38 アリスのスープ
38 アリスのスープ
目を覚ましたアレクは、見慣れない天井を見上げて、すぐに思った。
(しまった……)
頭が重い。喉もひどく渇いている。
上半身を起こすと、寝台のそばのテーブルに水差しと杯が用意されていた。おそらく運んでくれた者が置いていったのだろう。
水を二杯続けて飲み、アレクはようやく息をついた。
窓辺へ行ってカーテンを開けると、朝の光が容赦なく差し込んでくる。思わず顔をしかめたところで、扉を叩く音がした。
「起きていますか?」
「起きている」
返事をして扉を開けると、昨夜の宴で見かけた若者が立っていた。彼はアレクの顔を見ると、少しだけ笑いをこらえるような表情をした。
「良かったら、朝食をご一緒に」
「ありがとう。身支度をしたら行きます」
「部屋を出て右へ進んでください。……まあ、賑やかなので、すぐに分かると思います」
それだけ告げると、若者は去っていった。
確かに、支度を整えて廊下へ出ると、右手の奥から話し声と笑い声が聞こえてくる。
その音を頼りに進んだアレクが広間へ入ると、入り口近くにいた者から声をかけられた。
「そこの料理を取って、好きなところで食べてください」
長い卓の上には、大皿や深い鉢が所狭しと並んでいた。
見慣れたパンや卵料理もあるが、初めて見るものも多い。
アリスはすでに席に着き、その両方を少しずつ皿に取って食べていた。アレクに気づくと、笑顔で手を振る。
そのまま立ち上がり、料理の並ぶ卓までやって来た。
「おはようございます、アレク様。お料理の説明をしますね。わたくしも、こちらで朝食をいただくのは初めてなのです。だから、少しずつ欲張ってみました」
そう言って、アリスは得意そうに料理を指さした。
「これはパンの代わりに食べるご飯です。昨日も召し上がりましたか?」
「少しだけ食べたと思う」
酔っていたため、はっきりとは覚えていない。
「白いご飯だけだと、それほど味はありません。でも、お料理と一緒に食べるとおいしいのです。こちらは牡蠣の炊き込みご飯。これは本当においしいですよ」
「君の皿にもたくさん載っているな」
「はい。気に入りました」
アリスは悪びれずに答え、次の料理を指さす。
「卵焼きはオムレツに似ていますが、味つけが違います。少し甘いです。こちらの納豆は……わたくしも知りません」
「知らないのに取ったのか?」
「知らないから取ったのです」
なるほど、とアレクは笑った。
「この味噌汁はスープのようなものです。海藻が入っています。こちらには、アレク様も知っている料理がありますね。最初は少しずつ取って、気に入ったものをおかわりすればいいと思います」
すべて説明し終えたアリスは、立派に役目を果たしたという顔で席へ戻っていった。
アレクは教えられたとおり、料理を少しずつ盆に載せて、アリスの隣に腰を下ろした。
すぐに一族の者が温かい茶を注いでくれる。
「番茶というそうです」
アリスがまた得意そうに教えた。
「アリちゃん、仲良しだねえ」
向かいに座っていた女が、二人を見比べながら言った。
アリスは照れてごまかすこともなく、素直にうなずいた。
「はい。たくさん助けていただきました。とても頼りにしています」
思いがけない言葉に、アレクは手にしていた箸を止めた。
一族の者たちの視線が、いっせいにアレクへ向く。
「そうか。じゃあ、これからもアリちゃんを頼むよ」
「泣かせるなよ」
「無理をさせるな」
「はい。大切にします」
アレクが真顔で答えると、周囲から「おお」と声が上がった。
アリスだけは、なぜ皆が騒ぐのか分からない様子で味噌汁を飲んでいる。
やがて、ラズベリーとデイビスが広間へ入ってきた。
二人とも身なりは整えているものの、いつもより動きが鈍い。
ラズベリーはアリスの姿を見つけると、真っすぐに歩み寄った。
「アリス様、申し訳ございません。寝坊してしまいました。おそばに控えるべきでしたのに」
「いいのよ、ラズベリー」
アリスは声を潜め、いたずらっぽく笑った。
「あれだけ楽しい宴だったのですもの。仕方がないでしょう?」
「ですが……」
「わたくしは一人でも起きられましたし、着替えもできました。それより、朝食を食べましょう。お料理を説明しますね」
アリスが立ち上がろうとしたが、その前に一族の者たちがラズベリーの周りへ集まった。
「ラズベリーさん、料理の説明なら任せてくれ」
「まずは牡蠣ご飯だ。これは外せない」
「味噌汁も飲みなさい。二日酔いにいいから」
「わ、分かりました。ありがとうございます」
ラズベリーは戸惑いながら連れていかれる。
その後ろを、デイビスも当然のようについていった。
「わたしにも説明を頼む」
「あんたはまず水を飲んだほうがいい」
「まったくだ」
広間に笑い声が上がった。
アリスは隣のアレクを見て、口元を押さえた。
「アレク様、昨日はずいぶん召し上がったのですね」
「……酒を?」
「はい。お料理もですけれど、お酒をたくさん」
アリスはとうとうこらえ切れず、小さく笑った。
「お部屋まで運んでもらったのですよ。デイビス様もです。ラズベリーは、なんとか自分で歩いていましたけれど」
「運ばれた……」
皇弟である自分が、酔いつぶれて海の一族に運ばれたらしい。
アレクは一瞬、目の前が暗くなるような心地がした。
「何か、失礼なことはしていなかっただろうか」と呟くと、ラズベリーが小声で
「皆さん、楽しそうでした。心配することはないと思います」と教えてくれた。
「君は?」
「わたくしは自分で部屋に戻りました」
「そうか……」
無事で良かったと、今さらながら安堵する。
もう酒に関しては何も考えたくない。
だが、アレクは迷った末、気に入った牡蠣の炊き込みご飯をおかわりするために席を立った。
その間に、アリスは近くにいた者に何かを頼んだ。
間もなく長老がやって来る。
「アリスちゃん、用事だって? 何かな」
アリスは椅子から立ち上がり、長老へ向き直った。
「お願いがあります」
「うん、聞こう」
「わたくし、今回は遊びに来たのですから、本当は皆さんに手土産を用意したかったのです。けれど、何がお好きなのか分からなくて……」
「そんなもの、気にしなくていいんだよ。顔を見せてくれただけで十分だ」
「いいえ。そういうわけにはいきません」
アリスは首を横に振った。
「それで、わたくしの作った料理を食べていただきたいと思いました。王国の野菜を持ってきています。それを使って、スープを作ります。お台所を貸していただけませんか?」
そう言って、丁寧に頭を下げた。
「アリスちゃんが作るのか?」
「アリちゃんのスープ……」
「食べたい」
周囲で小さなささやきが広がっていく。
しかし、長老だけはすぐに答えなかった。
頭を下げたままのアリスを、じっと見つめている。その目には、驚きと喜びだけでなく、何かを確かめようとするような色があった。
「アリスちゃん」
「はい」
「料理を覚えたんだね」
「はい。皆さんに教えていただきました。それに、わたくしも料理をするのが好きなのだと分かりました」
長老はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。
「ああ、驚いた。アリスちゃんは、嬉しいことを言ってくれるようになったな」
しわの刻まれた顔に、ゆっくりと笑みが広がる。
「ありがとう。台所は好きに使っていい。楽しみにしているよ」
「ありがとうございます」
アリスが嬉しそうに顔を上げた。
長老が許した途端、一族の者たちが立ち上がった。
「アリしゃん、手伝うからね!」
「野菜を運ぶのは任せろ。馬車に積んであるんだろう?」
「鍋は大きいほうがいいか?」
「火を起こしておくぞ」
「それでは、皆さんで作ることになってしまいます」
「いいんだよ。アリちゃんが味つけをすれば、アリちゃんの料理だ」
アリスは次々に声をかけられながら、楽しそうに広間を出ていった。
その背中を見送ったあと、一族の空気がわずかに変わった。
笑顔は残っている。
だが、アレクとデイビスへ向けられる視線には、それまでになかった鋭さが混じっていた。
アレクは箸を置いた。
長老が、静かな声で尋ねる。
「アリスちゃんは、料理をしなければ食べられなかったのか。それとも、誰かに食べさせてやりたいと思える場所を、ようやく見つけたのか」
「食べさせたいと思ってここに来ました」とアレクは答えたが、長老をはじめとした皆の視線の鋭さにとまどった。
隣でデイビスも居心地悪そうに背筋を伸ばした。
ラズベリーも不安そうに二人と長老を見比べる。すると、そばにいた女が優しくその肩を叩いた。
「ラズベリーさんを責めているんじゃないよ。あなたがアリちゃんを大事にしてくれているのは、見れば分かるから」
「ありがとうございます」
ラズベリーは少しだけ表情を緩めた。
一方のアリスは、背後でそんなやり取りが始まっているとは知らない。
「アリス、野菜の入った箱はどれだ?」
「緑の印がついたものです。あっ、それは果物です」
「こっちか?」
「それはアレク様たちのお荷物です!」
廊下の向こうから、慌ただしくも楽しげな声が聞こえてくる。
長老はその声に耳を傾け、目を細めた。
それから再びアレクへ顔を向ける。
「さて。アリスちゃんが戻るまでに、少し話を聞かせてもらおうか」
穏やかな口調だった。
しかし、その場にいた誰も、それを単なる世間話だとは思わなかった。




