03 ピクニックの一日
03 ピクニックの一日
メイナード侯爵家の馬車が出発して間もなく、車内には不機嫌な声が充満していた。
「狭いわぁ……窮屈で死んでしまいそうだわ」
妹のバーバラがドレスの裾を気にしながら不満を漏らすと、母のポーレット夫人が「本当にねえ」と溜息をついて同意した。
――のちに夫人は、この日のことを首を傾げながら回想している。
『本当にどうしてなのか分からなかったのです。いつもと同じ馬車でピクニックに行っていたのに、なぜかあの日は恐ろしく手狭に感じられて……』
理由など、言葉にするのも愚かしい。いつもはアリスを王宮に置き去りにし、四人で優雅に座っていたからだ。アリスという「一人の人間」が増えただけで不快感を示す家族の本音に、吐き気がした。
「いつもより出発が早いから眠くてたまらないよ」
兄が欠伸混じりに文句を言うと、夫人が冷たく言い放つ。
「仕方ないでしょう。アリスが現地でスープを作らなきゃいけないから、早めに出るしかなかったのよ」
「アリスはいつも忙しぶって、父親であるわたしと会話をする暇も作らないしな」
父のウィリアムまでが便乗してぼやき始める。アリスは何も言わず、ただ瞼を閉じて眠った振りを決め込んだ。
慢性的な睡眠不足と疲労、そしてまともに食事をしていない体は、限界を迎えていた。いつも眠く、いつも疲れている。それがアリスの日常だった。
「着いたわよ。アリス、シャキッとしなさい」
夫人に手荒く揺り起こされ、アリスは冷え切った車外へと出た。
予定通り早朝の到着だったため、周囲にまだ貴族たちの姿はない。アリスは真っ直ぐに、すでに火を起こし始めている《使用人》たちのもとへと歩み寄った。
「おはよう。今日のあなた方は、スペーダ公爵家の私兵であり使用人、ということになっているのね」
アリスが皮肉な笑みを浮かべて声をかけると、男たちは一斉に姿勢を正した。彼らの正体は、王宮の厨房を預かる本物の料理人たちだ。
「おはようございます、アリス様。その通りでございます!」と声が揃った。
「ご苦労様。さあ、出しゃばりなアリスが、無能なスペーダ公爵夫人に代わってスープを作ってあげるわ。始めましょう」
やがて太陽が高くなるにつれ、着飾った貴族たちが続々と集まってきた。それに合わせるように、王妃とスペーダ公爵夫人が連れ立ってアリスの前に現れ、予定通りの「醜悪な小芝居」を演じ始めた。
「まあ、アリスったら! 自分がスープを作りたいなんて、本当にわがままな子ねえ」
王妃が周囲に聞こえよがしに高笑いすると、スペーダ夫人がわざとらしく困り顔を作ってみせる。
「アリス様、そう言われましても……。王妃殿下、どういたしましょう?」
「仕方ないわ。アリスは一度言い出したら利かない子だから。ねえ、夫人?」
二人の茶番劇を前に、王宮の料理人たちは呆れ果てた視線を隠すようにこぞって俯いた。
「いいわよ、アリス。夫人にお礼を言いなさいね」
そう締めくくると、二人は満足げに去っていった。王妃は国王やアリスの両親が待つ「伝説の学年」の輪へ戻り、スペーダ夫人も別の貴族たちの集団へ合流した。夫人が何かを囁いた瞬間、その集団が一斉に笑い出した。
アリスは表情を一つ変えず、無言で包丁を握った。淡々と野菜を刻み、肉と共に大鍋へ投入する。香ばしい匂いが立ち上ると、息の合った料理人が絶妙なタイミングで水を注ぎ込んだ。
「あとは我々が引き受けます。アリス様はあちらで休んでください」
料理人に促され、アリスは少し離れた日陰の椅子へと移動した。
少しは「貴族たちの優雅なピクニック」とやらを特等席で見物してやろうと、アリスは会場を歩き回ることにした。王太子エドワードとバーバラのいる若者の集まりに加わる。
「お姉様! 次の孤児院の慰問ですが――」
開口一番、空気を読まずに公務の話をしようとする妹を、アリスは冷たく遮った。
「ここでその話をするのはやめて頂戴」
「えっ! お姉様……?」
バーバラが傷ついたように絶句するのを無視し、アリスは周囲の令嬢たちに話を振った。
「最近、街ではどんな食べ物が流行っているのかしら?」
「自分でワッフルを焼くお店が人気ですわ!」
「あら、アリス様が自分でスープを作りたがったのも、それと同じような流行病かしら?」
クスクスと品のない笑いが漏れる。先ほどの小芝居が、早くも格好の嘲笑のネタになっているらしい。気にする価値もないと続きを待とうとしたその時、湖畔のブランコ広場から鋭い悲鳴が上がった。
『どうせまたわたくしに責任が回ってくるのでしょうね。でも、呼び出されるまでは絶対に動かないわ。名目上の主催者はスペーダ公爵家なのだから』
アリスは周囲の令嬢たちの真似をして、ただ眉をひそめて見せるだけに留めた。
予感通り、「アリス様!」と王妃の侍女が血相を変えて走ってきた。
「何事ですか」
「怪我人です! 急いで来てください!」
「わたくしは医者ではありませんが?」
冷然と言い放つアリスに、バーバラが非難の眼差しを向けた。
「お姉様! 怪我人が出ているんですよ!?」
エドワードもまた、正義漢ぶった顔でアリスを睨みつける。
「怪我人だぞ、アリス。冷酷すぎるんじゃないか」
「お優しいお二人も王妃殿下も動きませんね。どうしてでしょうか? 心配だと口で言うのは得意ですのにね」
アリスは極めてゆっくりと立ち上がった。
「……主催者であるスペーダ公爵夫人は、一体どこで何をされているのかしらね。王妃殿下の侍女は夫人を探せないのかしら」
周囲にしっかりと聞こえる声で毒づいてから、渋々と侍女の後を追った。
ブランコの側では、一人の子供が子守に抱きついて泣き叫んでいた。その母親らしき見慣れない女性は、アリスの姿を見るや否や激昂して突っ込んできた。
「どういうことですか! こんな危ないものを置いて、子供に怪我をさせるなんて!」
「お子様のご怪我は痛ましいことですが、なぜそれがわたくしの責任になるのですか?」
「このブランコが危険だって言っているのよ! 新参者だからって馬鹿にしないで!」
「いえ、存じ上げないお顔でしたので。失礼ですが、どちらのご家門ですか?」
アリスが冷ややかに素性を正していると、「アリス様!」と場違いに明るい声が響いた。マロン伯爵だった。
「アリス様、申し訳ない! あれはうちの息子の再婚相手なんだ。まだお披露目もしていなくてね、ピクニックが終わったら婚姻届を出す予定だったんだよ」
伯爵は「まあ、いろいろありまして」と濁すと、激昂する女性の腕を掴んだ。
「行くぞ! こんな騒ぎを起こすんじゃない!」
嵐のような内輪揉めは、伯爵が女性を引きずるようにして去ることで幕を閉じた。
――だが、本当の嵐はその直後に訪れた。
急激に冷え切った突風が吹き抜け、湖面に白い牙のような波が立つ。見上げれば、墨を流したような黒雲が信じられない速さで広がり、太陽を完全に飲み込んでいた。
「皆様、嵐が来ます! 本日のピクニックはここまでです、急いで馬車へ避難してください!」
アリスは腹の底から大声を張り上げ、呆然とする貴族たちに指示を出した。すぐに雨が降り始めた。
凄まじい嵐になった。アリスは押し付けられた「総責任者」としての義務を果たすため、激しい雨に打たれ、視界を遮られながらも、遠くへ散歩に出ていた貴族たちが戻ってくるのをずぶ濡れで待ち続けた。最後の一人が馬車に駆け込むのを確認し、厨房の料理人たちが道具を片付けて撤収していくのを見届けた。
全員が避難した。ようやく、自分の役目が終わった。
気がつくとずぶぬれで、激しい寒さに体がガタガタと震えていた、アリスは実家であるメイナード侯爵家の馬車が止まっているはずの場所へと歩き出そうとした。
しかし――アリスは、その場に釘付けになったように棒立ちになった。
白く霞む豪雨の向こう側。
広大な敷地には、馬車が一台も残っていなかった。
自分の家族も、婚約者も、誰一人としてアリスの不在を気にすることなく、彼女を置き去りにして去って行ってしまっていた。




