16 朝食を食べない家風ですか?
16 朝食を食べない家風ですか?
二人はメイナード侯爵へ向き直った。
先に口を開いたのはバートだった。
「侯爵家では、朝食を召し上がらないのが家風なのでしょうか?」
「朝食?」
侯爵は質問の意味が分からず、眉を寄せた。
バートはわずかに首をかしげた。
「質問の仕方が悪かったでしょうか。侯爵閣下は、今朝、朝食を召し上がりましたか?」
「もちろんだ」
侯爵が答えると、バートは間を置かずに次の質問をした。
「ご家族全員で、ですか?」
穏やかな口調だった。
だが、侯爵は責められているような圧力を感じた。
「我が家では、食事は家族そろって取ることにしている」
侯爵が答えると、バートとヘドラーは目を合わせた。
「なるほど。家族そろって、ですか」
バートが静かに言った。
その言葉の意味を尋ねる勇気は、侯爵にはなかった。
「確認したいのだが」
侯爵は話を変えるように切り出した。
「アリスは、二人とこの部屋で仕事をしていたのか?」
「はい」
ヘドラーが答えた。
「アリス様は、まだ王太子殿下の婚約者でしかなく、正式に執務を担当する立場ではございません。わたくしたちも正式な辞令を受けておりませんが、ここで一緒に仕事をしておりました」
「いつからだ?」
侯爵が尋ねると、ヘドラーは少し考えてから答えた。
「王太子妃教育の一環という説明でしたので、ご婚約の直後からです」
「婚約の直後……」
侯爵はつぶやいた。
アリスが十二歳のころだ。
「最初は簡単な仕事でした」
ヘドラーは続けた。
「資料を読んで要点をまとめる。統計資料を比較しやすいように並べ直す。複数の報告書から、共通する問題を抜き出す。そのような根気のいる仕事が中心でした」
簡単な仕事だと、説明されても、侯爵には十分に難しく思えた。
ましてや、それをまだ幼い娘にやらせていたのだ。
「その仕事の合間に、お茶を飲んだりはしていたのか?」
侯爵が尋ねると、バートは少し顔をしかめた。
「お茶くらいは飲みました」
侯爵はわずかに安堵した。
だが、その安堵は次の言葉で消えた。
「朝食を召し上がっていないことは分かりましたので、わたくしたちが菓子やパンを持ち込んで、それをつまんでいただいておりました」
バートの視線が、まっすぐ侯爵へ向けられた。
「食べていないとは?」
侯爵は間の抜けた声で聞き返した。
「子どもが空腹なら、見ていれば分かります」
バートは冷たく言った。
「顔色も悪くなります。集中力も落ちます」
侯爵の頭に、幼いアリスの姿が浮かんだ。
だが、思い浮かぶのはいつも静かに立っている娘ばかりだった。
食事を喜ぶ姿も、菓子を欲しがる姿も思い出せない。
「姉上たちと食べていたのではないのか……」
侯爵が小さくつぶやいた。
声が小さかったため、二人には聞こえなかったらしい。
侯爵は息を吸い、もう一度尋ねた。
「王太子殿下や王妃殿下と、お茶をすることはなかったのか?」
バートとヘドラーは顔を見合わせた。
「どうだった?」
バートが尋ねると、ヘドラーは記憶をたどるように目を細めた。
「どうでしょう。少なくとも、わたくしは覚えておりません」
「わたくしもです」
バートが答えた。
「覚えているかぎり、一度もございません」
侯爵は唇を動かしたが、言葉が出なかった。
まだ聞きたいことは、いくらでもあった。
アリスは何時にここへきていたのか。
何時まで働いていたのか。
どのような顔で仕事をしていたのか。
疲れたとは言わなかったのか。
家へ帰りたいとは言わなかったのか。
だが、バートとヘドラーが侯爵へ向ける視線には、隠しきれない侮蔑があった。
父親でありながら、何も知らないのか。
二人の目が、そう問いかけているようだった。
侯爵は質問する勇気を失いかけた。
それでも、どうしても確認しなければならなかった。
「その……昼は」
侯爵が口を開いた瞬間、二人の視線がさらに冷たくなった。
侯爵は喉を鳴らした。
「昼食は、食べていたのだろうか」
最後は、ほとんど聞き取れないほど小さな声になった。
「ああ、昼食ですか」
バートが言った。
その口調には疲れがにじんでいた。
「一度だけ、職員用の食堂へお連れしたことがございます」
「職員用?」
侯爵は思わず聞き返した。
「何故だ。姉上は家族同然だと……アリスは王太子の婚約者で……」
バートは何も言わず、侯爵の顔をじっと見た。
その視線に耐えられず、侯爵は口を閉じた。
「すまない。もう黙る。続きを聞かせてくれ」
侯爵が言うと、バートはしばらく黙ったあと、話を続けた。
「一度、職員食堂で昼食を取りました」
バートはゆっくりと言葉を選んだ。
「そのあと、この部屋へ戻ると、王妃殿下の使いが待っておりました」
「使い?」
「今後、職員食堂を利用することを禁ずるとのお達しでした」
侯爵は目を見開いた。
「何故だ」
バートは口を開いたが、すぐには声が出なかった。
唇が震えている。
「職員食堂は、働く職員のための施設であり……」
そこまで言うと、バートの顔がゆがんだ。
「働いていない王太子の婚約者が利用することは、許されないと」
バートの声は、途中から涙声になっていた。
彼は慌てたように懐からハンカチを取り出し、目元を押さえた。
「そんな……」
侯爵の口から声が漏れた。
「そんなことが……」
「大丈夫ですよ」
ヘドラーが笑った。
だが、その笑みは少しも明るいものではなかった。
「わたくしたちがパンや菓子を持ってきましたから、三食分を毎朝、買ってきてました」
「『王太子妃になったらお給料を上げるから、待っていてね』っておっしゃってました」
とバートが言った。
「食べ盛りの子どもが遠慮するのが辛かったですね」とヘドラーが冷たく言った。
それは大丈夫なことでないと、侯爵にも分かった。
本来なら温かい食事を取るべき子どもが、仕事の合間に同僚から分けてもらったパンや菓子で空腹をしのいでいたのだ。
「無礼を承知で、お尋ねいたします」
バートがハンカチをしまい、侯爵を見た。
その目には、もう涙はなかった。
代わりに、明確な怒りがあった。
「わたくしたちは、働けば給金をいただきます」
バートは一語ずつ区切るように言った。
「アリス様の給金は、侯爵閣下がお盗りになっていたのでしょうか?」
「盗る?」
侯爵は意味が分からず、つぶやいた。
だが、すぐに言葉の意味を理解した。
「どういうことだ?」
侯爵が声を荒らげると、ヘドラーが無表情で答えた。
「早朝から働き、食事も与えられず、給金も受け取っておられませんでしたので」
ヘドラーの声には、何の感情もなかった。
「庶民の間では、ときどきある話です。子どもが稼いだ金を、親が取り上げて使ってしまうことが」
「違う!」
侯爵は反射的に否定した。
「わたしは、アリスの金など盗っていない」
「では、給金はどこにあるのでしょう」
バートが尋ねた。
「王宮で働くように売り飛ばしたのではないですか? 婚約者の予算も割り振られていましたが、お妹さんと王太子殿下がそれを使ってましたし……侯爵家の方針だとおっしゃってましたので」
侯爵は答えられなかった。
そもそも、アリスと給金は結びつかない。
働いていたとは知らなかった。
「お小遣いも、お持ちではありませんでしたよね」
バートが続けた。
「もっとも、使う時間もございませんでしたが」
「貴族の令嬢が、金を持っていないということがあるのかと、最初は不思議に思いました」
ヘドラーも言った。
「わたくしたちは子どものころ、少額ではありますが、小遣いをもらっておりました。街で菓子を買ったり、気に入った小物を買ったりしました」
「お貴族様は違うのかとも思いました」
バートが言った。
「食事が用意されていないと分かっていても、自分で何かを買って食べることはなさらないのかと」
侯爵の頭の中で、二人の言葉が飛び交った。
アリスのための予算はあった。
衣装を整えるための金。
宝飾品をそろえるための金。
王太子の婚約者として、体面を保つための金。
それは確かに用意されていた。
だが、アリスが自由に使える金はあったのか。
侯爵自身は学生のころ、友人と茶を飲んだ。
街へ出れば、気に入ったものを自由に買った。
欲しい本があれば買い、菓子が食べたければ店へ入った。
アリスも当然、同じようにしていると思っていた。
執事が渡していると思っていた。
いくら渡したのだろう。
侯爵は何一つ知らなかった。
だが、一つわかる。そのような質問をしたくなるほど、アリスは何も持っていなかったのだ。
バートとヘドラーは、青ざめた侯爵をしばらく見つめていた。
やがて、二人は互いに目を合わせた。
もう話すことはない。
そう決めたようだった。
二人は侯爵へ向かい、静かに礼を取った。
そして、そのまま執務室を離れようとした。
「待ってくれ」
侯爵は二人を呼び止めた。
「今回のピクニックのことを教えて欲しい」
「今までは準備と片づけで済んでいたのですが、今回は調理を押し付けられて大変そうでした」
「準備? 片づけ? とは」と侯爵が言うと
「それぐらい自分で調べてください。公爵家の仕事だそうですね」
「わかった。今回は調理……」
「厨房へどうぞ」と言うと二人は背を向けた。
「すまん、もう少し」
バートとヘドラーは足を止めたが、振り返らなかった。
「アリスは……最後、どんなだった?」
長い沈黙のあと、ヘドラーが小さな声で言った。
「遠くへいく人のようでした」
侯爵は息を止めた。
二人はそれ以上何も言わず、廊下の向こうへ去っていった。
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