35 メアリーの出発
35 メアリーの出発
王妃は絶好調だった。
長年、胸の奥にため込んでいた言葉を、憎いポーレットへ存分にぶつけることができた。
アリスは王太子との婚約を解消され、平民になった。
少なくとも王妃の中では、そういうことになっている。
いつの間にかアリスは、ピクニックの最中に勝手に迷子になり、皆に迷惑をかけたにもかかわらず、謝罪の一つもしなかった恩知らずな娘になっていた。
王家が婚約を解消されて途方にくれているとまで思っている。
そして、面倒な執務を任せられる人材も、ようやく育ってきた。
実際には、クレールスター皇国から派遣された文官たちが中心になってやっているのだが、王妃は自分が人材を見いだして育てたつもりでいた。
おかげで王妃には、ずいぶんと自由な時間ができた。
メアリーは来月、メニリーフ王国へ出発する予定だった。
婚礼は来年だが、それより先に婚家となる一族のもとで暮らし、あちらの生活や習慣に馴染むことになっている。
ところが、メアリー本人の強い希望により、その出発が早められた。
婚約相手とは、これまで何度も文を交わしている。王妃も何通か見せてもらったが、相手からも好意を寄せられているのは間違いないと思えた。
――さすが、わたくしの娘だわ。
――あちらの国の者たちも、メアリーの価値を正しく理解したのね。
可愛い娘と離れるのはつらい。
けれど、王族として生まれた以上、国のために婚姻を結ぶことも大切な役目である。
「寂しくなるけれど、仕方がないわね」
王妃はそう言いながら、メアリーのために新しいドレスを何着も注文した。
装身具も増やした。
すでに十分な数が用意されていたのだが、異国で侮られてはならないと言い、さらに予算を割いた。
もっとも、それらを保管し、手入れし、持ち運ぶ者の数については、ほとんど考えていなかった。
王妃は連日、仕立屋や宝石商を呼びつけ、メアリーの出発準備にかかりきりになっていた。
その一方で、メアリーは、王宮の庭を散歩していたアリスを見つけると、小走りで近づいてきた。
「アリス、ちょうどよかったわ」
呼び止めるというより、逃がさないように腕をつかむ。
「どうしたの?」
「港まで一緒に来てよ。もう日にちがないの。出発は明日よ」
メアリーは、頼み事をしているとは思えない口調で言った。
「わたし、ずっと忙しかったでしょう? だから、あちらの一族に紹介されたときの挨拶を、まだ考えていないのよ。馬車の中で一緒に考えて」
「そうね……」
アリスは少し考えるふりをした。
「ちょうどわたしも港へ行こうと思っていたから、一緒に行こうかな。アレク様もいらっしゃるけれど、それでいいなら」
「そうなの?」
メアリーの顔が明るくなったのは、ほんの一瞬だった。
「だったら最初から、素直に一緒に行くって返事をすればいいのに。いちいち勿体ぶるんだから」
アリスの腕を放したメアリーは、さらに不満そうに唇を尖らせた。
「出発は明日よ。わたしが『早く行く』って言ったとき、さっさと返事をしていれば、こんなにギリギリにならなかったのに。ほんと、迷惑なんだから」
アリスの少し後ろに控えていたラズベリーの手が動いた。
散歩用の靴を脱ごうとして、思いとどまった。
メアリーは、自分の頭へ靴が飛んでくる寸前だったことなど知らない。
「それじゃあ、明日の朝ね。遅れないでよ」
言いたいことだけ言うと、メアリーは侍女を従えて立ち去った。
その後ろ姿が見えなくなるまで待ってから、アリスは
「ラズベリーでも怒るのね」と言った。
「当たり前です」
「アリス様にお願いをしておきながら、何故あのような言い方ができるのでしょう。しかも、出発を早めたのはメアリー王女ご自身ではありませんか」
「そうね」
「港までご一緒する必要などありません。挨拶も、ご自分でお考えになればよろしいのです」
「でも、あちら付きの侍女から聞いているのでしょう?」
アリスが尋ねると、ラズベリーは不承不承うなずいた。
「はい。メアリー王女は、婚家の方々への挨拶をどうするか、かなり焦っているようです」
「ここで破談にしてあげるほうが、親切なのでしょうね」
アリスは遠ざかっていくメアリーの背中を眺めながら、にこりと笑った。
「でも、わたくしはそこまで親切ではないし……せっかくだから、きちんと準備を整えて送り出してあげたいの」
「さようでございますか?」
「海の一族に会いに行くつもりで、準備していたもの。わたくしは平気よ。アレク様たちも承知しているし、すぐにでも出発できるくらいなの」
「そうですけれど……」
ラズベリーはメアリーが消えた方角をにらんだ。
「それでも、不愉快です」
アリスは返事をせず、楽しそうに歩き出した。
◆◇◆◇◆
翌朝、メアリーは王宮を出発した。
本来なら、王女の門出にふさわしい華々しい儀式が執り行われるはずだった。
王宮前には貴族たちが集まり、楽団が演奏し、沿道には民を並ばせる予定まで立てられていた。
しかし、そのすべてが特務部の権限によって中止された。
「婚礼は来年でございます。その折に、より盛大な式典を執り行うため、今回は予算を控えるべきかと存じます」
そう説明されると、王妃はあっさり納得した。
「それもそうね。メアリーの婚礼は、誰も見たことがないほど立派なものにしなくては」
結局、見送りに並んだのは、手の空いていた侍女たちと特務部の者たちだった。
王妃は満足そうにその光景を眺め、娘を抱きしめて、別れの儀式を始めた。
港まで見送るのだが……
「メアリー。身体に気をつけるのですよ。あなたなら、あちらでもきっと愛されます」
「当然よ、お母様」
「何か困ったことがあれば、すぐに文を寄越しなさい」
「分かっているわ」
気の済んだ王妃は、自分の馬車に乗り込んだ。
王妃は途中まで同行し、港で娘を見送ることになっている。
続いて、メアリーの馬車が出発した。
中にはメアリーと侍女のライラ、そしてアリスが乗っていた。
見送りの者たちは、馬車が見えなくなるまで頭を下げていた。
やがて正門が閉ざされ、彼らが解散したあと、もう一台の馬車がひっそりと王宮を出た。
乗っているのはアレクとデイビスとラズベリーである。
こちらを見送る者はいなかった。
◆◇◆◇◆
「確か、最初に一族の長老へご挨拶するのよね」
揺れる馬車の中で、アリスが話を切り出した。
「それから、家族の見習いをさせていただくお許しをいただく……だったかしら」
「お許し?」
メアリーは眉をつり上げた。
「わたしは王女なのよ。それなのに、家族に入る許しをもらわなくてはいけないの?」
「そうよ。ずいぶん格式の高い一族なのね」
アリスは感心したようにうなずいた。
「並の令嬢では、とても務まらないでしょうね」
「……まあ、そうでしょうね」
並では務まらないと言われ、メアリーは不満をのみ込んだ。
自分なら務まると考えたらしい。
「それで、挨拶だけれど……」
アリスは窓の外を眺めながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「一般的な前置きをしてから、『この身を燈明の油ともなし、婚家の皆様に尽くすことこそ、わたくしの喜びにございます。これよりは皆様と心を一つにし、暮らしてまいります。わたくしのものは、すべて皆様のものでございます』……これでいい?」
「まあ、そんなものかしら」
メアリーは深く考えることなく、うなずいた。
向かいに座っていたライラが、かすかに顔を上げる。
しかし、王女の言葉を遮る勇気はないらしく、すぐに視線を落とした。
「あと、何か気の利いた言葉も考えておいて。あちらの人たちが感心するようなものがいいわ」
「この後に、詩でも添えればいいのではないかしら」
アリスは、さも今思いついたように首をかしげた。
「浅はかな この身を恥じる 冬の宵――とか」
「今は冬ではないでしょう?」
「最後を変えればいいのよ。春なら『春の夜』、朝に着いたなら『朝まだき』にするといいわ」
「なるほどね。それでいくわ」
メアリーは満足そうにうなずき、隣の侍女へ顔を向けた。
「ほら、ちゃんと書き留めておいて」
「……かしこまりました」
侍女は紙を膝の上に置き、言われたとおりに書き留めた。
その手は、ほんの少し震えている。
メアリーはしばらく彼女の横顔を眺めてから、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、おまえの名前は何だったかしら」
「え?」
侍女は驚いて顔を上げた。
ずっと身の回りの世話をしてきたというのに、名前を覚えられていなかったらしい。
「わたくしは、ライラと申します」
「ライラね」
メアリーは一度だけ繰り返した。
「これからは、おまえで一人でわたしに仕えられるのよ。わたしを独り占めしてお世話できるなんて、おまえは幸せ者ね」
ライラの手が止まった。
ほんの一瞬だけ、助けを求めるようにアリスを見る。
アリスは穏やかに微笑み返した。
「はい。王女殿下」
ライラはそれ以外の言葉を口にできなかった。
◆◇◆◇◆
その夜、一行が泊まったのは、以前アリスたちが港へ向かった際にも利用した宿だった。
馬車を降りたアリスは、立派な玄関を見上げた。
磨き上げられた扉。隅々まで手入れされた庭。
宿の主人をはじめ、大勢の使用人が外に並び、王妃とメアリーを迎えている。
そこでアリスは、ようやく気づいた。
(わたくし、ずっと安い宿に泊められていたのね)
かつて伯母のポーレットと港へ向かったとき、アリスはいつも伯母とは別の馬車に乗せられていた。
泊まる宿も別だった。
『これも自立心を養うためよ』
伯母はそう説明していた。
幼かったアリスは、自分が一人前として扱われているようで、むしろ誇らしく思っていた。
困ったことがあれば宿の者と話し、自分で解決する。
(楽しかったけれど……)
アリスは、寝台へ腰を下ろした。
(ほんとにクソ伯母ね)
もっとも、その経験のおかげで、たしかに自立心はある。
今もそれほど腹は立たない。
(メアリーに意地悪してあげているから、まあいいか)
そんなことを考えていると、ふいに言葉が浮かんだ。
――意地悪が 癖になったら 止められない。
アリスは寝台に腰掛けたまま、しばらく考え込んだ。
これも詩として、メアリーに教えてあげようか。
いや、さすがに意味が分かりやすすぎる。
(メニリーフ王国へも行ってみようかしら)
メアリーが一族の長老を前に、胸を張ってあの挨拶を披露する。
その場にいた者たちが、どのような顔をするのか。
怖いもの見たさで、少しだけ見てみたい気がした。
(駄目、駄目)
アリスは首を横に振った。
意地悪をするためだけに、外国までついていってはいけない。
そう自分へ言い聞かせたところで、扉が控えめに叩かれた。
「アリス、起きていますか」
アレクの声だった。
「起きています。どうぞ」
扉が開き、アレクとデイビスが入ってくる。
アレクは部屋を見回したあと、寝台に座るアリスへ尋ねた。
「何か楽しそうですね」
「いいえ。メニリーフ王国へ行ってみようかと思っていただけです」
「行きたいのですか?」
「少しだけ」
「では、船の用意を――」
「しなくていいです」
アリスは素早く遮った。
デイビスが堪えきれずに笑う。
「殿下。理由を聞いてから動いてください」
「そうですね。それで、何を見に行きたかったのですか?」
「メアリーが、一族の長老へご挨拶するところです」
「どのような挨拶を教えたのですか?」
アリスが教えた言葉をそのまま口にすると、デイビスは片手で顔を覆った。
アレクはしばらく黙ったあと、静かに尋ねた。
「本人は、納得したのですか?」
「並の令嬢には務まらないと言ったら、納得しました」
「そうですか」
アレクはアリスの隣へ腰を下ろした。
「それなら、仕方がありませんね」
「止めないのですか?」
「アリスが親切に考えてあげた挨拶なのでしょう?」
「はい。親身になって考えました」
二人は顔を見合わせ、にこりと笑った。
デイビスは、もう一度深いため息をついた。
「誰かが挨拶の意味を教えてくれるといいですね」
「侍女のライラは気づいていたようです」
「教えると思いますか?」
アリスは少し考えた。
「名前を今日初めて覚えてもらったみたいだから、難しいかもしれませんね」
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