第91話:解析、そして地獄への階梯
手に入れたのは、地獄への地図と、突きつけられた絶望的な現実。
クロノス・シンジケートさえもが「生還不可能」と断じた禁忌の領域へ踏み込むため、メイたちはある過酷な決断を下します。
それは、これまで旅を共にしてきたアークの姿を異形へと変え、退路を自ら断つ「片道切符」の改造でした。
戻れない旅路を前に、四人が交わす言葉と、静かな覚悟の物語です。
砂漠の夜は、すべてを拒絶するように冷たい。
アイアン・フィストから辛くも脱出したメイたちは、要塞の追跡を逃れるために数時間の強行軍を行い、現在は岩陰の死角にアークと工房車を停めていた。周囲には風が砂を噛む音以外、生命の気配は一切ない。
だが、工房車の中だけは、サーバーから強引に引き抜いた膨大なデータの解凍処理による排熱で、肌がじりじりと焼けるような熱気に包まれていた。ホログラム・モニターが放つ蒼白い光に照らされたフラウロスの顔は、まるで死人のように青白く、その瞳には終わりのない数字の羅列が、滝のように流れ落ちては反射している。
「――見てよ、これ。笑っちゃうくらいに『ざぁこ』な記録のオンパレードよ。」
フラウロスが、乾いた笑いと共にホログラムを乱暴にスワイプした。そこに映し出されたのは、クロノス・シンジゲートが過去数十年にわたり、密かに「禁忌の円環」へ送り込んできた無人偵察機や、特殊改造を施された調査車両の末路だった。
どの機体も、目標座標の数キロ手前で「溶解」するか、あるいはサイクロンの猛烈な研磨作用によって装甲を紙細工のように削り取られ、通信を絶絶している。
「組織の技術部には、世界中の天才が集まっていたはずだよね? でも、どうして……。」
メイはアークの操縦席から身を乗り出し、その凄惨な失敗ログを食い入るように見つめた。そこには、組織の最高峰の知性が、自然の暴力の前に膝を屈した歴史が刻まれていた。
「理由は単純よ、メイ。あいつらは『帰ってくること』を前提に計算を立てていたからよ。……機体を守り、パイロットの安全を確保し、高価な機材を無事に回収する。……生物として仕方のないことだけれど、『安全』という名の呪縛に縛られているうちは、あの地獄には指一本触れられないわ。……組織のざぁこ装甲じゃ、中心部に辿り着く前に質量がゼロになる。それが演算が導き出す、唯一にして絶対の真実よ。」
フラウロスは端末を叩き、一つの破棄された設計案を大きく投影した。
それは組織の倫理委員会によって「非効率かつ非人道的」として開発が凍結された、禁忌の装甲理論だった。
「……アブレーション・多重積層装甲。……熱を反射したり、嵐を弾いたりすることを諦めた、完全な『消耗』の理論よ。……装甲そのものを順繰りに燃やし、削らせ、パージ(切り離し)していくことで、中核の冷却機能を一秒でも長く維持する。……これを使えば、確かに中心部には届くでしょうね。……でもね、メイ。……中心部に着く頃には、アークは骨組み同然の姿になるわ。……砂漠へ戻るための、帰り道の守り(バリア)なんて、最初から計算に入っていないのよ。……これは片道切符。文字通り、二度と戻れない旅になる。」
フラウロスの言葉が、熱気の籠もった車内に、鉛のような重さで落ちた。
戻れない旅。
それは、これまでメイが守り抜いてきた「アーク」という家を、自らの手で解体しながら進むことを意味する。そして、砂漠の向こうにある「日常」との、永久の別れを意味していた。
「……フェネクス様。……ゼロさんは、ずっと、あんな場所で一人で待ってるんだよね?」
メイは、工房車の隅で静かに黄金の瞳を閉じているフェネクスに問いかけた。
「……左様。あやつは、世界の因果を繋ぎ止めるための『楔』となった。……自らを不変の存在へと改造し、理が崩壊した地獄の中心で、数百年もの間、ただ独りで世界の綻びを見つめ続けてきたのだ。……そこには食料も、娯楽も、言葉を交わす相手もおらぬ。……あるのは、ただ無機質な熱と、理不尽なまでの静寂だけよ。」
フェネクスが目を開け、メイを見据えた。
「メイ。お前が踏み出そうとしているのは、修理屋の領域を超えた『狂気』の先だ。……あやつの元へ辿り着いたとして、その後お前を待っているのは、救いではないかもしれん。……それでも、行くというのか? 帰路を断ち、己の存在を削り落としながらな。」
メイは、自身の両手を見つめた。
フラウロスから贈られた、まだ汚れの少ない紺色のグローブ。
その下にある、組織の要塞で得た情報の重み。
恐怖がないと言えば嘘になる。だが、それ以上にメイを突き動かしていたのは、今まで感じたことのないほど純粋な、魂の震えだった。
「……あの日、傷ついたアークを私が見つけたのは……きっとこの日のためだったんだと思う。」
メイの声には、迷いがなかった。
「……組織が『片道切符だ』って諦めたなら、……私がそれを、……『最高の片道旅行』にしてやるだけだよ。……ゼロさんが一人で待ってるなら、……私がそこへ行って、……あちこちガタがきてるはずの世界を、……全部リペアしてあげる。……戻ってこれないなら、……その分、あっちでたっぷりお喋りすればいいだけでしょ?」
メイは顔を上げ、フラウロスと、そして静かに控えていたアスタロトに向かって微笑んだ。
その笑顔は、かつて荒野で震えていた少女のものではなく、数多の困難を「修理」という名でねじ伏せてきた、本物の大悪党の輝きを宿していた。
「フラウロス。……その『使い捨て』の装甲、今すぐ取り掛かろう。……アークを、……世界で一番贅沢な『一回きりの翼』に作り変えるんだ。」
メイの言葉に、フラウロスは一瞬だけ呆然としたが、すぐに「ふん」と鼻を鳴らした。
「……あーあ。……やっぱりあんたは、救いようのない『ざぁこ』ね。……いいわよ。……あたしも、二度と更新されないデータベースなんて退屈で死にそうだったところだわ。……クロノスの臆病者たちが腰を抜かすような、最高の片道切符を書き上げてあげるわよ!!」
夜の砂漠に、再び火花が散り始めた。
それは破壊のためではなく、帰る場所を捨てた者たちが、未来という名の絶望へ向かうための、最初の一歩だった。
アークの装甲をパージ(切り離し)しながら進むという、あまりに無謀な「使い捨て」のプラン。それは整備士としての常識を捨て、ひたすら前進することだけに特化した、狂気の改造だった。
作業は深夜に及び、メイとフラウロスは工房車から運び出した予備の合金プレートを、アークの全身にパッチワークのように貼り付けていく。一枚、また一枚と装甲が増えるたびに、アークの姿はかつての面影を失い、武骨な岩塊のような異形へと変わっていった。
その作業の最中、暗闇の中で静かに大剣を研いでいたアスタロトが、意を決したようにメイへと歩み寄ってきた。
彼女の表情はいつになく真剣で、その手には、これまで一度として他人に触れさせたことのない、彼女の半身とも言えるあの「大剣」が握られていた。
「……メイ。一つ、提案がある」
アスタロトの声は低く、だが鋭い意志を孕んでいた。メイは工具を止め、グローブをはめた手で汗を拭いながら彼女を見上げた。
「どうしたの、アスタロト? 改造なら、あと少しで外装の第一層が終わるけど……」
「いや。装甲ではなく、動力の話だ。……組織のデータによれば、円環の中心部へ向かうほど、熱による出力低下と、電子機器の不全が加速する。……もし、エンジンの冷却が追いつかず、アークの電力が途絶えれば、その瞬間にパージ機構も止まり、私たちは生きたまま蒸し焼きになるだろう」
アスタロトは一歩前へ出ると、自身の剣の柄をメイへと差し出した。
「……非常時、私の剣からアークのバッテリーへ、直接エネルギーを流し込めるようにしてほしい。……この剣は、私の生命エネルギー……魔力と呼ぶべき力を媒介する。……回路さえ繋げば、一時的にアークの出力を無理やり引き上げ、システムを再起動させる予備電源になるはずだ」
「……えっ!? でも、それってアスタロト自身の負担が……」
メイは驚き、言葉を失った。
魔力を直接アークへ流し込む。それは、アスタロトが自らの命を削って、機械に血を分けるようなものだ。接続がうまくいかなければ、アスタロト自身の神経系にも、アークの回路にも、取り返しのつかないダメージが及ぶ危険があった。
「……ざぁこ。……アスタロト、あんた本気なの? ……それ、下手をすればアークの過電圧で、あんたの回路ごと焼き切れるわよ」
工房車の屋根から身を乗り出したフラウロスが、眉をひそめて警告する。
「……分かっている。だが、地獄のど真ん中で止まれば、どのみち全員死ぬ。……それに、私はただの護衛ではないはずだ。共に世界の核心へ辿り着くために、私のすべてを使ってほしい。」
アスタロトはメイを真っ直ぐに見据えた。その瞳には、かつて組織の命令に従うだけの冷徹な「鴉」の影はなく、一人の武人として、そしてメイを信じる仲間としての、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「……お願いだ、メイ。……私を、ただ守られるだけの存在にしないでくれ。……この剣を、アークの『予備心臓』として組み込んでほしい」
「……アスタロト……」
メイはアスタロトの剣の柄に、そっと手を触れた。
冷たい金属の感触。だが、その奥底からは、アスタロトという強大な存在が放つ、熱い鼓動のようなものが伝わってきた。
二度と戻れない旅。帰る場所を捨てたのは、メイだけではない。アスタロトも、フラウロスも、自分のすべてを賭けて、この一回きりの冒険に身を投じようとしている。
「……わかった。……わかったよ、アスタロト。……でも、無理は絶対にしないで。……アークが止まりそうになったら、アスタロトの力を少しだけ、……貸してもらうからね」
「……ああ。約束しよう」
アスタロトは短く応じ、メイの手から剣を引き取ると、その回路の「受け口」を作るための分解作業を許可した。
メイはアークのメインパネルをこじ開け、複雑な変換アダプターを急造する。アスタロトの魔力を、機械が扱える電力へと変換するための、即興のリペアだ。
「――あーあ。……どいつもこいつも、救いようのない熱血ざぁこね。……いいわよ、あたしが電圧制御のプログラムを組んであげるわ。……アスタロトが炭にならないように、コンマ一秒単位で監視してあげるから、感謝しなさいよね!」
フラウロスはそう毒づきながらも、指先をフル回転させて、かつてないほど精密な制御コードを書き上げ始めた。
夜の静寂の中、アークの周囲では、金属がぶつかり合う音と、キーボードを叩く音だけが響き続ける。
それは、絶望的な未来へ向かう準備だというのに、彼女たちの顔には、どこか晴れやかな、そして熱に浮かされたような高揚感が漂っていた。
「……ねえ、フラウロス。……戻ってこれないって分かってるのに、……どうしてかな。……私、今、すごく楽しいんだ」
メイがポツリと漏らした言葉に、フラウロスは顔を上げず、不敵に笑った。
「……決まってるじゃない。……ざぁこ整備士。……正解も保証もない場所へ、自分の腕一本で突っ込む。……これ以上にクリエイティブな仕事が、他にあるわけないでしょ?」
三人の心が、アークという一台の重機を通じて、一つに溶け合っていく。
地獄への階梯。その階段は、彼女たち自身の意志によって、一歩ずつ、確実に形作られていった。
東の地平線が、重苦しい鉛色から、火傷の痕のような赤紫色へと染まり始めた。
徹夜の作業を終えたメイは、工具を握りしめたまま、フラフラとアークの足元に座り込んだ。紺色のグローブは油と金属粉で真っ黒に汚れ、彼女の頬には煤がついている。だが、その視線の先には、これまでの旅で慣れ親しんだ姿とは似ても似つかない、異形へと変貌を遂げた「アーク」が、夜明けの光を浴びて屹立していた。
それはもはや、美しい重機ではなかった。
クロノスの技術をメイの感性でねじ曲げ、何層もの合金プレートを魚の鱗のように貼り重ねたその姿は、まるで脱皮を待つ巨大な蛹か、あるいは戦場へ赴く無骨な鉄の棺桶のようにも見えた。表面に塗られた特殊な耐熱塗料が、朝の光を鈍く反射している。
「……終わったわ。ざぁこ……。本当に、全部使い果たすつもりなのね。」
フラウロスが、工房車のハッチに寄りかかりながら、力なく呟いた。彼女の足元には、空になった冷却剤のボトルや、過負荷で焼き切れたスペアパーツの山が転がっている。彼女はアークのメインフレームを再起動し、最終チェックの数値をモニターへと流した。
画面には「RETURN IMPOSSIBLE(帰還不能)」の文字が点滅している。それは、フラウロス自身が書き込んだ、この改造の「正解」を示す警告だった。
アスタロトは、アークの動力直結型に改造された自身の剣のソケットを、静かに確認していた。彼女の銀色の鎧には、激しい溶接作業で飛び散った火花の跡がついている。
「……メイ。回路の接続は完璧だ。……私の力は、いつでもこの重機と共にある。……お前が望む限り、アークの鼓動が止まることはない」
「……ありがとう、アスタロト。フラウロスも、無理言ってごめんね」
メイは立ち上がり、痺れる足を引きずりながら、仲間の元へ歩み寄った。
そこへ、アークの肩に留まっていたフェネクスが、音もなく羽ばたき、三人の中心へと降り立った。彼の黄金の瞳は、昇り始めた太陽よりも鋭く、これからの旅路がどれほど過酷なものになるかを、無言で物語っている。
「……メイよ。もう一度問う。……この一歩を踏み出せば、お前を縛っていたこの砂漠の理は、すべて無へと帰す。……それでも、お前はあやつに、ゼロに会いに行くのか」
メイは遠くを見据えた。
地平線の彼方、空の果てには、まだ肉眼では見えないはずの「七つの火山」から立ち上る黒煙が、世界の境界線を汚すように微かに揺らめいている。
そこにあるのは、おじいちゃんが遺した最大の問いかけであり、ゼロという女性が数百年守り続けてきた世界の欠陥だ。
「……うん。行かなきゃいけないんだ。……おじいちゃんがアークを直してくれたみたいに、……私も、ゼロさんの寂しさとか、壊れちゃった世界のルールとか、……全部、私の手でリペアしたい」
メイは自分の胸に手を当てた。そこには、二度と戻れないことへの恐怖と、それ以上に、今まで見たことのない景色への、爆発しそうなほどの期待が同居していた。
「戻ってこれないから、怖いんじゃない。……戻ってこれないくらい遠くまで、私たちが歩いてきたんだって思ったら、……なんだか誇らしいよ。……私は、最高の仲間と、最高の重機と一緒に、……世界の果てを直しに行く。……ねえ、みんな、そうでしょう?」
メイの問いかけに、フラウロスは呆れたように肩をすくめ、アスタロトは力強く頷いた。フェネクスは黄金の瞳を細め、満足げに喉を鳴らした。
「――当たり前でしょ。ざぁこ。……あたしの最高傑作が、地獄の火に負けるなんて万に一つも許さないわよ。……世界の果てまで、あたしの演算が寄り添ってあげるわ」
「……私達の路を塞ぐものは、たとえ物理法則であっても、私の剣が切り裂く。……行こう。私たちが、新しい歴史の『修理屋』となるために」
四人の視線が、一つに重なった。
もう、言葉は必要なかった。
帰還を前提とした「冒険」は、ここで終わる。
ここから先は、命そのものを燃やして進む、神話にも似た、たった一度きりの「旅」だ。
太陽が完全に地平線から顔を出し、アークの無骨な装甲を眩いばかりの黄金色に染め上げた。
メイは深呼吸をし、紺色のグローブをはめ直し、アークのタラップに手をかけた。
「……行こう。……私たちの、最高の片道切符で!!」
砂漠の静寂を切り裂き、重厚なハッチが閉まる音が響いた。
それが、彼女たちがこの世界に残した、最後の「音」となった。
ご愛読ありがとうございました。
アークに施された「使い捨て」の装甲、そしてアスタロトが申し出た命懸けの接続。
「二度と戻れない冒険」という響きに、恐怖ではなく高揚感を覚える彼女たちは、もはやただの放浪者ではありません。
次回、第92話「焦熱の門、七つの火の山」。
ついにアークの轍は、世界の理が燃え盛る地獄の入り口へと刻まれます。
第一装甲がパージされる時、彼女たちの本当の戦いが幕を開けます。




