46 王都を出る
46 王都を出る
小国群の軍勢が王都へ到着する少し前、アリスたちは王都を出ることにした。
王宮の正門前には何台もの馬車が並び、騎士や使用人たちが慌ただしく行き交っていた。遠くからは、王都に残る者たちへ避難を促す鐘の音が聞こえてくる。
「アリス、こちらへ」
デイビスが馬車の扉を開けた。
アリスがドレスの裾を持ち上げ、踏み台へ足をかけようとした、そのときだった。
「アリス!」
人々を押しのけるようにして、メイナード侯爵が駆けてきた。
普段は身なりを崩さない侯爵の髪は乱れ、息も上がっている。よほど急いできたのだろう。
「待ちなさい。アリス、行く必要はない」
侯爵はアリスの腕をつかもうとしたが、アレクがさりげなく間へ入り、その手を遮った。
「何をなさるおつもりですか、侯爵」
「娘と話をするだけです。殿下には関係のないことだ」
メイナード侯爵はそう言ってから、アレクの肩越しにアリスを見た。
「アリス。父様のそばにいれば安心だ。屋敷へ戻っておいで」
アリスは答えなかった。
侯爵は、その沈黙を迷っているからだと思ったのだろう。安心させるように笑いかけた。
「いつまでも拗ねて、父様に冷たくしないでくれ。仕事もしなくていい。難しいことなど考えず、屋敷で好きなことをして過ごせばいいのだ」
「……好きなことを?」
「ああ。そばにいて、以前のように家族と過ごせばいい。おまえが退屈しないよう、屋敷の書庫には本も増やした。欲しいものがあれば、何でも買ってやる。庭を散歩して、本を読んで、のんびり暮らせばいい」
侯爵は必死だった。
けれど、その言葉を聞いてもアリスの表情は変わらない。
父は、今も何もわかっていない。
アリスが拗ねて家を出たのだと思っている。欲しかったものは本でも宝飾品でもなく、家族からのまともな扱いだったことにも気づいていない。
ただ屋敷へ連れ戻し、何もさせずに囲っておけば、それが娘の幸せになると信じている。
「だから、戻っておいで。父様が守ってやる」
差し出された手を見つめ、アリスは静かに首を横へ振った。
「いいえ。わたしは、もうあなたの娘ではありません」
メイナード侯爵の顔から笑みが消えた。
「何を言っている。親子の縁が簡単に切れるものか。おまえはわたしの娘だ。いつまでも意地を張るのはやめなさい」
「意地を張っているのではありません」
アリスの声は穏やかだった。
責める響きも、恨みもない。その静けさが、かえって侯爵を狼狽させた。
「わたしは、メイナード侯爵家の籍から外れています」
「アリス……」
「わたしのことを思ってくださるのなら、どうか行かせてください」
侯爵はなおも手を伸ばそうとした。
その瞬間、アレクがアリスの肩を抱き、自分のもとへ引き寄せた。
「アリスは、わたしが守っています」
静かな声だったが、拒絶の意思は明らかだった。
「守るだけではありません。彼女が望む場所へ行き、自分の力で成し遂げたいことを成し遂げられるよう、わたしはそばにいます」
「しかし、アリスはわたしの娘です!」
「先ほど、本人が違うと」
アレクの腕に力がこもった。
「侯爵が守りたいのは、今ここにいるアリスですか。それとも、何も言わずに便利に働いていた、都合のよい娘でしょうか」
メイナード侯爵は答えられなかった。
アリスは一度だけ父の顔を見た。
「お父様」
その呼びかけに、侯爵の顔が明るくなる。
だが、それは別れを告げるためのものだった。
「どうか、ご無事で」
「待ちなさい。アリス、まだ話は終わっていない!」
侯爵が踏み出すと、今度はデイビスが進路を塞いだ。
「避難の刻限が迫っております」
「どきなさい!」
「申し訳ございませんが、それはできません」
デイビスは礼儀正しく一礼した。しかし、一歩も退かなかった。
「それでは、メイナード侯爵。これで失礼いたします」
デイビスが侯爵を押しとどめている間に、アレクはアリスの手を取り、馬車へ乗せた。
「足元に気をつけて」
「ありがとうございます」
アリスが座席につくと、アレクもその隣へ乗り込む。続いてデイビスが身を翻して乗車し、扉を閉めた。
「アリス!」
侯爵の声を残し、馬車はゆっくりと走り出した。
アリスは窓の外を見なかった。
膝の上で重ねられた手に、アレクの手がそっと触れる。
「大丈夫か?」
「はい」
アリスは小さく息を吐いてから、もう一度、はっきりとうなずいた。
「大丈夫です。わたしは、自分で行き先を選びましたから」
その声に未練はなかった。
馬車は迫りくる軍勢とは反対の方角へ進み、やがて王都の門を抜けていった。




