53 リーブル王国の新国王
53 リーブル王国の新国王
アレクとアリスは、ハトン公爵領を訪れた。
王都から逃れてきた者たちを受け入れたため、領都の人口は増えている。街道沿いには仮設の天幕が並び、領兵や公爵家の使用人たちが忙しく行き交っていた。
しかし、混乱している様子はない。
天幕は家族ごとに割り当てられ、共同の炊事場や水場も設けられている。幼い子どもや病人、老人は領都にある空き家や教会へ優先的に移されていた。
広場にはいくつもの大鍋が置かれ、湯気が立ち上っている。
「団子入りのスープですね」
馬車の窓から広場を眺め、アリスが言った。
「ああ。町で炊き出しをした時の経験を、そのまま生かしているようだね」
アレクは満足そうにうなずいた。
料理を配る場所と、食べ終えた器を返す場所は分けられていた。人々を並ばせる者もいれば、空いた器を洗う者もいる。最初に町で炊き出しをした時には皇国の騎士たちが手伝ったが、今はハトン家の者たちだけで滞りなく動いていた。
「次は自分たちだけでできるようにすると、マイルス様はおっしゃっていました」
「本当に、できるようにしたんだね」
二人は広場を通り過ぎ、ハトン公爵家の屋敷へ向かった。
◆◇◆◇◆
「クレールスター皇国のアレク殿下と、アリス・フォーセゾン伯爵がお見えになりました」
家令から報告を受けたマイルス・ハトンは、執務机から勢いよく立ち上がった。
「殿下とアリス嬢が? お二人でか?」
「はい。お供の方々もいらっしゃいますが、お二人から大切なお話があるとのことです」
マイルスは机の上を見回した。
避難民の名簿、備蓄食料の一覧、空き家の調査報告書。執務机だけでなく、脇の棚にも書類が積まれている。王都にいた頃なら、客を待たせてでも片づけさせただろう。
だが、今はその時間さえ惜しかった。
「このままで構わない。すぐにお通ししてくれ」
ほどなくして、アレクとアリスが執務室へ入ってきた。
「散らかっていて申し訳ありません」
マイルスが頭を下げると、アレクは書類の山へ目を向けた。
「忙しいところへ押しかけたのはこちらです。随分と多くの避難民を受け入れたそうですね」
「領都だけでなく、周辺の町や村にも分散して受け入れています。戦が長引けば、さらに増えるでしょう。今のうちに空いている建物と、井戸や食料の備蓄を調べさせております」
「王都から逃げてきた者を追い返そうとは思わなかったのですか?」
アリスが尋ねた。
マイルスは一瞬、答えに詰まった。
「正直に申し上げれば、迷いました。領民の暮らしを守るのも領主の務めです。無制限に受け入れれば、こちらの食料まで尽きるかもしれません」
「そうですね」
「ですが、王都から逃れてきた者もリーブル王国の民です。領地の境を越えた途端に、守る相手ではなくなるとは思えませんでした」
マイルスは机の上の名簿へ手を置いた。
「ただ、受け入れる以上は最後まで面倒を見る必要があります。そこで働ける者には、炊事や薪割り、天幕の設置を手伝ってもらっています。職人には壊れた家屋の修繕を頼み、商人には不足している物資の調達に加わってもらいました。一方的に養うのではなく、できる者には働いてもらう。そのほうが長く続けられます」
「よく考えられています」
アリスが素直に褒めると、マイルスは驚いたように彼女を見た。
以前のアリスは、マイルスに対して決して好意的ではなかった。当然だと、彼自身も分かっている。ピクニックの責任を放棄し、その後になって謝罪したところで、過去が消えるわけではない。
「町の広場で行った炊き出しも拝見しました」
アリスは続けた。
「最初はアレク様に対抗するためだったと伺っています」
「……否定はいたしません」
マイルスは気まずそうに目を伏せた。
「功績を奪われたくないとも思っていました。皇国の騎士が手を貸した時も、ハトン家の炊き出しだと念を押しました」
「覚えているよ」
アレクが楽しそうに笑った。
「ずいぶん警戒されていたからね」
「面目ございません」
「いや、悪いことではない。功績を求めるなら、それに見合う働きをすればよいのです。あなたは炊き出しを一度行っただけで満足せず、問題点を見つけ出し、改善した。だから今、これだけの避難民に温かい食事を配ることができている」
アレクの声から笑いが消えた。
「思いついた理由が何であれ、最後までやり遂げたことを、僕は高く評価しています」
マイルスは困惑した。
皇弟殿下とアリスが、炊き出しを褒めるためだけに領地まで来るはずがない。
「殿下。本日は、何をお話しになるためにいらしたのでしょうか」
「では、本題に入りましょう」
アレクは姿勢を正し、マイルスをまっすぐに見た。
「マイルス・ハトン公爵。あなたに、リーブル王国の王になっていただきたい」
執務室から、すべての音が消えたように感じられた。
マイルスは目を見開いたまま動かなかった。
「……今、何とおっしゃいましたか?」
「あなたに、リーブル王国の王位に就いてほしいとお願いしました」
「お待ちください。わたしは王族ではありません」
「王族が国を正しく治められるとは限りません。それは、今回のことで明らかになったでしょう」
「しかし、四公爵家にはわたしより家格も年齢も上の者がいます」
「家格や年齢で決めるつもりはありません」
アリスが静かに言った。
「わたしたちが見ているのは、何をしたかです」
マイルスはアリスへ顔を向けた。
「炊き出しを行い、そこで見つかった問題を放置しなかった。小国群の軍勢が迫っていると知ると、自領へ避難民を受け入れると申し出た。そして、実際に受け入れた後も、食事を与えるだけではなく、長く暮らせる仕組みを整えようとしている」
「それは、領主として当然のことです」
「ええ。本来ならば当然のことです」
アリスはうなずいた。
「ですが、その当然のことを行った者が、ほかにどれほどいましたか?」
マイルスは答えられなかった。
「わたしが王宮で働いていた頃、多くの方が仕事を命じるだけでした。何を用意する必要があるのかも、どれだけの人手が必要なのかも知らず、うまくいかなければ下の者を叱る。それで国を治めているつもりになっていました」
アリスは机の上に積まれた書類へ視線を移した。
「けれど、あなたは炊き出しに必要な水や食料の量を知ろうとしました。避難民を数字だけでなく、暮らしている人として扱っています。王に必要なのは、豪華な衣装を着て玉座に座ることではありません。民が何を必要としているのかを知り、必要なものを届けることです」
「アリス嬢は、わたしを恨んでいると思っていました」
「恨んでいないとは申しません」
アリスがきっぱり答えたため、マイルスは言葉を失った。
「わたしが苦しんでいた時、ハトン公爵家もわたしを助けてはくれませんでした。そのことを忘れたわけではありません」
「……はい」
「ですが、これはわたしの好き嫌いで決められることではありません。リーブル王国で暮らす民の将来に関わることです。嫌いだから評価しないというのは、王妃殿下たちがなさったことと同じです」
アリスはわずかに微笑んだ。
「それに、今のマイルス様は、以前とは違います」
マイルスはうつむいた。
「わたしは、立派な人間ではありません。最初に炊き出しを始めたのも、殿下に負けたくなかったからです。避難民を受け入れたのも、この先、王国がどうなってもハトン家が生き残れるようにという考えがありました」
「結構ではありませんか」
アレクがあっさりと言った。
「自分の家を守りたい。それ自体は、決して悪いことではありません。家を守るために民を切り捨てるのか、民とともに生き残る道を探すのか。あなたは後者を選びました」
「しかし、王位など……」
「今すぐ返事をしろとは言いません」
アレクは立ち上がった。
「ただし、時間があるとも言えません。王国には、民を守るために決断できる者が必要です」
アリスも立ち上がり、机の上にある避難民の名簿を見つめた。
「マイルス様。この名簿に書かれている方々を、これからも守りたいと思われますか?」
「もちろんです」
マイルスは迷わず答えた。
「では、ここに逃げてこられなかった人々は?」
その問いに、マイルスは息をのんだ。
ハトン領にいる者だけが、リーブル王国の民ではない。
戦火に怯えている者。食料を失った者。王都に残された者。領地の境を越えることさえできず、助けを待っている者がいる。
「王になれば、救える民は増えます」
アリスは静かに告げた。
「同時に、背負う責任も増えます。それを承知した上で、考えてください」
アレクとアリスが退室した後も、マイルスは長い間、その場に立ち尽くしていた。
机の上には、避難民の名簿がある。
マイルスはその一番上に書かれた名へ目を落とし、ゆっくりとページをめくった。
これは、ただの数字ではない。
一人ひとりに家族があり、暮らしがあり、守ってほしいと願う明日がある。
「王、か……」
呟いた声は、わずかに震えていた。
王になりたいと思ったことなど、一度もない。
だが、王にならなければ救えない者がいるのだとしたら――。
マイルスは椅子へ座り、避難民の名簿をもう一度、最初から読み始めた。
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