07 アリスが話したあの夜の出来事
07 アリスが話したあの夜の出来事
部屋には静かな波音だけが響いていた。
アリスは両手でティーカップを包み込むように持ち、一度だけ深く息を吸う。
そして意を決したように顔を上げた。
「わたくしは……リーブル王国の王太子殿下の婚約者です」
その言葉に、アレクとデイビスは思わず顔を見合わせた。
王太子の婚約者。
二人が想像していたより、はるかに重い立場だった。
アリスは小さく首を振る。
「いえ……正確には、でしたでしょうか」
自嘲するように微笑む。
「この状態ですので、婚約はなくなっていると思います。おそらく……わたくしは死んだことになっております」
静かな声だった。
それだけに、その言葉の重さが部屋へ沈んでいく。
アレクは慎重に口を開いた。
「理由がおありだとは思っていました。でも……そこまでとは」
少し言葉を選び、
「アリスを見つけた状況が状況でしたから、普通ではない事情があるとは思っていました」
そして柔らかく微笑む。
「ゆっくりでいい。続きを聞かせてくれるかな」
アリスは小さく頷いた。
「では……あの日のことをお話しします」
視線は遠く、あの日へ向いていた。
「その日は『ピクニック』の日でした。」
「王室主催の親睦会です。もっとも、参加する方々は上位貴族がほとんどですので、どこかで皆つながっております。国王陛下や王妃殿下の学院時代のご友人もいらっしゃいますし、参加条件はとても緩やかです。集まりそのものも、和やかな催しです」
少しだけ懐かしそうに笑う。
「本来の目的は炊き出しの訓練です」
「災害や戦乱が起きた時、すぐに民へ温かい食事を提供できるようにするための練習です。主催は四公爵家が一年ごとに交代します。今年はスペーダ公爵家の担当でした」
そこまで話すと、表情が曇る。
「……ですが、公爵夫人は王妃殿下へ相談なさいました」
少し言葉を選ぶ。
「泣きついた、と申しますか……」
「結局、裏方はすべて、わたくしがお手伝いすることになりました」
デイビスの眉がぴくりと動く。
アレクも何も言わず続きを待った。
「子供の頃は何度か参加した記憶があります。でも大きくなってからは、ずっと留守番でした」
苦笑する。
「今回は、ほとんど初めて参加したようなものです」
そして静かに付け加えた。
「……準備だけは、毎年わたくしがしておりました。後片付けもやっておりました」
アレクが思わず聞き返す。
「毎年?」
「はい」
「ある年は国王陛下が、誰にも見つからないようにいらして、『悪いけれど頼む』と」
「次の年は宰相閣下が」
「王太子殿下ご自身がおいでになったこともございました」
アリスは力なく笑う。
「後片付けも、毎回わたくしでした」
デイビスは思わず拳を握った。
国王と宰相と王太子まで、国の中枢が一人へ仕事を押し付けていた。
医師としてではなく、一人の大人として怒りが込み上げる。
しかし口を挟まなかった。
今は最後まで聞くべきだ。
アリスの声が少し震え始める。
「炊き出しですから、大鍋でスープを作ります」
「今回は、その役目もわたくしでした」
「厨房で何度も練習しました。城の料理人たちは優しくしてくださいました」
少しだけ笑顔になる。
「あの方たちは、本当に親切でした」
「当日も王宮の厨房が協力してくださいました」
少し間を置き、
「本当は……スペーダ公爵家の料理人が担当すべきなのですが」
その先は言わなかった。
言わなくても二人には十分伝わっていた。
「スープを作り終えて、味見に一杯だけいただきました」
「それが、その日最初で最後の食事でした」
アレクは息をのんだ。
「バーベキューもございました」
少し照れたように笑う。
「楽しみにしていたんです」
「子供の頃も、ほとんど食べたことがありませんでしたから」
「いい匂いがしていて……」
そこで笑顔が消える。
「ですが、食べる時間はありませんでした」
静かな口調で、一つずつ数え始める。
「迷子が出ました」
「子供が転んで泣きました」
「落とし物です」
「飲み物が足りません」
「椅子を持ってきてください」
「毛布はありませんか」
「使用人はいるんです」
「親御さんもいらっしゃいます」
「主催者もおります」
少しだけ笑う。
「でも、全部わたくしでした」
デイビスは唇を強く結んだ。
「最後はブランコでした」
「子供が怪我をしたから責任を取れ、と」
「その対応をしている最中に空が暗くなりまして……」
アリスの視線が窓の外へ向く。
「あの風を覚えています。冷たい風でした」
アレクとデイビスはうなずいた。
「これは危ないと思いまして、皆様すぐ馬車へお戻りください、と大きな声でお願いしました。幸い、皆様すぐ避難してくださいました」
そして静かに続ける。
「……わたくしだけが残りました」
アレクとデイビスが顔を見合わせた。
「置いて行かれました」
その一言が、何より重かった。
「わざとではない……と思います」
そう言いながらも、声には迷いがあった。
「でも、行きは家族と同じ馬車でした。わたくしの家は父、母、兄、妹、そしてわたくしの五人家族です」
少し笑う。
「ですが、わたくしはほとんど王宮で暮らしておりますので……家族にとっては四人家族だったのでしょう」
アレクは何も言えなかった。
「行きの馬車でも『アリスがいると狭い』と文句を言われました」
それだけ言うと、とうとう涙があふれた。
ぽたり、ぽたりと雫が膝へ落ちる。
二人は何も言わない。
慰める言葉すら挟まなかった。
今必要なのは、話を最後まで聞くことだと分かっていたから。
しばらくして、アリスは涙を拭いた。
「雨で辺りは夜のように暗くなりました」
「……わたくし、怒っていたんです」
初めて感情を口にした。
「あんなに働いたのに、あんなに頑張ったのに、また忘れられた。そう思ったら……」
そこまで話すと、お茶を一口飲む。
「どこへ向かうかも考えず歩いていました」
窓の外には青い海がどこまでも続いていた。
長い沈黙が流れる。
やがてアリスは二人を見て笑った。
「……そのわたくしを、お二人が見つけてくださったのですね」
小さく頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
そして少し首をかしげた。
「もしよろしければ……」
「見つけてくださってからのお話を、お聞かせいただけませんか」
その願いに、アレクは静かにうなずいた。
「もちろんだ。」
隣でデイビスも優しく微笑む。
「君は覚えていないだろうが、あの時の君は……」
二人は、あの日の嵐の中の出来事を語り始めた。




