14 侯爵の混乱
14 侯爵の混乱
気が付くと、わたしは侯爵家へ戻っていた。
馬車を降りたところまでは覚えている。だが、誰に何を命じ、どうやって屋敷の中へ入ったのかは、よく覚えていなかった。
妻を探すと、庭でバーバラとお茶を飲んでいた。
白いクロスの上には焼き菓子と果物が並び、二人は日差しを避けるための日傘の下で、のんびりと話をしている。
ピクニックから三日が過ぎている。
アリスが帰ってきていないことなど、少しも気にしていない様子だった。
「あら、あなた。アリスはまだお城で遊んでいるのですか?」
妻がわたしを見るなり、笑って尋ねた。
「エドワード様がお優しいから、甘えているのよ」
バーバラも事情を知っているような顔で言った。
わたしは二人の前に立った。
「アリスは行方不明だ」
妻が笑みを浮かべたまま固まった。
バーバラも手にしていた菓子を皿へ戻した。
「あの雨の夜から、アリスは誰にも見つかっていない」
わたしは言葉を続けた。
「わたしたちは、アリスを忘れて帰った。帰りの馬車は窮屈ではなかっただろう」
行きの馬車では、狭いと文句を言っていた。
帰りは一人減っていた。
それなのに、誰も不自然だと思わなかった。
「そうだったわね」
バーバラは戸惑ったように言った。
「でも、行方不明って……確か、あのときお姉様が皆に馬車へ乗るように言って……」
バーバラは雨の日のことを思い出しているようだった。
「エドワード様はすぐに馬車へ向かわれたわ。わたしもすぐに馬車へ向かったけれど、お姉様はぐずぐずしていて……」
「ぐずぐずしていた?」
わたしが聞き返すと、バーバラは口を閉じた。
アリスは皆を避難させるために残っていた。
最後まで周囲を確認していたのだ。
それを、バーバラはぐずぐずしていたと言った。
「わたくしたちは悪くないわ!」
突然、妻が声を上げた。
「婚約者が残っているのに、さっさと馬車へ乗った王太子が悪いのよ。やはり、あの女の息子だからだわ」
「あの女とは、姉上のことか?」
わたしが尋ねると、妻は息を詰まらせた。
「お前こそ、娘が乗っていないことに気づかなかっただろう」
わたしが言うと、妻は顔を赤くした。
「そうよ、あの女よ。伯爵家のくせに王家へ入って……わたくしは公爵家の娘よ。わたくしこそが王家にふさわしかったのに」
そこまで言って、妻ははっと口を閉じた。
バーバラも驚いた顔で母親を見ている。
妻はしばらく黙ったあと、急に顔をゆがめた。
「……心配のあまり、気が動転してしまったのです」
妻の目から涙が流れた。
「アリス。どこにいるの?」
妻はそう言うと、声を上げて泣き出した。
バーバラが席を立ち、母親の肩を抱いた。
「お母様、しっかりしてください。心配しすぎるとお体に悪いですわ」
バーバラは妻を慰めながら言った。
「お姉様が、もっとしっかりしていればよかったのよ」
その言葉を聞いた瞬間、吐き気がした。
アリスは誰よりもしっかりしていた。
しっかりしていたから、何もかも押しつけられた。
しっかりしているから大丈夫だと、誰も助けなかった。
それなのに、まだ足りないと言うのか。
わたしは二人をそのままにして、屋敷を出た。
誰かを責める声も、泣き声も、今は聞きたくなかった。
馬を用意させ、湖へ向かった。
馬を走らせながら、あの日のことを思い出した。
雨が降り出す直前、誰かが大声で馬車へ戻るように叫んだ。
そうだ。あれはアリスの声だった。
わたしは何故かその声に従い、何も考えず馬車へ向かった。
妻も息子もバーバラも乗っていた。
アリスはいなかった。
それでも、わたしは出発を命じた。
王家の馬車へ乗ったのだと思った。
いや、思おうとしただけではないのか。
家族が一人足りないことに気づきながら、確認するのが面倒だったのではないか。
(違う)
そう思いたかった。
だが、違うと言い切ることができなかった。
今年の当番はスペーダ公爵家だった。
それなのに、あの者たちは何をしていた。
公爵は、わたしたちの周囲を取り囲んでいた一団の中にいたかもしれない。
公爵夫人は、別の集まりで笑っていた。
主催者なら、最後まで残って全員が避難したことを確認する義務がある。
騎士団長もいた。
騎士団長であれば、皆の安全を確認するべきだった。
王もいた。王妃もいた。宰相もいた。伝説の我らがなにもしなかった。
誰も当然のことをしていなかった。
誰も何もしていない。
ピクニックは、ただの遊びではない。
災害時の炊き出しを想定した国事だった。
楽しい行事へ変わっていたとしても、本来の目的まで失われたわけではない。
それを、これほどまでにないがしろにするなど、許されるはずがない。
だが、実際には誰も自分の役目を果たしていなかった。
そして、本来は責任を負う立場にないアリスだけが、最後まで残った。
わたしは他人を責めながら、そのたびに自分も同じだったと思い知らされた。
妻の言葉、姉上の言葉。
執務室に積み上がっていた書類。
アリスが王宮へ泊まったという意味。
分かりたくない、認めたくない、知りたくない。
だが、いくつもの事実が渦を巻き、わたしを飲み込もうとしていた。
湖へ到着すると、あのブランコがまだ残されていた。
近くの村から遊びにきたらしい子どもたちが、楽しそうに使っている。
片付けられていない。
当番だったスペーダ公爵家は、何をしているのだ。
アリスに片付けを押しつけ、そのまま放置したのか。
会場には、何も残っていなかった。
あれほどの雨だったのだ。
足跡も車輪の跡も、流れてしまっている。
わたしは馬を降り、周囲を見回した。
「血の跡があっても、雨で流れてしまうな」
捜索に同行した騎士の一人が、小さく言った。
「血?」
わたしは騎士を振り返った。
「いえ、可能性の話です」
騎士はすぐに頭を下げた。
だが、一度浮かんだ考えは消えなかった。
アリスが転んだかもしれない。
誰かに襲われたかもしれない。
事故に遭ったかもしれない。
血を流しながら、誰にも助けられずにいたかもしれない。
急に、それが現実のものとして迫ってきた。
わたしは何をしていた。
娘が雨の中を歩いていたかもしれないとき、家で夕食を食べていた。
翌日は、いつものように過ごした。ピクニックの翌日は疲れを口実に怠けるのだ。
妻も息子もバーバラも、誰もアリスを捜さなかった。
わたしは騎士たちへ命じ、地面の捜索と周辺での聞き込みを始めさせた。
近隣の騎士団の詰所も回った。
身元の分からない女性が保護されていないか。
事故や事件の報告が届いていないか、何度も確認した。
その中で、一つ気になる情報が見つかった。
何者かが、若い女性の捜索依頼が出ていないかを尋ねて回っていたという。
問い合わせは、湖の近隣から始まり、街道沿いの詰所を通り、最後は港で行われていた。
その人物は金髪に黒い目をした男で、丁寧なもの言いだったらしい。
何故、女性を捜しているのではなく、捜索依頼が出ているかを確認したのだろう。
女性を保護していたからではないのか。
そう考えると、胸が大きく鳴った。
だが、問い合わせをした男の身元も、どこへ向かったのかも分からなかった。
港なら、そこから船へ乗った可能性もある。
陸路で別の町へ向かった可能性もある。
手がかりは、あまりにも少なかった。
捜索を続けていると、息子のチャールズが馬でやってきた。
チャールズは馬から降りるなり、わたしの前で深く頭を下げた。
「父上」
「どうした」
わたしが尋ねると、チャールズは顔を上げた。
「あの日のことを思い出しました」
息子の顔には、深い後悔が浮かんでいた。
「わたしは兄として、アリスを守っているつもりでした」
チャールズは苦しそうに言った。
「ですが、何も気づいていませんでした。あの日も、早起きが嫌だと文句を言いました。馬車が狭いとも言いました」
チャールズは拳を握った。
「最低です」
息子も気づいたのだ。
自分たちがアリスに何をしていたのか。
「アリスが戻ってきたら、一緒に謝ろう」
わたしが言うと、チャールズはうなずいた。
わたしは息子の背中を軽く叩いた。
そのときは、本当にそう思っていた。
見つかれば帰ってくる。
謝れば、すぐには無理でも、いつかは許してくれる。
かわいいアリスだもの。
わたしは周辺の村や詰所へ、アリスらしき人物を見かけたら知らせてほしいと頼んだ。
正式な捜索依頼も出した。
侯爵令嬢であり、王太子の婚約者であることも開示した。
伏せれば、捜索に必要な人員を動かせない。
公にすれば王家と侯爵家の失態が明らかになる。
だが、そんなことはどうでもいい。
アリスが生きているなら、それでよかった。
捜索を騎士たちへ任せ、わたしは侯爵家へ戻った。




