの、……最高に狂った、片道旅行へ!!」
メイがアクセルを床まで踏み込んだ。
アークが咆哮を上げ、異形の装甲を震わせながら、赤く染まった地獄の門へと突っ込んでいく。
彼女たちの笑い声は、迫りくる火山の轟音に飲み込まれ、そして一つに溶け合っていった。
ご愛読ありがとうございました。
普段は喧嘩ばかりの4人が見せた、肌を寄せ合うほどの深い信頼と愛着。その熱気は、アークの装甲を内側から溶かさんばかりの輝きを放っていました。
しかし、至福の時間は終わりを告げ、窓の外にはついに世界の果て――七つの活火山が姿を現します。
次回、第93話「第一装甲パージ、溶岩の河を越えろ」。
地獄の熱風がアークを襲い、少女たちの覚悟が試される時。最初の「消耗」が始まります。




