06 アレクとデイビス
06 アレクとデイビス
「船に一緒に乗せてしまったな」
窓の外に広がる海を眺めながら、アレクは静かにつぶやいた。
部屋の向かいで紅茶を口にしていたデイビスは、小さく肩をすくめる。
「仕方ないさ。あの状況で港へ置いてくるほうが、よほど非情だ。捜索願いも確認した。どこからも届け出は出ていなかった」
「そうだよな……」
アレクはため息をついた。
「身なりや言葉遣いから見て、あの子は間違いなく貴族の令嬢だ。それなのに誰も探していない」
「考えられるのは二つだ」
デイビスは指を折った。
「意図的に捨てられたか、自ら逃げ出したか」
その言葉に部屋の空気が重く沈む。
「栄養状態も良くない。骨ばっているほどではないが、痩せすぎだ」
医師らしい目で診察した結果を思い返しながら続ける。
「体に殴打の痕はない。骨折の治り跡もない。しかし精神的な虐待を受けていた可能性は高い。保護が必要だった、と私は堂々と主張できる」
しばらく沈黙が流れた。
船底を打つ波の音だけが静かに響いている。
やがてデイビスはアレクへ視線を向けた。
「これから、どうするつもりだ?」
アレクは少しも迷わなかった。
「せっかくできた縁だ。最後まで面倒を見る」
その声には決意しかなかった。
デイビスは穏やかに笑う。
「それでいい」
一拍置いてから、
「あと五日は船旅だ。焦る必要はない。事情を聞く時間はいくらでもある」
「無理に聞き出すつもりはないよ」
「それでいい。話したくなるまで待ってやれ」
「もちろん」
アレクは窓の外へ目を向けた。
夕日に照らされた海は、まるで新しい人生の始まりを祝福しているようだった。
いつの間にか眠ってしまっていたアリスは、控えめなノックで目を覚ました。
「アリス様、お食事のお時間ですよ」
ラズベリーが優しく声をかける。
「……はい」
まだ少し眠そうな顔で返事をすると、夕食は部屋まで運ばれてきた。
甘く煮たりんごと柔らかな豚肉。
湯気の向こうから漂う香りだけで、お腹が鳴りそうになる。
「美味しい……」
思わず小さな声が漏れた。
久しぶりに安心して食べる食事だった。
食べ終える頃、再びラズベリーが部屋へ入ってくる。
今度は両腕いっぱいに荷物を抱えていた。
机の上へ次々と置かれていく。
新品のノートと筆記具と本が何冊か。
「とりあえず、港でご用意できたものです」
ラズベリーは微笑んだ。
「他に必要なものがございましたら、どうか遠慮なくお申し付けください」
そして、クローゼットへ視線を向ける。
「お洋服も船に乗る前に急いで揃えたものです。十分とは申せませんが、どうか数日はご辛抱ください」
アリスは慌てて首を振った。
「そんな……。こんなにしていただいて、本当にありがとうございます。十分すぎます」
アリスは素直にお礼を言っている。
それが、ラズベリーにつらかった。
一人になると、アリスは早速ノートを開いた。
真っ白な一ページ目。
少し考えてから書き始める。
『これからやること』
『仕事を探す』
『勉強を続ける』
『お金を貯める』
『迷惑をかけない』
文字を書いているうちに、不思議と頭の中が整理されていく。
嫌なことも、口惜しかったことも、悲しかったことも、全部文字に変えてしまえば、少しだけ小さくなる気がした。
船を降りたら働こう。
誰にも迷惑をかけず、一人で生きていこう。
本当に遠くまで来てしまった。窓から見える海の向こう……
もう侯爵家も、城も幼い頃を過ごした場所も見えない。
——遠くへ行きたい。そう願った。
そして今、文字どおり手の届かない場所になっていた。
「……これで、いいのよね」
誰に言うでもなく、小さくつぶやいた。
夕食は食堂ではなく、アレクの部屋で一緒に食べることになっていた。
身支度を終えたアリスは静かに迎えを待つ。
コンコンコンコン、控えめなノック。
「アリス、迎えに来たよ」
聞き慣れた優しい声だった。
扉を開けると、アレクが柔らかく微笑んでいる。
自然な仕草で右手が差し出された。
なにも考えることなく、そっと手を重ねる。
背筋を伸ばして、視線は少し前。
顎をほんの少しだけ上げる。
自分をきれいに見せる歩幅。
それは美しく完成された令嬢の所作だった。
アレクは思わず目を細める。
(やっぱり……)
間違いない。
この子は徹底した教育を受けている。
努力して身につけた動き。
それが何も考えず自然に出てくる。
アリス自身はそんな視線にまったく気づかず、いつも通り歩いていた。
夕食は香ばしく焼かれた鶏料理だった。
甘酸っぱいベリーソースが添えられ、香りが広がる。
「いただこうか」
アレクは手際よく鶏肉を切り分け始めた。
「アリスは、まだ脂の少ないところがいいね」
そう言って柔らかなささみと胸肉を皿へ乗せる。
「ソースは好き?」
デイビスが尋ねる。
「はい、とても好きです」
「じゃあ多めにしてあげよう」
「ありがとうございます」
アリスの皿いっぱいにソースがかけられる。
嬉しそうに笑う顔を見て、アレクとデイビスはそっと顔を見合わせた。
(ようやく笑った)
二人とも同じことを考えていた。
食後、アレクがデザートの皿を眺めながら聞く。
「アップルパイとコンポート、どちらにする?」
アリスは悩んだが、
「……コンポートにします」
「いい子だ。夕食のあとにパイは少し重いからね」
「そう思いました」
「昼だったら好きなだけ食べてもいい」
「本当ですか?」
ぱっと顔が明るくなる。
「もちろん」
その無邪気な笑顔に、部屋の空気まで柔らかくなった。
食事が終わり、お茶が運ばれてくる。
カップを両手で包むように持ったアリスは、少しだけ視線を落とした。
そして意を決したように口を開く。
「アレク様」
「うん?」
「……わたくしのことを、お話ししてもよろしいでしょうか」
その声は小さい。
けれど、逃げる声ではなかった。
アレクは優しく微笑む。
「話してくれるの?」
少し間を置いて、
「もちろん聞く。でも、無理に話さなくてもいいんだよ」
アリスはゆっくり首を横に振った。
「いえ……お話しさせてください」
一度息を吸う。
「愚痴になるかもしれません」
また少し考える。
「愚痴というより……恨み辛みです。聞いていて嫌な気持ちになるお話かもしれません」
アレクは静かに答えた。
「何を聞いても驚かない」
その一言だけだった。
安心させるためでも、励ますためでもない。
ただ、受け止めるという意思だけが込められていた。
「デイビス様もいいですか?」
とデイビスを見てアリスが言った。
「もちろん、聞かせてもらうよ」
これから、自分の人生を初めて誰かに話す。
その重さを、アリスは静かに噛みしめていた。
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