26 離籍
26 離籍
今日、アリスがメイナード侯爵家から正式に除籍される手続きが完了する。
メイナード侯爵がいやだとだだをこねていたが、嫡男のチャールズがなんとか宥めたとかで、署名された書類が届いた。
自ら届けて来たチャールズは、もしできればアリスへ詫びを伝えて欲しいとアレクとデイビスに頭を下げた。
さて、アリス本人は平民になるものと思い込んでいるが、裏でアレクが手を回し、彼女には新たな爵位が用意されていた。
「アリス・フォーセゾン伯爵」――それが、アレクの命名した彼女の新しい名だ。
「『シーズンズ』だと少し長くて仰々しいから、『セゾン』にしたんだ」と得意げに語るアレクに対し、相談されたデイビスは「あまり使われていない古語を引っ張ってきたな」と思いつつも、響きの美しさを気に入って賛成した経緯があった。
部屋に戻ると、間もなく手続きの担当役人が書類を携えて入ってきた。
アリスは差し出された書類の内容を細部まで入念に確認し、淀みなく署名を済ませる。
「はい。これで完了ですね」
アリスが微笑むと、役人は恭しく一礼して退室していった。これで彼女は晴れてリーブル王国のメイナード侯爵家とは無関係の身となった。
「よし、次はこれだ」
だが、すぐさまアレクから別の書類を差し出され、アリスは目を丸くした。
「……伯爵、ですか?」
アリスは書類を見つめたまま固まった。
「そんな高い爵位を、いきなりわたくしがいただくなんて……」
「これから色々と仕事をしていく上で、しかるべき爵位があったほうが動きやすいからね」
アレクはあっさりと答えるが、アリスは戸惑いを隠せない。
「大丈夫、名ばかりの爵位だから。面倒な領地管理や義務が発生するわけじゃない。それに侯爵家の令嬢だった人間が平民として外交に出ると、逆に相手が困る。だから爵位だけは必要なんだ」
アレクが宥めるように言うと、傍らにいたデイビスも深くうなずいた。
「そこは保証するよ。安心して署名するといい」
「そういうもの、でしょうか? それにこの国とはもう関係ないですが……」
釈然としないながらも、アリスは促されるままにペンを走らせ、署名をした。
これでアリスはクレールスター皇国の伯爵になった。
そこへ、慌ただしくバートがやってきた。
最初に応対したデイビスは、しばらくバートと話し込んでいたが、やがて渋い顔でアレクを呼び寄せ、耳打ちした。
露骨に不愉快そうな表情を浮かべるアレクだったが、デイビスに「少し仕事の件で、アリスの知恵を借りたいそうなんです」と宥められ、しぶしぶアリスに声をかけた。
「バート!」
アリスが嬉しそうに名前を呼ぶと、アレクがかすかに眉をひそめて反応したが、デイビスがそれを目線で制した。
「わかりました。行きましょう、バート」
アリスはバートと連れ立って、さっそく執務室へと向かった。
廊下を歩きながら、バートが事情を説明する。
「どうしても、わたし一人では判断が下せない箇所が一つありまして……」
「ああ、あの部分ね。あそこは毎回、判断に迷うポイントだったものね」
アリスも過去の業務を思い出しながらうなずいた。
「いつも最後は、アリス様がご決断されていましたから」
バートが懐かしそうに言うと、アリスは悪戯っぽく微笑んで、少し得意げに声を弾ませた。
「実はね、良い方法を去年発見したのよ」
二人が「特務部」の執務室の扉を開けると、中で作業をしていた職員たちが一斉にアリスへと視線を向けた。
「また元お嬢様が口を出しにきた」
「今さら何を教えるつもりだ」
わざと聞こえるように囁くが、アリスは全く気にする様子もなかった。
「あら、以前より随分と広くなったのね。壁を取り払ったの?」
部屋を見回したアリスは、職員たちの態度の悪さにハラハラとしていたヘドラーの姿を見つけると、安心させるように笑って手を振った。アリスが気にしていないと分かり、ヘドラーはホッと胸をなでおろす。
「さあ、これまでの記録を持ってきてちょうだい」
アリスは指示を出すと、机の上に過去の資料を並べた。
「三年前は雨量が少なかったでしょう? だからこちらの数字は参考にならないの。五年前と今年の条件が近いから、この二つを比較すると答えが見えてくるわ」
「あっ……!」
アリスが示した箇所を見て、バートが感嘆の声を上げた。その様子につられるように、他の職員たちも自然と机の周りに集まり、アリスの解説に耳を傾け始める。
「今年はここがポイントになるわね。根拠はこれね。ただ、この書き方だと結論が先にあって、あとから理由を探したような形になっているから、領主を説得するのが大変かも……少し工夫が必要かしら。でも、今年はこれだけ優秀な人たちが揃っているのだから、みんなで相談しながら進めれば安心ね」
アリスが職員たちを見渡して微笑むと、バートは思わず目頭を押さえた。ヘドラーも顔を伏せ、小さくうなずく。
「アリス様、本当にありがとうございます」
「いいえ……それより実はね、わたしからもお二人に相談したいことがあるの」
アリスが声を潜めると、三人は他の職員から少し離れ、部屋の隅へと移動した。
「今度、海の一族を訪ねたいと思っているの。その時にお土産を持っていきたいのだけれど、何が良いかしら?」
「お土産ですか。今まであちらからは干物などを頂いてばかりでしたね」
バートが記憶をたどるように言うと、ヘドラーも賛同した。
「ええ、あの香ばしい干物は絶品ですね。赤ワインにも白ワインにもよく合います」
「そうなの。だから、そのお礼として喜ばれるものを持参したいのよ。公式な会食ではなく、遊びに行くようなものだから」
アリスの言葉に、ヘドラーがぽんと手を打った。
「それなら、スープを作って差し上げてはいかがですか? アリス様のお作りになるスープは大変美味しかったです。王国で採れた新鮮な野菜をご馳走するのです」
「それは名案ですね。海の幸を頂くお礼に、陸の恵みをお返しする。素晴らしいと思います」
バートも深くうなずいた。
「そうね! 陸の野菜のスープ。うん、そうするわ。わたし、練習したから美味しく作れるもの。ありがとう、二人に相談して本当に良かった!」
アリスは嬉しそうに微笑み、「頼もしい人が増えて本当に良かったわ」と言い残して、軽やかな足取りで執務室を後にした。
◆◇◆◇◆
同じ頃、アレクの執務室では、一人の男が報告書を手に佇んでいた。
「確かに優秀な方ですね。正直に申し上げれば、少々見くびっておりました。これまではバート様とヘドラー様が中心となって実務を回しているのだと思っておりましたが……わたしの見誤りでした」
男がそう言ったところで、ふっと口をつぐんだ。アレクから鋭い、射抜くような視線が送られたからだ。男は小さく咳払いをして、本題を切り出した。
「実はかねてより気にかかっていたことがあり、今回の件で確信に変わりました。地方でいくつか建設されている溜池ですが、それらが灌漑だけでなく、治水にも完璧に役立つ絶妙な場所に位置しているのです。不審に思い、過去の記録までさかのぼって調査したところ、なんとその場所を指定したのがアリス様であることが判明いたしました。領主が当初計画していた場所を、アリス様が変更させておいでです。領主側が拒否した場合は無理強いはしていないようですが……殿下、いかがいたしましょう。専門の調査員を現地に派遣し、本格的な調査を行わせますか?」
アレクは静かに書類から顔を上げ、冷徹な声音で命じた。
「すぐに手配してくれ。ただし、調査員にはアリスの名を一切出すな。この調査自体、極秘裏に進めろ。他へ漏らすことは絶対に許さん」
「御意。ただちに」
男は一礼すると、素早く部屋を出ていった。




