08 アレクが話したあの夜のこと
08 アレクが話したあの夜のこと
「いいとも、アリス。あの日、君は雨の中を一人で歩いていた。
馬車を止めて声をかけると、君は今にも倒れそうだった。慌てて抱き上げて馬車に乗せ、その夜泊まったホテルでデイビスに診てもらったんだ。
あれだけ雨に打たれていたんだ。熱が出るのは当然だったよ。
それに……わたしたちは、君が虐待を受けて逃げてきた被害者ではないかと思っていた」
「虐待?」
アリスは目を丸くした。
「令嬢があんな雨の中を一人で歩いていた。それに栄養状態もひどかった。体に暴力の痕はなかったが、一応、行方不明者の届けが出ていないか調べたんだ。
本当なら、もう少し滞在して情報を集めるべきだった。でも、この船に乗らなければならなかった。
だから港へ着き次第、すぐ君の家族へ連絡を──」
「いえ、それは結構です」
思いのほか強い口調だった。
アリスは自分でも驚いたように息をのみ、すぐに頭を下げる。
「……失礼しました」
その顔は硬くこわばっていた。
「もちろん、君の意思を尊重するよ。嫌がることはしない」
アレクは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。
家族のことは……もういいんです。
向こうがわたしを忘れたんです。わたしも忘れました。
これからは一人で生きていきます。何か仕事を見つけて暮らします。もちろん大変でしょうけど……わたし、体だけは丈夫なんです」
「そうか」
アレクは少し考えてから笑った。
「それなら、わたしの仕事を手伝ってくれないか。
若い女性の意見が必要な仕事をしているんだ」
アリスは戸惑うように彼を見た。
「……同情してくださっているのですか?」
「とんでもない。本気で誘っている」
そう言ってアレクは笑う。
「むしろ利用したいくらいだ。
君は王太子妃教育を受けた令嬢だ。その経験には大きな価値がある。
だから遠慮なんてしなくていい。堂々としていればいいんだ」
「ありがとうございます」
アリスの表情にも、ようやく笑みが戻った。
「少し質問してもいいかな」
静かに口を開いたのはデイビスだった。
アリスは笑みを消し、小さくうなずく。
「聞きにくいんだけど……食事はどうしていたんだい?」
アリスは答えに詰まった。
「君は栄養が足りていない。ほとんど食べていなかったんだろう。
忙しかったのか。それとも誰も心配してくれなかったのかい?」
「……そうですね。
心配してくれたのは、一緒に仕事をしていた二人だけでした。
食べる時間も、お金もなくて……
あの二人には無事だと伝えたいです。それから、お借りした食費も返したいんです」
「そうか……」
デイビスは静かに目を伏せた。
「つらかったね。
でも、これからはきちんと食べる生活になる。
医師として体調はしっかり診るから、君もちゃんと食べることを約束してくれるね」
「はい。
こんなことを言うと馬鹿みたいですけど……
三食食べられるって、とても幸せなんですね」
その一言に、部屋が静かになった。
「そうか……それはよかった」
デイビスが穏やかに微笑む。
「本当によかった」
アレクも小さくうなずいた。
「それじゃあ、少し早いけど、お茶にしよう」
デイビスが空気を和らげるように笑う。
アレクは改めてアリスへ向き直った。
「船を降りたら、まず食事や健康について学べるよう手配しよう。
体をしっかり整えてから働いてもらう」
「わたくし……そのご恩をお返しできるでしょうか」
「もちろん。きちんと返してもらうよ」
アレクは楽しそうに笑った。
「はい」
アリスも安心したように、小さく笑った。
「……こんな言い方では不安になるね。
だから先に話しておこう。
わたしはクレールスター皇国の公爵なんだ」
一瞬言葉を切り、アリスの様子をうかがう。
驚く様子もなく静かに聞いているのを見て、アレクは続けた。
「今、わたしたちはビザン帝国へ向かっている。港にはあと二日で到着する。
帝都までは港から馬車で三日ほどだ。
港には迎えの馬車が来ている。一緒に帝都へ来てほしい。
仕事はもう始まっているから、港で必要なものを揃えよう」
「主な仕事は皇国へ送る報告書を書くことだ」
デイビスが補足する。
「それから、毎日きちんと食事をすること。それも立派な仕事だからね」
アリスは思わず笑みをこぼした。
「本当にありがたいことですね。
しばらく甘えさせていただきます」
「それがいい」
アレクは満足そうにうなずく。
「それと、港へ着いたら皇国へ使者を送る予定だ。
君の実家へも知らせることはできる。
本当に何もしなくていいのかい?」
「はい。何も……何もしないでください。
必要ありません」
迷いのない返事だった。
アレクは静かにうなずく。
「わかった。
港へ着くのは二日後だ。
もし考えが変わったら、いつでも教えてくれ」
その言葉に、アリスは小さく頭を下げた。
いつも読んでいただきありがとうございます!
誤字、脱字を教えていただくのもありがとうございます。
とても助かっております。
楽しんでいただけましたら、ブックマーク・★★★★★をよろしくお願いします。
それからもう一つ、ページの下部にあります、「ポイントを入れて作者を応援しよう」より、ポイントを入れていただけると嬉しいです。
よろしくおねがいします。




