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置き去りにされた王太子の婚約者は拾われて幸せになる  作者: 朝山 みどり


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32 ピクニックの準備

 32 ピクニックの準備


「それで、スープにはどれほどの材料が必要なのだ?」


 スペーダ公爵が尋ねると、会議室は静まり返った。


 四公爵家が協力して、王宮の使用人や厨房の者、庭師、そしてその家族たちを招くピクニックを開く。そこまでは決まった。


 全体の責任者はスペーダ公爵家。


 ブランコの整備は四家で分担し、前回の片づけの際に捨ててしまった備品については、スペーダ公爵家がすべて買い直した。


 足りない食器も追加でそろえた。


 残る問題は、当日に振る舞うスープだった。


 本来、この国で「炊き出し」と呼ばれていた催しは、災害に遭った民を力づけるために始まったものだ。


 貴族が自ら大鍋の前に立ち、温かなスープを配る。


 家を失った者や、満足に食事を取れない者に、国はあなたたちを見捨てていないと示すためのものだった。


 それが長い年月のうちに形骸化し、今では貴族たちが湖畔へ集まり、豪華な料理を楽しむ「ピクニック」と呼ばれるようになっている。


 それでも、大鍋でスープを作る習慣だけは残っていた。


 今回は、その本来の趣旨に立ち返る。


 ゆえに、食事として出すものはスープだけと決められていた。


「参加者は何人になる?」


「王宮の厨房で働く者とその家族、庭師とその家族。それから、アリス嬢に頼まれて準備や片づけを手伝った者たちを合わせると……」


 差し出された名簿を見て、一人が眉をひそめた。


「ずいぶん多いな」


「こんな人数のスープを、どうやって作るのだ」


「そもそも、一人につき野菜がどれほど必要なのだ?」


「肉は?」


「水の量は?」


 疑問ばかりが口から出る。


 しかし、答えられる者は一人もいなかった。


 四公爵家の当主も、その跡取りも、料理などしたことがない。普段の食事に、どれほどの食材が使われているのかさえ知らなかった。


 スペーダ公爵は苛立たしげに言った。


「料理人に命じればよかろう」


「それでは、これまでと同じです」


 そう口にしたのは、ハトン公爵家の嫡男マイルスだった。


「何が同じだ?」


「仕事の内容も知らずに命じ、何か起きれば下の者へ責任を押しつける。アリス嬢がいなくなってから、それでは何も進まないと、嫌というほど思い知らされたはずです」


 苦い顔をする者たちを見渡し、彼は続けた。


「少なくとも、必要な量を見積もるための知識くらいは、我々も持つべきでしょう」


 会議が終わると、マイルスは屋敷へ戻り、料理長を呼んだ。


「王宮へ行くぞ」


「王宮へ、でございますか?」


「ああ。向こうの料理人たちに、大人数へスープを振る舞う方法を教えてもらう」


 料理長は驚いた顔をした。


 公爵家の跡取りが、料理人を連れて教えを乞いに行く。


 これまでなら、考えられないことだった。


 だが、マイルスには焦りがあった。


 アリスがいなくなってから、王宮でも貴族社会でも、それまで誰かが当然のように整えていた物事が、次々と滞り始めている。


 公爵家というだけで、いつまでも尊重されるとは限らない。


 地位にあぐらをかき、何も知らず、何もできない者から取り残されていく。


 これから先、公爵家が生き残るために必要なのは、古い威光ではない。


 実際に役に立つことだ。


 王宮の厨房を訪れると、料理長は戸惑いながらも頭を下げた。


「突然のお願いで申し訳ない。大人数分のスープを作るにあたり、必要な食材の見積もり方を教えていただきたい」


 王宮の料理人たちは、驚いたように顔を見合わせた。


 公爵家から来る者といえば、無理な注文を押しつけるか、出来上がった料理へ文句をつける者ばかりだった。


 教えてほしいと頭を下げられたのは、初めてだった。


 やがて、年長の料理人が口を開いた。


「人数だけで計算してはいけません。大人と子どもでは食べる量が違います。働き盛りの男が多ければ、少し多めに見積もる必要があります。しかしスープですから水の量で調整ができます。本当に大変な事態のときは、温かいものが一杯あるだけで嬉しい場合もあります」


「なるほど」


 ハトン家の料理長が、すぐに紙へ書き留める。


「肉は一人分ずつ均等に行き渡るよう、切り方も考えます。大きさがばらばらだと、最初のほうへ肉が多く入り、最後には野菜しか残らないことがあります」


「鍋ごとに、肉と野菜をあらかじめ分けておくべきでしょうか」


「それがよいでしょう。火の通り方も違いますから、根菜から先に入れます」


「味つけは、一度に決めるのですか?」


「いいえ。煮詰まることを考え、最初は薄めにします。最後に味を調えます」


 話が始まると、二人の料理人はすぐに夢中になった。


 鍋の大きさ、火にかける順番や野菜の種類と保存方法。


 肉から出る灰汁の取り方やら、雨が降った場合の火の守り方まで、次々に話題が広がっていく。


「豆を加えれば腹持ちがよくなります」


「ですが、子どもも多いのでしょう? 香辛料は控えめにしたほうがよいかと」


「肉を焼いてから煮込めば、香りが出ますな」


「肉の味がするほうが喜ばれますよ」


 マイルスは、少し離れたところから料理長を見ていた。


 普段は寡黙で、言われた料理を黙々と作る男だと思っていた。


 ところが今は、生き生きと目を輝かせ、王宮の料理人と対等に意見を交わしている。


「うちの料理長は、あれほどよく話す男だったのか……」


 思わず呟くと、そばにいた王宮の料理人が笑った。


「話す機会がなかったのでしょう。料理人同士なら、話したいことはいくらでもあります」


 その言葉が、胸に残った。


 知らなかったのは、料理のことだけではない。


 自分の家で働く者が何を知り、何ができて、どんな誇りを持っているのか。


 そんなことさえ、自分は何一つ見ようとしていなかったのだ。


 次の会議で、マイルスは食材の見積書を机へ広げた。


「参加人数に多少の増減があっても足りるよう、余裕を持たせてあります。野菜と肉の調達は、ハトン公爵家が引き受けます」


 三人の視線が一斉に集まった。


「お前の家が?」


「はい。王宮の料理人と、我が家の料理長に確認しました。仕入れ先も決めてあります」


「ずいぶん積極的だな」


 皮肉を含んだ言葉にも、彼は動じなかった。


「失敗すれば、四公爵家すべての恥になりますから」


 さらに、もう一枚の紙を差し出す。


「それから、今回は炊き出しの本来の趣旨に従い、食事はスープだけにします。ただ、子どもも大勢参加します。楽しみとして、焼き菓子を少し振る舞ってはどうでしょう」


「菓子まで用意するのか?」


「豪華なものではありません。小麦とバターを使った、日持ちのする素朴な菓子です。食後に一人一つずつ配れる程度でよいでしょう」


 残る三人は、苦々しい顔をした。


 ここで反対すれば、使用人の子どもへ菓子の一つも出し惜しみしたと言われかねない。


 かといって、進んで賛成するのも癪なのだろう。


 長い沈黙のあと、スペーダ公爵が渋々うなずいた。


「……よかろう」


「異議はない」


「こちらも、それで構わない」


 そこへ、王宮から知らせが届いた。


 アレクとデイビスから、この催しのために費用の援助が申し出られたという。


「アレク殿下から?」


 スペーダ公爵の顔が引きつった。


 報告を持ってきた文官は、淡々と答えた。


「はい。アリス様がお世話になった方々をもてなす催しだとお聞きになり、趣旨に賛同されたそうです。デイビス先生も、子どもたちのために使ってほしいと」


 四公爵家の者たちは、そろって黙り込んだ。


 王国の公爵家が、しぶしぶ開くことにした催し。


 そこへ、皇国から来た二人が気持ちよく金を出したのだ。


「援助分は、食材の質を上げるために使いましょう」


 マイルスが言った。


「それから、医師を一人待機させます。前回のように怪我人が出ても、誰も対応できないのでは困りますから」


 反対する者はいなかった。


 ピクニック当日。


 空はどこまでも青く、風は穏やかだった。


 前回とは違い、湖面には細かな光がきらめき、木々の葉がさらさらと心地よい音を立てている。


 大鍋からは、肉と野菜をたっぷり使ったスープの香りが漂っていた。


 王宮の料理人とハトン公爵家の料理人たちは、互いに声をかけ合いながら鍋を見ている。


「そちらの鍋は、そろそろ塩を」


「分かりました。こちらは子ども用に少し薄めにしてあります」


「焼き菓子は、食べ終えた子から渡してください!」


 広場には笑い声が満ちていた。


 普段は厨房の奥で働いている者も、土にまみれて庭を整えている者も、今日は客として敷物に座っている。


 アリスは一つの場所に留まることなく、あちらこちらを歩いていた。


「このスープ、とてもおいしいわ」


 アリスに声をかけられた厨房の係員は、照れたように笑った。


「今日は、わたしたちも作っておりませんよ。お客様ですから」


「あら、そうだったわね。座って食べている姿を初めて見たから、なんだか不思議だわ」


「アリス様こそ、座ってお召し上がりください」


「ちゃんといただいたわ。お代わりもしたのよ」


 庭師たちのところへ行けば、今度は整備されたブランコの話になった。


「鎖も座板も取り替えました。支柱の根元まで確認しております」


「ありがとう。とても乗りやすそうね」


「アリス様も乗られますか?」


「もちろん。そのために並んでいるのよ」


 見ると、ブランコの前には子どもたちの列ができていた。


 アリスは当然のように、その最後尾へ並んだ。


「アリス様も乗るの?」


 前にいた少女が目を丸くする。


「ええ。大人は乗ってはいけないのかしら?」


「いいけど、順番だよ」


「分かっているわ。あなたの次ね」


 やがて順番が来ると、アリスは裾を整えてブランコへ腰かけた。


 庭師に背中を押してもらい、ゆっくりと宙へ上がる。


「あまり高くしないでね!」


「アリス様、怖いの?」


 子どもたちが笑う。


「怖くはないわ。ただ、少しだけ心の準備が必要なの!」


 そう答えながら、アリスも声を上げて笑った。


 一度乗り終えて列から離れたものの、しばらくすると、また子どもたちに誘われた。


「アリス様、もう一回!」


「仕方ないわね。では、もう一度だけよ」


 しかし、その「もう一度だけ」は何度も繰り返された。


 アリスはそのたびに最後尾へ並び、子どもたちと順番を待ち、楽しそうに笑った。


 遠くからその光景を見ていたマイルスは、ふと手を止めた。


 アリスは、貴族たちに囲まれていたときよりも、ずっと自然に笑っている。


 彼女が王宮にいたころ、自分たちは何を見ていたのだろう。


 何でもできる女。


 王太子の婚約者。


 頼めば面倒な仕事を片づけてくれる、都合のよい存在。


 そんなふうにしか見ていなかった。


「肉が残り少なくなりました!」


 料理人の声に、彼はすぐに振り返った。


「予備の鍋へ移れ。野菜はまだ十分にあるはずだ。焼き菓子は全員へ渡ったか?」


「確認します!」


 名目上の責任者は、スペーダ公爵だった。


 けれど、食材を調達し、料理人たちと打ち合わせを重ね、当日も会場中を走り回ったのは、ハトン公爵家の者たちだった。


 日が傾くころには、鍋はきれいに空になった。


 怪我人も出ず、菓子も全員へ行き渡った。


 片づけには四公爵家の者たちも加わった。


 今度は誰も、汚れた備品を捨てろとは命じなかった。


 食器は数を確認して箱へ戻し、鍋は煤を落として王宮へ運ぶ。


 最後の荷を馬車へ積み終えると、ハトン公爵家の料理長が主人へ頭を下げた。


「本日は、お疲れさまでございました」


「ああ。お前もよくやってくれた」


 それから少し迷い、マイルスは付け加えた。


「これまで、お前たちが何を考えて料理を作っているのか、知ろうともしなかった。すまなかった」


 料理長は驚いたように目を見開いた。


 やがて、静かに笑う。


「では、今度は屋敷の厨房もご覧になりますか?」


「ああ。教えてくれ」


 広場の向こうでは、アリスが子どもたちに囲まれ、もう一度だけと約束したはずのブランコに、また乗っていた。


 その笑い声が、夕暮れの湖畔へ明るく響いていた。


 催しは成功した。

いつも読んでいただきありがとうございます!


誤字、脱字を教えていただくのもありがとうございます。

とても助かっております。

楽しんでいただけましたら、ブックマーク・★★★★★をよろしくお願いします。

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