36 海の一族
36 海の一族
メアリーが出発する朝、港は大勢の人々でにぎわっていた。
岸壁には王家の紋章を掲げた船が停泊し、船員たちが忙しく荷物を運び込んでいる。衣装箱や家具ばかりでなく、嫁入り道具を収めた大きな木箱まであり、すべてを積み終えるには、まだしばらくかかりそうだった。
「アリス、ぼさっとしていないで、メアリーを見送る列に並びなさい」
王妃にきつい声で命じられ、アリスは船と荷物の山を見比べた。
「ですが、荷物を積み終わるまで、まだ時間がかかるのではありませんか?」
「あっ」
王妃も、今になって気づいたらしい。
けれど、自分の命令を取り消すのは癪だったのだろう。すぐに表情を取り繕うと、さらに厳しい口調で言い直した。
「それなら、そこで待機していなさい。王女の見送りなのですよ」
「それはいただけないな」
デイビスが穏やかな口調で割って入った。
「アリスには休養が必要です。何もせず立たせておく理由はありません」
王妃の眉がぴくりと動く。
反論される前に、アレクがアリスの肩を軽く押した。
「そういうことです。アリスは少し散歩をしたら、僕たちの馬車で休憩させます。積み込みが終わった頃に、僕たちも戻ってきましょう」
「しかし……」
「もちろん、見送りはさせていただきますよ。王族の船出ですからね」
にこやかに言い切ると、アレクはアリスを連れて歩き出した。デイビスも当然のようにあとへ続く。
王妃は何か言いたそうに口を開いたものの、皇弟であるアレクを呼び止めることはできなかった。
王妃の姿が十分に遠ざかってから、アリスは深く息を吐いた。
「はぁ……アレク様、来てくださってありがとうございます」
「だいぶ疲れた顔をしているね」
「意地悪を言ったり、からかったりして、こちらも楽しんではいたのですが……やはり疲れました」
自業自得のような言い方に、アレクが笑う。
「無理をしていたんですね」
デイビスはアリスの顔色を確かめてから、港沿いの道を指した。
「馬車へ戻る前に、体をほぐす程度に歩きましょう。ゆっくりで構いません」
そう言いながら、デイビスはいつもより少し大股で歩き出した。
アリスも真似をして、同じように大股で足を出す。
「こうですか?」
「ええ。転ばないように」
「大丈夫です。以前よりずっと元気になりましたから」
その時だった。
「アリちゃん!」
「アーリーちゃん!」
「アリちゃ!」
あちらこちらから呼び声が飛んできた。
港で働いていた男たちが仕事の手を止め、あっという間にアリスの周りへ集まってくる。日焼けした顔に、日に焼けた太い腕。揃いの服を着ているわけでもないのに、潮風のなかに立つ姿には、どこか共通した雰囲気があった。
彼らは、この港と海を自分たちの庭のように知る「海の一族」だった。
「アリちゃんが来てるのに、護衛がいて話せなかったって聞いたぞ」
「ほんとか?」
「王宮の奴らに囲まれてたんだろ?」
「今日は逃げてきたのか?」
次々と話しかけられ、アリスは笑顔になった。
「うん。遊びに来たの。それでね」
「アリちゃんが遊びに来たって分かれば、今日はそれだけでいい」
男の一人が、アリスの言葉を遮った。
「宴会は今日がいいか? 明日がいいか?」
「明日がいい。四人で来たの」
「四人!」
男たちがどよめいた。
「そりゃあ、たくさん食べてもらえるな!」
「四人分なら、魚も肉もどっさりいるぞ」
「酒は飲めるのか?」
その問いに、デイビスが答えた。
「付き合う程度だ」
「よし。無理に飲ませる奴は俺が海に放り込む」
「おまえが一番飲ませるだろうが」
「違いない!」
どっと笑い声が上がった。
アレクは興味深そうに彼らを眺めている。皇弟を前にしても、海の一族はほとんど態度を変えなかった。
そのうちの一人が、少し離れたところに立つ王妃とメアリーを顎で示した。
「ところで、あの女はなんだ? あの王妃の何かか?」
「娘。だから、この国の王女」
アリスが答えると、男はメアリーをじっと見た。
「アリちゃんと仲がいいのか?」
「悪い」
「意地悪されたのか?」
「された」
「わかった」
それだけだった。
男が短く答えた途端、まるで合図でもあったかのように、集まっていた者たちが一斉に散っていく。
「魚を追加しろ!」
「酒蔵に話をつけてくる!」
「アリちゃんが前より食べられるようになったって、本当か確かめるぞ!」
それぞれ好き勝手なことを叫びながら、持ち場へ戻っていった。
アレクは彼らの背中を見送り、目を瞬かせた。
「今の『わかった』には、いろいろな意味が込められていそうですね」
「海の一族は、細かいことを聞きませんから」
アリスは何でもないことのように答えた。
◆◇◆◇◆
馬車へ戻り、用意されていたお茶を飲んだ。
アリスはカップを両手で包み、ほっとしたように息をつく。
「海の一族は、わたくしのことを『アリちゃん』と呼びます。わたくしは、それぞれを名前で呼びます」
「アーリーちゃん、アリちゃ、とも聞こえましたが」
「呼び方は、だいたい合っていればいいそうです」
「ずいぶん大らかだな」
デイビスが笑った。
「先ほど話した感じですと、明日はご馳走責めになりますね」
「食べられそうですか?」
「はい。たくさん食べられるようになったところを、見せてやります」
胸を張るアリスに、デイビスは頼もしそうに頷いた。
「うん。頼もしいな」
アリスは少し考えてから、指を折って調子を取った。
「見せてやる、たくさん食べて、元気だぞ――というところですね」
「その意気なら、メニリーフ王国に乗り込めるな」
とアレクも笑った。
「そうですね」
「では、ご馳走を食べてから考えましょう」
そんな話をしていると、外から声がかかった。
「殿下、積み込みが終わったようです」
「分かりました。では、見送りに戻りましょうか」
四人は馬車を降りた。
アレクは先頭に立ち、さっさと王妃の隣まで歩いていく。王妃は一瞬不満そうな顔をしたものの、皇弟殿下が自ら隣に立ったことで、すぐに満足げな表情を浮かべた。
整然とした見送りの列は、結局できていなかった。
華やかな衣装をまとったメアリーは、見送りに来た人々に囲まれながら、自信に満ちた様子で立っていた。その後ろには侍女のライラが控えている。
メアリーはアレクが戻ったことを確認すると、ライラを振り返った。
「ねえ、あれを言おうと思うのだけれど、どうかしら」
「よろしいのではないでしょうか」
ライラは少し考えてから答えた。
メアリーは皆の視線が自分に集まっていることを確かめ、胸元に手を添える。
「彼の国へ、赴く薔薇よ、香が残る」
誇らしげに詠み上げた。
最初に拍手したのはアレクだった。
「見事です」
皇弟殿下が拍手をしたため、集まった者たちも慌てて手を叩く。
アリスも笑顔で拍手をしながら、心の中でそっと続けた。
(彼の国へ、赴く薔薇は、とげだらけ)
口に出せないのが、少しだけ残念だった。
メアリーは満足げに微笑むと、船へ歩いて行く。ライラも続いた。
甲板へ上がったメアリーは、下にいる人々を見下ろし、優雅に手を振った。
「お母様、行ってまいります!」
「メアリー! 体に気をつけるのですよ!」
王妃も大きく手を振る。
メアリーの後ろに立つライラは、黙って王妃を見下ろしていた。その表情は穏やかだったが、何を考えているのかは分からない。
やがて船がゆっくりと岸壁を離れた。
メアリーの姿が小さくなっていく。
王妃はじっとその場に立っていた。アリスたちが馬車へ戻っても動こうとせず、見えなくなりかけた船へいつまでも手を振っていた。
◆◇◆◇◆
「あの女、いけすかない奴だな」
「王妃ばばあの娘だぜ」
「アリちゃんに意地悪してたってよ」
「それはよくないな」
メアリーの乗った船では、操船を担当する海の一族がひそひそと話していた。
海は穏やかだった。
風も悪くない。波も高くない。
それなのに、船は港を出る前から、妙に左右へ揺れ始めた。
「きゃっ!」
船室へ向かっていたメアリーが壁に手をつく。
「いったい、どうなっているの!」
「本日は少々、海が騒がしいようでございます」
近くにいた船員は、平然と答えた。
「海は穏やかではありませんか!」
「見た目だけでは、海の機嫌は分かりませんので」
船員は真面目な顔をしていた。
その間にも、船はゆらり、ゆらりと大きく傾く。
「ひっ……!」
メアリーの顔から、みるみる血の気が引いた。
「お部屋へ参りましょう、メアリー様」
ライラが支えようとしたが、そのライラも青ざめている。
二人は互いにつかまりながら、どうにか船室へたどり着いた。
メアリーは寝台へ倒れ込み、ライラもソファに横になる。
「ねえ……この揺れは、いつまで続くの?」
「港を出れば……きっと……」
ライラはそこまで答えたところで口元を押さえた。
二人はそのまま、ぴくりとも動けなくなった。
一方、甲板では海の一族が楽しそうに働いている。
「よし、そろそろ港を出るぞ」
「ここからは外海だ。慎重にな」
「分かってる。大事なお客だからな」
「大事なお客に、海の怖さを教えてやるのも親切ってもんだ」
彼らは顔を見合わせ、にやりと笑った。




