13 リーブル王国では-3
13 リーブル王国では-3
「置いてきた……」
エドワードがつぶやいた。
「アリスを、あの雨の中へ置いてきた。無責任にも自分の安全だけを考えた」
侯爵の声が震えた。
「違う。わざとではない」
エドワードはすぐに否定した。
「誰も、そのようなつもりでは」
「わたしたちもそうです。自分の安全だけを確保した」
侯爵は立っていられなくなり、膝へ手をついた。
息がうまくできなかった。
冷たい雨と暗くなった湖畔。
馬車が一台も残っていない会場。
そこに一人で立つアリスの姿が頭に浮かんだ。
(アリス……)
侯爵は何度か息を吸い、ようやく体を起こした。
「執務室へ戻ります」
侯爵が言うと、エドワードも無言でついてきた。
二人が執務室へ戻ると、王妃が待っていた。
王妃は苛立った顔で腕を組んでいた。
「アリスはどこにいるの?」
王妃は二人を見るなり尋ねた。
「ピクニックの片付けもせずに、どこで遊びほうけているのかしら」
侯爵の足が止まった。
頭の中で何かが切れる音がした。
「片付けとは、何でしょうか」
侯爵が静かに尋ねた。
王妃は弟の口調の変化に気づかず、面倒そうに答えた。
「ピクニックの片付けよ。道具の確認や使用人への指示があるでしょう」
「それは、アリスの仕事なのですか」
侯爵が尋ねる。
「そうよ。あの子は慣れているもの」
王妃は当然のように答えた。
侯爵は拳を握った。
「慣れるほど、やらせているのですね」
「何を怒っているのよ」
王妃は眉をひそめた。
「毎年ですか」
侯爵が尋ねると、王妃はうなずいた。
「ええ、毎年よ。あの子は今までずっと留守番だったでしょう。せめて片付けだけでも参加させてあげていたの」
「留守番?」
侯爵は王妃を見つめた。
「何の留守番ですか」
「王宮の責任者としてよ。ずっと先代国王陛下がして下さっていたけど、亡くなったからアリスに任せたのよ」
王妃が答えた。
「王族や重臣が全員出かけるのだから、誰かが王宮に残らなくてはいけないでしょう」
「それを、アリスに?」
「しっかりしているから安心なのよ」
王妃は笑った。
「アリスなら、何でもきちんとやってくれるもの」
侯爵は言葉を失った。
アリスが十二歳で王太子の婚約者になってから、ピクニックへ参加していなかったことを思い出した。
自分も妻も子ども二人も、毎年楽しみにしていた。
だが、アリスは王太子妃教育が忙しいから欠席しているのだと思っていた。
本人も行きたくないのだろうと、勝手に決めつけていた。
実際には、まだ子どもだったアリス一人へ王宮を任せ、自分たちは遊びに出かけていたのだ。
そして帰ってきたあと、片付けまでさせていた。
(何をしていたんだ)
侯爵は自分へ問いかけた。
(わたしたちは、あの子に何をしていた)
「侯爵」
遠くから声が聞こえた。
「侯爵」
誰かが呼んでいる。
「侯爵……聞いているのですか」
エドワードの声だった。
侯爵はゆっくりと顔を上げた。
「はい、殿下」
「アリスが馬車に乗っていないことを、気にしなかったのですか」
「はい、気にしませんでした。欠席していることも気にしませんでした」
侯爵は答えた。非難されても仕方がなかった。
侯爵家の馬車には、侯爵夫妻と長男、バーバラが乗っていた。
行きは五人だった。
帰りは四人だった。
それなのに、誰もアリスがいないことを問題にしなかった。
王家の馬車へ乗ったのだと思い込んでいた。
娘がどこにいるのか、誰といるのか、無事なのか。
父親である侯爵は、何一つ確かめなかった。
「申し開きはございません」
侯爵は答えた。
「王家の馬車へ乗ったと思っていました」
「わたしも侯爵家の馬車へ乗ったと思っていました」
エドワードは唇を噛んだ。
「ですが、婚約者がどこにいるか確認するのは、殿下の責任でもございます。アリスに庇われてさっさと自分の安全を確保なさった。わたしもそうですが」
侯爵が言うと、エドワードは何も返せなかった。
王妃は不満そうに二人を見た。
「大げさね。どこかの馬車に乗せてもらったのでしょう。アリスはしっかりしているのだから、自分で何とかしているわよ」
侯爵は王妃を見た。
「三日です」
「何が?」
「ピクニックから、三日たっております」
侯爵が言うと、王妃の表情がわずかに変わった。
「アリスは侯爵家へ戻っておりません。王宮にもおりません。執務室にも、本人の部屋にもいません」
「では、どこへ行ったのよ」
王妃が苛立った声を出した。
「それを、今から調べるのです」
侯爵は冷たく答えた。
エドワードは少し胸を張った。
「すでに捜索するよう手配しました」
その口調には、やるべきことをしたという得意げな響きが混じっていた。
侯爵はエドワードを見た。
「いつ手配したのですか」
「先ほどです」
「先ほどですか? たいしたものです」
「ですから、わたしはこれから侯爵家の騎士をすべて動かします。領地へも連絡を入れます。街道、宿場、湖の周辺、川下まで捜させます」
侯爵は扉へ向かった。
「わたしも行きます」
エドワードが言った。
侯爵は振り返らなかった。
「殿下は王宮にお残りください」
「何故です」
「殿下の仕事が、アリスの執務室に積み上がっております」
侯爵が答えると、エドワードは言葉を失った。
「アリスを捜す者は必要です。しかし、殿下が探したところで……」
侯爵は扉を開けた。
「アリスが戻るまで、殿下ご自身のお仕事は、ご自身でなさってください。いえ、戻っても自分の仕事は自分でしてください。孤児院の慰問は楽しいでしょうが、我慢してください。姉上も自分の仕事をしてください」
王妃が何か言おうとしたが、侯爵は構わず部屋を出た。
廊下を歩きながら、侯爵の頭にはアリスの姿ばかりが浮かんでいた。
幼いころ、妹の乳母車を押していたアリス。
疲れて帰ってきたアリス。
家族の会話を黙って聞いていたアリス。
バーバラへ頭を下げていたアリス。
いつから、あの子は笑わなくなったのか。
いつから、家族へ何も求めなくなったのか。
侯爵には思い出せなかった。
(アリス……すまない)
声に出す資格はないと思った。
謝れば許されることではない。
見つけたところで、戻ってきてくれる保証もない。
それでも、捜さなければならなかった。
侯爵は王宮を出ると、待たせていた馬車へ乗り込んだ。
「家へ急げ」
侯爵が命じると、馭者はすぐに馬を走らせた。
馬車が動き出してから、侯爵は拳を強く握った。
爪が手のひらへ食い込んでも、力を緩めることはできなかった。
(頼む。生きていてくれ)
侯爵は目を閉じた。
(戻らなくてもいい。許してくれなくてもいい。だから、どうか生きていてくれ)
その願いが届く相手は、すでに海の上にいた。




