12 リーブル王国では-2
12 リーブル王国では-2
侯爵が扉を開けると、エドワードは書類を前にしていた。
「アリスはどこにいる」
侯爵が尋ねると、エドワードは顔を上げた。
「アリスですか? 今日も休みなのですか?」
エドワードは少し呆れたように笑った。
「侯爵は娘に甘いですからね。バーバラはよく手伝ってくれるのですが、アリスは最近、休みが多いですね」
「何を言っている」
侯爵の声が低くなった。
「アリスは、ずっと王宮にいるのだろう」
「違いますよ」
エドワードは不思議そうに答えた。
「アリスは侯爵家にいるのでしょう?」
「家には戻っていない」
侯爵が答えると、エドワードの表情から笑みが消えた。
「では、アリスは……」
エドワードは椅子から立ち上がった。
「アリスは、どこにいるのですか」
誰に尋ねたのか、自分でも分からない様子だった。
次の瞬間、エドワードは執務室を飛び出した。
侯爵もそのあとを追った。
二人が向かったのは、アリスに与えられているはずの部屋だった。
「アリス」
王太子エドワードが扉を叩いた。
返事はなかった。
「アリス、いるのだろう」
もう一度呼びかけたが、室内から物音は聞こえない。
エドワードは扉の取っ手へ手をかけた。
「開けるよ」
扉には鍵がかかっていなかった。
エドワードが中へ入り、メイナード侯爵も続いた。
二人は部屋へ足を踏み入れたところで、そろって動きを止めた。
部屋はきれいに片付いていた。
だが、整えられているというより、最初から何も置かれていないように見えた。
机と椅子と小さな棚と壁際の寝台。
家具はそれだけだった。
棚には何も置かれていない。
刺繍道具もない。
読みかけの本もない。
茶器も菓子の皿もなかった。
若い令嬢が日々を過ごしている部屋とは思えない。
生活の気配が、どこにもなかった。
「おかしい……」
エドワードが小さくつぶやいた。
彼は王妃から、王太子妃教育を終えたアリスは、この部屋で刺繍をしたり、音楽を楽しんだり、本を読んだりして過ごしていると聞いていた。
夕方には王妃とお茶を飲み、夕食時間に家に戻る。
エドワードはそう信じていた。
だが、この部屋で刺繍はできないだろう。
音楽を楽しむための楽器もない。
読む本などどこにあるというのだ。
侯爵はゆっくりと寝台へ近づいた。
寝台には、敷布がなかった。
毛布も枕も置かれていない。
長い間、誰も使っていない寝台だった。
(ここで寝たことがないのか)
侯爵は息ができなかった。
アリスはときどき、王宮へ泊まると連絡してきた。
侯爵は、婚約者の部屋が用意されており、侍女に世話をされているものだと思っていた。
だが、この寝台で眠ることはできない。
では、アリスはどこで夜を過ごしていたのか。
「アリス付きの侍女を呼んでくれ」
エドワードが廊下に控えていた侍従へ命じた。
侍従は戸惑ったように立ち尽くした。
「聞こえなかったのか。アリス付きの侍女を呼んでくれ」
エドワードがもう一度言った。
それでも侍従は動かなかった。
「侍女長を呼んでください」
侯爵が代わりに言うと、侍従はようやく頭を下げて歩いて行った。
しばらくして、侍女長が部屋へやってきた。
侍女長は部屋の前に立つエドワードと侯爵を見て、わずかに目を見開いた。
「お呼びでしょうか、王太子殿下」
侍女長が礼を取ると、エドワードはすぐに尋ねた。
「アリス付きの侍女を呼んでくれ」
「アリス様付きの侍女でございますか?」
侍女長は不思議そうに聞き返した。
「そうだ。アリスがどこにいるか聞きたい」
「アリス様付きの侍女はおりません」
侍女長はあっさりと答えた。
「……いない?」
エドワードの口から、間の抜けた声が漏れた。
「はい。おりません」
「今日だけ休みなのか」
「いいえ。最初からおりません」
侍女長が答えると、エドワードは理解できないという顔をした。
「最初からとは、どういう意味だ」
今度は侯爵が尋ねた。
「アリス様が王太子殿下の婚約者になられたころからです。アリス様は十二歳でしたか? あれから六年? 七年? ですか。ずっと侍女はおりません」
侍女長は淡々と説明した。
「わたくしも不思議に思いまして、王妃殿下へ直接確認いたしました。ですが、アリス様には必要ないとのご返答でしたので、間違いございません」
エドワードは言葉を失った。
侯爵は寝台へ目を向けた。
「では、この部屋の管理は誰がしている」
侯爵が尋ねた。
「定期的に掃除の者が入っております」
侍女長が答えた。
「アリスが部屋にいるときは、誰が茶を用意する」と侯爵が押さえた口調で言った。
「お茶でございますか?」
侍女長は首をかしげた。
「姉上と……王妃殿下とお茶を飲んでいるのではないのか」
侯爵が尋ねると、侍女長はますます不思議そうな顔をした。
「王妃殿下とアリス様が、こちらでお茶を召し上がるということでしょうか」
「そうだ」
「そのようなことは、一度もなかったと思います」
侍女長の答えに、侯爵は息を止めた。
「では、アリスはこの部屋で何をしていた」
「さあ……」
侍女長は室内を見回した。
「アリス様は、こちらへほとんどいらっしゃいませんでしたので」
「ほとんど?」
エドワードが聞き返した。
「はい。最近では、ピクニックの前に厨房用の服へ着替えにこられたくらいでしょうか」
「厨房用の服?」
エドワードと侯爵が、ほとんど同時に声を上げた。
侍女長は二人の反応に戸惑いながらも、うなずいた。
「はい。調理をなさるためのお召しものです」
「何故、アリスが厨房へ入る」
エドワードが強い口調で尋ねた。
「わたくしには分かりかねます。ピクニックの準備と伺っております」
侍女長はそう答えたあと、少し考えた。
「アリス様は、普段は執務室におられました。食事を運ぶよう頼まれたこともございませんので、どこでお食事を取られていたのかは存じません」
侯爵の顔から血の気が引いた。
「食事を運んだことがない?」
「はい」
「王家と一緒に夕食を取っていたのではないのか」
侯爵が尋ねると、侍女長は困った顔をした。
「王家の食事については、給仕の者へ確認しなければ分かりません。ただ、アリス様が毎日ご一緒だったとは聞いておりません」
侯爵は壁へ手をついた。
王宮で夕食を済ませたと聞いていた。
食後のお茶まで終えてから戻ったと、いつも思っていた。
だが、誰がそう言ったのか。
アリス本人が、王宮で食事をしたと言ったことはあっただろうか。
侯爵は思い出そうとした。
遅く帰ってきたアリスへ、夕食のことを尋ねたことはない。
侯爵は自分の思い込みに気づいた。
(では、あの子は何を食べていた? どこで食べていた?)
執務室に積まれていた書類。
いつも疲れた顔をしていた。手首も細かった。
帰宅しても、すぐに自室へ引き上げていた娘。
侯爵の胸が締めつけられた。
「殿下」
侯爵は壁へ手をついたまま、エドワードへ声をかけた。
「ピクニックから戻った馬車には、誰が乗っていましたか」
エドワードは質問の意味が分からないような顔をした。
「誰とは?」
「王家の馬車です。帰りは、どなたが乗っていたのですか」
「わたしと父上、母上、姉上の四人です」
エドワードは当然のように答えた。
「行きと同じですよ」
「アリスは?」
侯爵が尋ねると、エドワードは黙った。
「アリスは、どの馬車に乗ったのでしょうか?」
侯爵が重ねて尋ねる。
「アリスは……侯爵家の馬車ではなかったのですか」
エドワードが答えた。
侯爵は目を閉じた。
「侯爵家の馬車には乗っていません」
「最後にアリスを見たのは?」
ピクニック会場で、アリスが大声で危険を知らせた。
皆を馬車へ急がせた。
エドワードはその声を聞き、両親と姉と一緒に馬車へ走った。
アリスがどこへ向かったのか、見ていなかった。
自分たちの馬車へ乗ったあとも、アリスの姿を確認しなかった。
侯爵家の馬車に乗るのだと思っていた。
侯爵家では、王家の馬車に乗るのだと思っていた。
誰もアリスを捜さなかった。




