20 船の中で
20 船の中で
「今回は、ずいぶん穏やかな航海だな」
甲板から海を眺めながら、デイビスが言った。
「ああ。海の様子は、いつもと変わらないように見えるが……何かが違うのだろうか」
アレクも不思議そうに水平線へ目を向ける。
空は晴れ、風は帆を膨らませるのにちょうどよい強さだった。船はほとんど揺れることなく、海の上を滑るように進んでいる。
二人が話しているところへ、ラズベリーがやってきた。
「アレク様、デイビス先生。アリス様がお話ししたいそうです」
「アリスが?」
「はい。その……少し改まって、お話ししたいことがあるようです」
アレクとデイビスが顔を見合わせていると、ほどなくしてアリスが姿を現した。
アリスは二人の前に座ると、膝の上で両手を重ねた。
「わたくし、家族に会ったら何を話そうか、ずっと考えていました」
「ああ」
アレクが先を促すと、アリスはしばらく言葉を探すように視線を落とした。
「馬車に乗っている間も、街を歩いている間も、いろいろなことが頭に浮かんだのです。あのことも、このことも、あのときのことも」
重ねた指先に、わずかに力が入った。
「泣いて、喚いて、罵ってやろうと思いました。言ってやりたい言葉が、たくさん浮かんだのです。文学的な言葉も、皮肉も、それはもうたくさん」
そこでアリスは、自分でもおかしくなったように、かすかに笑った。
「だけど、眠ると、忘れてしまうみたいなのです」
「忘れる?」
「はい。忘れたことまで忘れてしまうのです」
アリスは窓の外へ目を向けた。穏やかな海が、陽光を受けてきらきらと輝いている。
「たくさん思い出しました。頭の中で言い返して、やり返して、それから眠って……目が覚めると忘れているのかな? 少しずつどうでもよくなっていました。家族に浴びせるはずだった言葉は、もうどこにも残っていない。みんな、どこかへいってしまいました。多分、わたくしは薄情なのでしょうね」
「それは違うよ、アリス」
アレクがすぐに否定したが、アリスは小さく首を振った。
「今、家族に言いたいのは、縁を切りたいということだけです。侯爵家の籍を抜いてください。それだけです」
アリスは二人の顔を順番に見た。
「こんなことを言うためだけに、王宮へいく必要がありますか? 手紙で終わらせてはいけないのでしょうか」
「そうか……」
デイビスはしばらく考えてから、静かに口を開いた。
「だが、王宮にはいこう。わたしたちも、あちらの顔を見ておきたいからね」
アリスがわずかに身構えたことに気づき、デイビスは穏やかな口調で続けた。
「もちろん、無理に何かを話す必要はない。ただ、今は言いたいことがなくても、実際に顔を見れば思い出すかもしれない。そのときは、全部話したらいい」
「全部……ですか?」
「ああ。意地の悪いことを言ってもいい。相手が傷つくと分かっていても、言いたければ言っていい。ずっと傷つけられてきた君が、そこまで相手を気遣う必要はないよ」
「そうだね」
アレクもうなずいた。
「アリスの気持ちが穏やかになることが一番大切だ。途中で嫌になったら、退室してもいい。わたしたちは皇国の者として、王国側と話さなければならないことがある。どちらにしても王宮にはいくし、先方にもすでにそう連絡しているからね」
「では、わたくしは、自分の用事だけを済ませればよいのですね?」
「そのとおり」
「だったら、気楽でいいのですね」
アリスの肩から、目に見えて力が抜けた。
「多分、わたくしの話はすぐに終わります。侯爵家の籍を抜いてもらうだけですから。それに、お城の仕事だって、これからは本人たちが自分でやればよいのです」
そう言って、アリスは晴れやかに笑った。
アレクとデイビスは、その笑顔を見ながら胸の内で同じことを思った。
(本人たちが自分でやればいい。)
まったくもって、そのとおりだった。
◆◇◆◇◆
その後、三人でお茶を飲んでいると、アレクが思い出したように尋ねた。
「アリス。海の一族の料理は、公務でなければ食べられないのか?」
「どうでしょう。わたくししか訪問してないですから、よくは存じません」
「そうだったな……」
アレクは少し考えてから、さらに尋ねた。
「海の一族のところへ、こちらからいくことはできるのか?」
「うん……できると思います。遊びにおいでと言われていますから」
アリスはしばらく考え込み、やがて顔を上げた。
「そうですね。侯爵家の籍を抜いたら、みんなで遊びにいきましょう」
「わたしたちも一緒でいいのかい?」
「四人に増えても大丈夫だと思います。お料理も、たくさんありましたから」
楽しそうに答えたアリスだったが、すぐに難しい顔になった。
「でも、何かお礼を差し上げたいです。皆さん、ずっとわたくしのことを心配してくださっていたので……何がよいでしょう」
「そうですね」
デイビスは少し考えた。
「王妃の姪という立場でなくなれば、これまでと同じ贈り物を用意するのは難しいかもしれません」
「やはり、そうですよね……」
「ですが、心配してくれている相手なら、あれこれ考えて訪ねるのが遅くなるより、まず元気な顔を見せたほうがよいのではありませんか?」
アリスが目を瞬かせる。
「顔を見せるだけで、よいのでしょうか?」
「それが一番だと思うよ」とデイビスがやさしく答えた。
「彼らは、アリスが思っている以上に、アリスのことを心配しているのではないかい? だから、まず会いにいけばいい。それからお土産を用意して、また訪ねればいいよ」
「本当に、そう思いますか?」
アリスはアレクとデイビスの顔を、かわるがわる見た。
二人が揃ってうなずくと、ようやく納得したように笑った。
「では、そうします」
先ほどまでとは打って変わって、声が弾んでいる。
「こうなったら、早く王宮の用事を済ませて、皆さんに会いにいきたいです」
◆◇◆◇◆
お茶を終えたアリスがラズベリーとともに部屋へ戻ると、残された二人の間に沈黙が落ちた。
扉が完全に閉まったことを確かめてから、デイビスが口を開く。
「アリスの気持ちは落ち着いたようですが、わたしたちの気持ちはちっとも落ち着きませんね」
「ああ」
「少し甲板を走れば、この苛立ちも収まるでしょうか」
「わたしは、アリスを甘やかせば落ち着きそうだ」
アレクがぼやく。
「少なくとも、わたしの気持ちは落ち着くと思う」
「それでは、あなたの気持ちしか落ち着かないでしょう」
デイビスは深いため息をついた。
「まずは、皇国から文官を派遣してもらいましょう」
その声から、先ほどまでの柔らかさが消える。
「王国の行政を立て直すという名目で、実務の主導権はこちらが握ります。国そのものは豊かです。上に立つ者が変わったところで、きちんと運営さえすれば、人々の暮らしはかわらないでしょう」
「そうだな。国を壊しては、アリスが悲しむ」
「もちろん、壊したりはしませんよ」
デイビスは冷ややかに笑った。
「守るべきものは守ります。そのうえで、落とすべき者を一人ずつ落としていきましょう。国王、王妃、王太子、そして、アリスを苦しめながら何も気づかなかった者たちを」
デイビスの笑みが、いっそう深くなった。
「いつも隠している腹黒さを、そろそろ見せてはいかがです?」
「ほう。デイビスが腹黒いところを見せてくれるのか。それは楽しみだね」
「嫌だなあ、アレク」
デイビスはにこやかに返した。
「あなたの腹黒さを見せましょうと、お勧めしているのですよ」
「わたしは、お前のを見たい」とアレクが言った。
「奇遇ですね。わたしは、あなたのが見たいです」とデイビスが笑った。
二人はしばらく見つめ合った。
そして、どちらからともなく笑った。
穏やかな海の上で、リーブル王国の者たちが知れば震え上がるような相談が、静かに始まろうとしていた。
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