30 メアリーのあがき
30 メアリーのあがき
メアリーは、アレクとアリスを庭へ誘ったが、デイビスとラズベリーも後に続いた。
王宮の庭園では、色とりどりの花が見頃を迎えていた。よく刈り込まれた生垣の向こうに、赤や白の薔薇が咲き誇り、花壇を縁取るように小さな青い花が植えられている。
「こちらの庭は、わたくしが幼いころから気に入っている場所ですの」
メアリーはアレクの隣を歩きながら、にこやかに話しかけた。
反対側にはアリスがいる。
メアリーはできるだけアリスを視界に入れないようにしながら、庭園の由来や、王族しか入ることのできない区画について説明した。
「奥には王族だけが使う庭もございます。わたくしがメニリーフ王国へ嫁ぐ前に、ぜひアレク殿下にご覧いただきたいと思っておりましたの」
「それは光栄です」
アレクは礼儀正しく答えたが、アリスの歩調に合わせてゆっくりと歩いている。
メアリーは、それが気に入らなかった。
先ほど、アリスがクレールスター皇国の伯爵になっていると知らされたばかりだった。
平民になったとばかり思っていたアリスが、自分の知らないところで皇国貴族になっていた。アレクとともに皇国へ渡るための身分まで与えられている。
メアリーは、その事実を受け入れられなかった。
「それにしても驚きましたわ」
メアリーは扇を広げ、口元を隠した。
「アリスが伯爵になっていたなんて。どうして誰も、わたくしに教えてくれなかったのかしら」
「まだ正式な披露をしておりませんから」
アリスが穏やかに答える。
「ですが、隠していたわけではございません」
「そうなのね。けれど、皇国ではずいぶん簡単に爵位をいただけるのね」
メアリーの言葉に、後ろを歩いていたデイビスが眉を上げた。
ラズベリーもメアリーへ鋭い視線を向けたが、アレクが何も言わないため、二人とも黙っていた。
アレクの表情からも笑みが消えている。
しかし、メアリーは気づかない。
「アリスは、皇国で何か領地を治めるの?」
「領地については、皇国へ戻ってから正式に――」
「では、今のところは名前だけの伯爵なのね」
アリスの返答を最後まで聞かず、メアリーは納得したようにうなずいた。
「それなら、すぐに爵位をいただけたことにも納得できますわ。アレク殿下にお願いして、用意していただいたのでしょう?」
「メアリー王女」
アレクが静かに呼びかけた。
声を荒らげたわけではない。
それでも、メアリーは足を止めた。
「何でございましょう?」
「アリスの叙爵を決めたのは、皇帝陛下です」
「まあ……」
「皇国の爵位は、誰かに頼まれたからといって、簡単に与えられるものではありません。皇帝陛下がアリスの功績と能力を認め、皇国に必要な人物だと判断なさったのです」
アレクの声は冷静だった。
だが、その言葉は、メアリーの発言が皇帝の判断を侮辱するものだとはっきり告げていた。
メアリーの笑顔がわずかに引きつった。
「もちろん、皇帝陛下のご判断に異を唱えるつもりなどございませんわ。ただ、あまりに早く決まったので驚いただけですの」
「兄は、必要なことを先延ばしにしませんから」
「ええ。ご英断でございますわね」
メアリーは取り繕うように笑った。
しかし、アレクがアリスの爵位を誇らしく思っていることが、かえって彼女の嫉妬を刺激した。
「アレク殿下は、アリスの過去をご存じなのですか?」
「過去?」
「ええ。アリスは一度、この国の王太子妃になるはずだったのです」
メアリーは心配そうな表情を作り、アレクを見上げた。
「幼いころから王太子殿下の婚約者として育てられましたの。誰もが、アリスはいずれ王太子妃になるものと思っておりましたわ」
「知っています」
「まあ、そうでしたの」
メアリーは扇の陰で口元を緩めた。
「けれど、残念ながら、そのお話はなくなってしまいました。侯爵家の籍まで抜くことになって……親族であるわたくしたちも、本当に心配しておりましたのよ」
アリスは何も言わなかった。
婚約解消を申し出たのも、侯爵家から籍を抜くことを望んだのも自分である。だが、ここでメアリーと言い争うつもりはなかった。
メアリーは、アリスが黙っているのを後ろめたさのためだと思った。
「そのような過去がある女性を気にかけてくださるなんて、アレク殿下はお優しいのですね」
アレクの口から、短い息が漏れた。
笑い声だった。
それも、相手の浅はかさをあざ笑うような、乾いた笑いだった。
「お優しい?」
メアリーは戸惑った。
「何か、おかしなことを申しましたか?」
「いえ。あなたは本当に、何もご存じないのだと思いまして」
「どういう意味でしょう?」
「あの雨の日、アリスを保護したのはわたしですよ。アリスの機転のおかげで、皆さんは無事に逃げられました。我先にとね。アリスを置いて……」
アレクは皮肉な目つきでメアリーを見て、ふっと笑った。
「アリスが婚約を解消して侯爵家から籍を抜くと決めたとき、わたしはその場にいました」
メアリーは目を見開いた。
「その場に……?」
「アリスは自分の意思で戻ってきました。この国と離れるために。自分を使い潰す場所を離れ、自分自身の人生を選んだのです」
アレクは隣にいるアリスを見つめた。
「わたしは、それを誰よりもよく知っています」
そのまなざしには、同情ではなく、深い敬意と愛情があった。
「アリスに居場所を与えたつもりもありません。わたしは、アリスが自ら選んだ場所に、わたしもいさせてほしいと願っているだけです」
「アレク様……」
アリスが困ったように名前を呼ぶ。
アレクはアリスへ微笑みかけた。
その様子を見せつけられたメアリーは、扇を握る手に力を込めた。
「そうでしたの。わたくしは詳しい事情を知らされていなかったものですから」
「詳しく知らないのであれば、知っているように話さないほうがよろしいでしょう」
アレクの言葉に、メアリーの頬が引きつった。
「……ご忠告、感謝いたしますわ」
メアリーは再び歩き始めた。
今度こそアレクの隣へ並ぼうとしたが、アレクは自然な動作でアリスを自分の腕へ導いて、小道の真ん中を歩いた。アレクの隣に入り込む隙はない。
メアリーは少し先を歩き、満開の薔薇が咲く一角で足を止めた。
「こちらの薔薇は、国外から取り寄せた珍しい品種ですの。庭師が苦労して根づかせたのですよ」
濃い紅色の薔薇が、アーチに沿って咲き誇っている。
メアリーは、その中でも高い位置に咲いた花を見上げた。
「あの花が一番美しいわ」
そして、自分が肩にかけていた薄手のショールを外し、アリスへ差し出した。
「アリス、これを少し持っていてくださる?」
アリスは反射的に手を伸ばしかけた。
以前からメアリーは、こうして自分の持ち物をアリスへ預けていた。アリスも従妹として、幼馴染として、何の疑問も抱かずに引き受けてきた。
しかし、ショールがアリスの手に渡る前に、アレクが受け取った。
「わたしが持ちましょう」
「えっ?」
メアリーは目を瞬かせた。
皇弟であるアレクが、メアリーのショールを片手に立っている。
「い、いいえ。アレク殿下に持っていただくようなものでは……」
「では、侍女に頼むべきでしょう」
アレクは近くに控えていたメアリーの侍女へショールを渡した。
「アリスも招待客です。けじめは大事です」
「そのようなつもりではございませんわ。昔から、アリスにはこれくらいのことを頼んでおりましたの」
「昔はともかく、今のアリスは皇国の伯爵です」
「伯爵であれば、人の物を少し持つこともできないのですか?」
メアリーの声に苛立ちがにじんだ。
アレクは冷静に答えた。
「できません」
メアリーは返す言葉を失った。
それでも気を取り直し、薔薇を指さした。
「アリス。あの花を取ってくださらない? アレク殿下に差し上げたいの」
花はアリスの手が届かないほど高いところに咲いていた。しかも薔薇の茎には鋭い棘がある。
アリスが困って見上げると、アレクが尋ねた。
「今、注意したことがわかっていらっしゃらないようですね。メアリー王女」
「では、殿下が取ってくださるの?」
「いいえ」
アレクはあっさり答えた。
「正式な外交問題にしますか?」
メアリーは顔を赤くした。
どのように仕掛けても、アレクがアリスを庇う。
そればかりか、自分の言動だけが礼儀を欠いたものとして際立っていく。
「少し歩き疲れましたわね」
メアリーは話題を変えた。
「あずまやにお茶を用意しておりますの。参りましょう」
庭の奥にあるあずまやには、すでに茶の用意が整えられていた。
白い卓布の上に銀のポットが置かれ、三段の菓子台には焼き菓子や小さなケーキが美しく並べられている。
だが、席へ着いたアレクは、すぐに違和感に気づいた。
自分とメアリーの前には、王家の紋章が入った上質な白磁のカップが置かれている。
デイビスとラズベリーの前にも、賓客用の茶器が用意されていた。
ところが、アリスの前にだけ、厚みのある簡素なカップが置かれていた。侍女たちが普段使うものよりは上等だが、他の客に出す茶器とは明らかに格が違う。
アリスは何も言わず、そのカップを見つめた。
「これは?」
アレクが尋ねた。
メアリーは、今気づいたというように目を丸くした。
「まあ。どうしたのかしら」
侍女たちが緊張した顔でうつむく。
「茶器が足りなかったのでしょう」
「王宮で、茶器が一客足りないのですか?」
デイビスが静かに尋ねた。
「王女の茶席に足りないとは」
アレクがメアリーに言った。
メアリーの笑顔が固まった。
「急なことでしたから、仕方がありませんわ」
「考えられない不手際ですね」
ラズベリーが容赦なく指摘した。
メアリーは侍女をにらんだ。
「どうして用意していなかったの?」
「申し訳ございません、姫様」
侍女は青ざめて頭を下げた。
「まったく恥をかかせてくれるわね」
メアリーの声が鋭く響いた。
侍女は肩を震わせ、口を閉ざした。
アリスはメアリーに向かって言った。
「メニリーフ王国へ嫁がれたら、メアリー様がお茶会や夜会を主催する機会も増えるでしょう。最初は大変かもしれませんが、頑張ってください」
「わたくしは小さいときから、王妃殿下の代わりに準備をして来ましたから慣れておりますが、王女殿下はなんにもしていませんね。こういうのは自然に覚えれば、楽なのですが……今から努力なさればいいですね」
メアリーには耐え難い言葉だった。
アリスはこれまで、王宮で開かれる茶会や夜会の準備を陰で支えてきた。招待状の確認から席順、料理、茶器、花の手配まで、細かな部分に気を配っていた。
ピクニックの準備だってやっていたし、その間、責任者として留守も守っていた。
メアリーは、用意された会場へ美しいドレスを着て現れ、主催者として微笑んでいるだけだった。
今日になって初めて、その違いが明確にあらわれた。
「わたくしを馬鹿にしているの?」
メアリーの声が低くなった。
「いいえ。そのようなつもりはありません」
「伯爵になったからといって、急に偉くなったつもり?」
「そのようには思っておりません」
「あなたは昔からそうだったわ。おとなしい顔をしながら、自分のほうが何でもできると見せつけるのよ」
「メアリー王女」
アレクが制したが、メアリーは止まらなかった。
「ですが、いくら皇国の伯爵になっても、しょせんは伯爵でしょう?」
メアリーは椅子から立ち上がった。
「わたくしは生まれながらの王女です。幼いころから王族としての教育を受けてまいりました。アレク殿下のお隣にふさわしいのが、どちらなのかは明らかではありませんか」
とうとう、メアリーは本音を口にしてしまった。
アリスは目を見開いた。
デイビスは呆れたように眉を上げ、ラズベリーは冷ややかな目でメアリーを見ている。
アレクだけは、表情を変えなかった。
「あなたはアリスの身分を問題になさいますが」
静かな声が、あずまやに響いた。
「ご自身がすでにメニリーフ王国の王弟殿下と婚姻の約束をしていることは、問題ではないのですか?」
メアリーの顔から血の気が引いた。
「それは……」
「輿入れの準備まで進んでいると伺っています」
「まだ結婚したわけではございません」
「婚姻の約束は、結婚するまでなら無視してもよいものなのですか?」
「無視などしておりませんわ。ですが、より国のためになる縁が見つかったのであれば、考え直すことも必要でしょう」
「国のため?」
アレクは冷たく聞き返した。
「先ほどから、あなたはご自分の身分の話しかなさっていません。メニリーフ王国との関係についても、クレールスター皇国との関係についても、何一つお話しになっていない」
「わたくしが殿下と結ばれれば、両国にとって――」
「その可能性はありません」
アレクは、メアリーの言葉をきっぱりと遮った。
メアリーが凍りつく。
「わたしはあなたとの婚姻を考えたことは一度もありません。今後も考えることはありません」
「ですが、わたくしは王女です」
「そうですね」
アレクは淡々と答えた。
「だからこそ、ご自身の言動が国同士の関係に影響することを、もう少しお考えになったほうがよろしいでしょう。あなたとの婚姻は我が国になんの利益にもならない」
メアリーは唇を震わせた。なにも言えなかった。
アレクはメアリーを見ると、こう言った。
「案内をありがとうございました。いささか疲れましたのでお暇します」
メアリーは何も答えられなかった。
アレクはアリスをエスコートし、あずまやを後にした。デイビスとラズベリーも、そのあとに続く。
残されたメアリーの前には、王家の紋章が入った美しいカップが置かれていた。
けれど、その茶を口にする者は、もう誰もいなかった。




