沈む思い
秘密、と言う言葉が甘さよりも重苦しさを伴う様にになったのはこの頃からだ。
私と彼の関係は誰にも知られちゃいけない、その想いが日ごとに強くなる。
七青は変わらず穏やかで優しかったが、私の心の一部が怯えている事に気付いているようだった。
「ひろかは…もうここには来ない方がいいんじゃないかな」
咎めるでもなく、諭すでもなく彼は淡々と言った。一番大きな水槽の中のアロワナが、ゆらりと身を翻して水面を揺らす。
「…どうして?」
私は魚を見る振りをしながら、彼に背を向けて言った。
そうしたいとも思っていたし、そうしたくないとも思っていた。
「あまり楽しそうじゃないから」
責める口調にならないよう、精一杯優しい声で彼が事実を述べる。
「そんな事ないもん」
私は少し拗ねる口調になった。追い出されるようにして出て行くのは嫌だった。
「そう?」
彼は私を責めない。
「それならいいんだけど」
「………」
好きと言う感情は御しが難い。彼がもっと、束縛するように私を求めてくれたら良かったのに。そうすればそれを言い訳にして、ここに通い続ける事ができたのに。
選択肢を渡される事で、自由が利かなくなる事を私はこの時初めて知った。
ここにいて欲しいと言って欲しかった。
秘密を共有して、立った二人きりの楽園に住み続けていたかった。
けれど、それが不可能な事を誰より知っていたのも彼だった。
「ひろかは…ここにいたら邪魔?」
「そんな事はないよ」
「ひろかの事…嫌いになった?」
「…どうして?」
「だって…」
それ以上言えなくなる。
これでは駄々を捏ねている子供そのものだ。
でも言葉の続きを口にするには、闇に一歩踏み出す事になる気がして勇気が出なかった。
―――どうしてあれ以来…、キスしなくなったの?
言えばしてくれたのかもしれない。恐怖の全くない、優しいだけのキスを。
けれど、結局それは嘘を重ねる事にしかならない気がして、私は言い出せなかった。
その代わり、彼の膝の間にもぐりこんで、胸に凭れて丸くなる。
猫のように。小さな子供がただ無邪気に甘えるように。
肉付きの薄い手が、私の髪を撫でる。
「ごめん……」
聞こえるかどうか分からないくらいの小さな声で、彼が囁く。
私は目を閉じて眠った振りをした。
彼がどうして謝るのかなんて分からなかったし知りたくもなかった。
「…眠ったのかい?」
水底に沈んでいく。私達の熱は溶けて、波間に漂って消えてしまう。
それほどまでに儚くて脆い想いだった。
意識がは沈み、寝息を立て始めた私に、七青はやはり掠れるような小声で呟いた。
「君を…好きになるつもりなんてなかったんだ」
幻のように…それは哀しく響く声だった。
◇ ◇ ◇
終わりの日は突然だった。
「警察がね、捜してはいるらしいのよ」
太陽が容赦なく照りつけるアスファルトの交差点で、主婦らしき女性が数人、信号を待ちながら話している。横にいた小さな私の姿は目に入っていない様だった。
「ほら、最近多いじゃない? 小さな女の子に悪戯したりとか…」
「ああ、それ。七塚の方じゃ連れ込まれた子もいるって話よ?」
「本当に? やあねえ…、ちゃんと取り締まってもらわなきゃ。危ないったら…」
彼女達の声が徐々に遠くなっていく。自分の姿が殺人的な光で織り成される、白い闇へ溶けていく気がした。
耳の奥がガンガン鳴っている気がして、信号が青になるのを待たずに、もと来た道を引き返す。走り出した私に目を留めるものはいなかった。
自分の部屋に駆け込み、鍵を閉めてベッドの中に蹲る。息が切れて何にも考えられず、ただ、さっきの言葉だけがぐるぐる回り続けた。
(七塚の方じゃ―――)
(警察がね―――)
目の前が暗くなり、頭の中がじんじんと痺れる。
(誰を、探しているって―?)
私は恐怖に捕われ、秘密の崩壊に怯えた。
七青じゃない。
七青であるはずがない。
彼はずっと私と一緒だった。他の子を連れ込んだりできる筈がない。
けれど…それを証明出来る人がどこにいる?
もし、誰かに私の姿を見られていて、怪しまれて通報されたりしたら?
例えば、あの日来た弁護士の女性が、警察に何か言ったら?
罪を、犯したわけではない。
けれど何もなかった訳でもない。
もし警察に訊かれたら何て答えればいい?
両親にその事が知られたら……七青はどうなってしまうのだろう。そして私は―――?
その日から、ぱったり彼の部屋へは行かなくなった。お互いのケータイや電話番号も交換していない。けれど、七青が警察に捕まる夢を見、私のところに警察が来ないかと怯えた。来訪の途絶えた私を、彼がどう思っているのか気にならないではなかったが、私が彼との秘密を守る方法は、あの部屋へ行かない事しか思いつかなかった。
彼を守りたかったと言うのも嘘ではない。
けれど、それ以上に怖かったのは自分が傷付く事だった。
彼は悪くない。
でも私も悪くない。
誰にもあの部屋に触れられたくないと言った彼。
そこにたった一人、入る事を許された嬉しさは、今となっては恐怖の源でしかなかった。
私は―――自らの罪悪感と共に、彼との楽園を自らの内に封印したのだった。
しばらくして、私の中の封印が深い奥底に沈もうとしていた頃、七塚の隣町で知らない男が強制わいせつ罪で捕まるという記事が、新聞に小さく載っていた。
けれど、やはり私は彼のところに行かなかった。私は自分の中の何かが壊れてしまった事に気付いていた。一度私を縛った恐怖は、あの部屋に行っても決して消える事はないだろう。
(もう、来ない方がいいよ)
優しい彼の声は、自分にとって都合のいい残像でしかない事は分かっている。
けれど、彼が私を許すだろうことも分かっていた。
中学生に上がる頃、両親が郊外にマイホームを買ったのを機に、生まれてからずっと住んでいた賃貸マンションを引っ越す事になる。捩れた闇に覆われた不可視の記憶は、少しずつ一番深いところへと沈んでいったのだった。
◇ ◇ ◇
(やっぱり変わってるよなあ…)
波の音を背にしながら、目の前の男の子をぼんやりと見て、ふとそう思う。
朔原隆志は高校に入ってからのクラスメートで、ちょっとした異端児だった。変わり者と言われた私が思うのだから、相当なものだと思う。
亡羊とした外見と、それに似合わぬ突発的な行動は、度々周囲を驚かせていた。それでも彼が周囲から浮かなかったのは、彼に人の話を聞く誠実さとムードメーカー的な支配力があったからに他ならない。
海が見たいな、と呟いた私に、そのまま午後の授業を放棄させたのも、実は彼である。
彼は私がキスをした二人目の人だった。
「ねえ、ほら。小さな魚が泳いでる―――」
靴も靴下もとうに脱ぎ捨てて、波打ち際に屈みこんでいた私の横で、同じく屈みこんだ彼は水飛沫の洗礼を受ける羽目になった。
「松井、やったな…!」
悪戯の成功に笑い出す私に、彼は負けじとやり返す。
真っ白な入道雲の下、しばらく無邪気な攻防戦が続いた。
「うわー、制服びしょびしょだ」
「お互い様。この陽気ならすぐ乾くだろ?」
「あはは、そうだね」
濡れた前髪を掻き上げ、水浸しの眼鏡を外そうとする朔原の仕草に、突然記憶がすごい勢いで逆行する。忘れていた、いや、忘れたふりをして封じ込めた記憶の残像が、奇妙な錯覚と共に甦る。
(青い、青い海の底、彼はあの眼鏡を外して―――)
「松井?」
急な私の変化を鋭く読み取った朔腹が、怪訝そうな顔で私の顔を覗き込んだ。
「また思考がどっか飛んじゃったか?」
いつもの私の性癖を知っている朔腹は、その顔に微苦笑を浮かべる。
彼が時折見せる、この世の秘密を全て知っているかの様な瞳が、私を現実に引き戻した。
「朔原…」
「ん?」
「…例えばね、ものすごく好きだったいけない事を、忘れられないのは不健全? それとも忘れてしまう方が罪悪?」
数秒の沈黙が流れる。
「…何それ。新しい命題か何かか?」
不意に可笑しくなって目を伏せた。
「ううん。ただの、たわ言」
僅かに胸の痛みが生じる可笑しさに、私はそのまま朔原に背を向けて歩き出した。
朔原は心得ていて、ちゃんと追って来ない。泣きたい様な気もしたが、泣かなかった。
朔原が好きだな、と思うと同時に、奇妙な罪悪感で覆い隠されたもうひとつの同じ感情が明瞭にあらわれる。
記憶は時が風化させてくれると思っていた。全てが錯覚だったと思いたかった。けれど――
「好き、だった」
口に出して呟いた時、やっと自分の中の単純な真実にたどり着いた気がした。
哀しい目をした、私の初めての恋人。彼といた楽園。
たぶん、誰にも――、朔原にさえ言わないであろうその真実に、私は少し放心して、残りの言葉を空に放り投げた。
「――幸せ、だったなぁ…」




