54 小国群の王
54 小国群の王
宿を訪ねてきたアリスとアレクの姿を見たとき、チャールズ・メイナードは目を見開いた。
「アリス……」
思わず妹の名を呼んだものの、すぐに今のアリスの立場を思い出したのだろう。チャールズは表情を引き締め、アリスとアレクに礼をとった。
「アレク皇弟殿下、アリス・フォーセゾン伯爵。お越しいただき、恐悦至極に存じます」
「兄様、どうか立ってください。今日は正式な訪問ではありません」
アリスが困ったように声をかけると、チャールズは一瞬ためらってから立ち上がった。
「兄様。本日は、大切なお話があって参りました」
「ああ。わざわざ二人で来たのだから、ただの挨拶ではないと思っていたよ」
チャールズは穏やかに答えたが、その顔にはわずかな緊張が浮かんでいる。
アリスは隣に座るアレクへ目を向けた。アレクが静かにうなずく。それを確かめてから、アリスは告げた。
「兄様には、小国群の統治をお願いしたいのです」
「え?」
チャールズの口から、驚きの声が漏れた。
当然の反応だった。これまで領地経営に関わることはあっても、一国の統治を任されるなど、考えたこともなかったはずだ。
「リーブル王国に併合すればよいのではありませんか?」
やがて、チャールズは慎重に尋ねた。
「はい。統治者を一人に定め、その者にすべてを任せるほうが、国の形としては分かりやすいでしょう。ですが、どれほど優れた統治者であっても、国の隅々まで一人で見ることはできません」
アリスは卓の上で両手を組んだ。
「ハトン様には、リーブル王国をいただく予定です。そのうえで南の地まで任せれば、負担が大きくなりすぎます。南には南の事情があります。旧小国群の王族や貴族、土地ごとに異なる慣習、それに民の暮らしを理解しながら、少しずつ国をまとめなければなりません」
「それは……確かに、簡単なことではないだろうね」
「はい。そして、はっきり申し上げますと、特務部にあたる組織も必要になります」
チャールズの顔に、ますます戸惑いが浮かんだ。
「各地から正確な情報を集め、不正を見逃さず、争いが起きる前に手を打つ者たちです。ただし、彼らにも能力と人数の限界があります。どれほど優秀でも、統治者そのものにはなれません。集めた情報を判断し、最後に責任を負う者が必要なのです」
それでもチャールズは、自分が選ばれた理由を理解しきれないようだった。
アリスは少し考えてから、問いかけた。
「兄様は、王都にいた頃、たびたび特務部へいらしていたでしょう?」
「ああ……」
チャールズは気まずそうに視線をそらした。
「閣下のお顔を、陰からでも拝見したいと思って」
「兄様」
アリスは少しだけ眉を寄せた。
「わたくしには、アリスという名前があります。閣下ではありません。アリスです」
「ああ、そうだね。アリス……」
チャールズはその名を大切なもののように、ゆっくりと口にした。
「アリスの顔を見たかったんだ。声をかければ迷惑になると思ったから、せめて元気にしているかどうかだけでも……」
その声が途中で詰まった。
妹を守れなかったことを、今も悔いているのだろう。
「すまない。話を続けてくれ」
チャールズは顔を上げ、無理に微笑んだ。
「兄様が特務部へいらしていたことを、皆も覚えていました。兄様が彼らの話に耳を傾け、どのような仕事をしているのか、いつも真剣に尋ねていたこともです」
アリスは、チャールズの目をまっすぐに見つめた。
「特務部の者たちが、兄様を南の王に推薦しました」
「なんと……」
チャールズは息をのみ、言葉を失った。
自分の知らないところで、彼らが自分を見ていた。家柄だけではなく、自分自身を評価してくれた。それが信じられないようだった。
「父上の跡を継ぐ者として、兄様は領地を治める教育を受けてきました。上に立つ者としての責任も学んでいらっしゃいます。民の話を聞き、知らないことを知らないと言える方でもあります。そして、御自分の考えだけで人を動かそうとはなさらない。自分の目で見ようとなさいます。現に今、まさに小国群にいらっしゃいます」
「それは、褒めすぎではないかな」
「いいえ。兄様に資質があるからお願いしているのです」
アリスはきっぱりと言った。
「南の国は、兄様でないと治められません。すべてが整っているわけではありません。国々の間には長年の争いがあり、民の暮らしも決して豊かではありません。王になれば、苦労ばかりでしょう」
それでもアリスは、言葉を止めなかった。
「でも、兄様であれば、民が穏やかに暮らし、自分がその国に生まれたことを幸福だと思える国を作れると思っています」
チャールズの表情が引き締まった。
「クレールスター皇国も協力します。必要な物資を送り、特務部からも人員を派遣します。ただし、国を乗っ取るつもりはありません。兄様を操り人形にするつもりもありません」
アリスは最後に、念を押すように続けた。
「そこだけは、どうか理解してください」
「信じてるよ」
チャールズは静かに答えた。
「王家の血筋がどうであろうと、民にとって大切なのは、自分たちが安心して暮らせるかどうかだ。誰が王になるかより、その王が何をしてくれるかのほうが重要なのだろう」
王都で起きた出来事を思い出したのか、チャールズの顔に苦い影が差した。
「わたしも学んだよ。王や貴族が自分たちの都合ばかりを優先すれば、民は黙って去っていく。立派な建物も、身分も、そこに住む人々がいなければ何の意味もない」
しばらく沈黙したあと、チャールズは椅子から立ち上がった。
そしてアレクとアリスの前で膝をつき、深く頭を垂れた。
「わたしにどこまでできるかは分かりません。ですが、民を見捨てる王にはならないと誓います」
一度息を整え、はっきりと告げる。
「南の国を治める任、謹んで拝命いたします」
「うむ。引き受けてもらえて助かる」
それまで黙って話を聞いていたアレクが、満足そうにうなずいた。
アリスも胸をなで下ろした。これで話はまとまった。あとは今後の支援や引き継ぎについて相談すればよい。
ところが、アレクは急に表情を和らげた。
「ところで、これからは義兄上と呼ばせてもらってもよいだろうか?」
その瞳には、悪戯っぽい光が宿っていた。
「……はい。光栄でございます」
チャールズは戸惑いながらも、もう一度頭を下げた。
「では、義兄上」
アレクはすっかり楽しそうな顔になった。
「義兄上は、アリスが赤子の頃から知っているのであろう? ぜひ、その頃の話を聞かせてくれないか」
「アレク様?」
アリスは嫌な予感を覚えた。
「アレク様、それは兄様も困って――」
「困っていらっしゃるのか、義兄上?」
アレクはアリスの言葉を引き取り、チャールズへ尋ねた。
「い、いえ。困ってはおりません」
「兄様、無理に答えなくてもよいのですよ」
「無理ではない。アリスの話なら、いくらでもできる」
チャールズは真面目な顔で答えた。
アリスは天井を仰ぎたくなった。生真面目な兄が、こういうときのアレクに太刀打ちできるはずがない。
「そうなのです。わたしにとって、アリスは初めての妹で……」
チャールズの頬が緩んだ。
「その……とにかく嬉しかったのです。毎日のように赤子部屋へ見に行きました。乳母には、寝ているから静かにするよう、何度も叱られました」
「なるほど。昔から義兄上はアリスを大切にしていたのだな」
「はい。機嫌がよいと、むにゃむにゃとよく話す子でした。わたしを見ると『ににゃま』と言うのです」
「ににゃま?」
「兄様!」
アリスは止めようとしたが、もう遅かった。
「『にいさま』と言っていたのだと思います。まだきちんと話せなかったので」
「それは愛らしいな。アリス、今も一度言ってみてくれないか。ににゃま、と」
「絶対に申しません」
アリスが冷たく断ると、アレクは声を上げて笑った。
チャールズも懐かしそうに目を細める。
「歩き始めた頃は、よく手を引いて庭を歩きました。転びそうになるたびに、わたしの指をぎゅっと握るのです。小さな手でした」
「兄様、そのくらいで……」
「それからバーバラが生まれて、アリスと二人で可愛がりました。アリスは、本当にバーバラを大事にしていて……」
そこまで話したところで、チャールズの声が途切れた。
楽しかった幼い日の記憶と、その後に起きたことが一度に胸へ押し寄せたのだろう。
チャールズはうつむき、片手で顔を覆った。その指の間から涙がこぼれ落ちる。
「すまない、アリス。わたしは兄だったのに……何もしてやれなかった」
「兄様……」
アリスが席を立とうとすると、アレクがそっと手で制した。
からかうような笑みは、すでに消えている。
「アリス」
アレクは穏やかな声で言った。
「ここからは、男二人で話したい」
チャールズも涙を拭いながら、何度もうなずいた。
「そうだね。アリスには聞かせられない話もある」
「なぜ二人とも、急に意気投合しているのですか」
アリスは二人を交互に見た。
自分がいなくなった途端、兄が赤子の頃の失敗や幼い頃の出来事を、何もかも話してしまいそうで心配だった。
「兄様。アレク様に余計なことをお話ししてはいけませんよ」
「余計なことなどない。すべて大切な話だ」
アレクが平然と答える。
「アレク様には申し上げておりません」
「分かったよ、アリス。心配しなくていい」
チャールズはそう言ったが、まるで信用できなかった。
アリスは二人を鋭く睨みつけた。それでも退室を促され、渋々扉へ向かう。
「本当に、妙な話はしないでくださいね」
最後にもう一度兄を睨みつけて、アリスは部屋を出た。
扉が閉まった直後、室内からアレクの弾んだ声が聞こえてくる。
「それで義兄上。アリスが初めて転んだときの話を詳しく――」
アリスはすぐさま扉を開けた。
「聞こえています!」
「では、もう少し小さな声で頼む」
「そういう問題ではありません!」
アレクの楽しそうな笑い声が、部屋いっぱいに響いた。
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