11 リーブル王国では-1
11 リーブル王国では
アリスが船の上で眠り続けているころ、リーブル王国の王宮では、ようやく小さな異変が起こり始めていた。
バートとヘドラーが休暇を終えて執務室へ戻ってきたのは、ピクニックから三日後のことだった。
二人はもともと、アリスの直属の部下ではない。
別の部署に所属する文官だったが、人手が足りないからと臨時の応援に回され、そのままアリスの仕事を手伝い続けていた。
正式な異動命令が出たわけではない。
だが、元の部署へ戻る話も出なかった。
アリスの仕事は、二人が抜ければ回らなくなる。
それが分かっていたため、バートもヘドラーも、自分たちから戻りたいとは言い出せなくなっていた。
もっとも、二人が手伝っていたからといって、アリスの代わりができるわけではない。
王妃の書類を処理できるのは、王妃から正式に代行を命じられたアリスだけだった。
王太子の書類も同じで、アリスは正式に代行者に任命されていた。
国王や宰相の書類まで、ときどきアリスの机に混ざっていたが、それらも正式な権限を与えられたアリスにしか最終処理はできなかった。
国王の仕事を手伝うことになったきっかけは、複雑な資料を分かりやすく整理してほしいと、国王からこっそり頼まれたことだった。
アリスは頼まれたとおり、膨大な資料を読み込み、必要な情報を抜き出し、問題点と選択肢をまとめた。
その出来がよかったため、次は別の資料を頼まれた。
さらに次は、結論を出すところまで任された。
いつの間にか、アリスは国王の仕事を正式に代行する立場になっていた。
そのことを知った宰相は内密にするようにアリスに言うと同時に自分の仕事を少しだけ回して来た。
王太子妃教育を受けていたからではなくアリスには、仕事を処理する能力が人並み以上にあった。
だが、自分に与えられた権限が異常なものだと判断し、任せられた仕事を拒絶するだけの経験がなかった。
誰かに必要だと言われれば、応えようとした。
誰かに任せたと言われれば、責任を果たそうとした。
そして、そんなアリスを守る者は誰もいなかった。
バートとヘドラーは、アリスの机へ国王や王妃の書類が運ばれてくるようになったころ、さすがにおかしいと思って宰相へ報告していた。
だが、宰相は困ったような顔をしたあと、二人へ頼んだ。
「業務は滞りなく流れている。もう少しだけ目をつむってくれ」
もう少しだけという言葉を何度聞いたか、二人にも分からなくなっていた。
アリスを一人残して元の部署へ戻ることもできなかった。
誰も面倒をみない少女を一人残すことはできなかった。
怒る暇も、文句を言う暇もなく、次々と運び込まれる書類を片付けているうちに、三人とも感覚が麻痺してしまった。
休暇を終えて戻った執務室には、三つの机が見えなくなるほど書類が積み上がっていた。
バートとヘドラーは部屋に入ったところで言い合った。
「増えていますね」
バートが乾いた声で言うと、ヘドラーも机を見渡した。
「休みの前より増えていますね。当たり前ですけど」
二人はしばらく黙っていた。
アリスの机には、王妃の印がついた書類が積み上がっている。
隣の山は王太子の書類で、さらに国王のものと思われる書類まで混じっていた。
「アリス様は、まだいらしていないのですね。遠くへ行ったってことは?」
ヘドラーが言った。
「そうだったらいいですね」
いつもなら、アリスは誰よりも早く執務室へきていた。
休暇のあとであっても、それは変わらなかった。
むしろ休み明けだからこそ、早くきて書類を確認するのがアリスだった。
だが、その日は昼になっても姿を見せなかった。
「侯爵家で休んでおられるのでしょうか」
ヘドラーがつぶやいた。
「そうだといいのですが」
バートはそう答えたものの、不安は消えなかった。
二人はひとまず、書類をそれぞれの部署へ返すことにした。
「アリス様が不在のため、この書類は処理できません」
そう説明して、一つずつ返して回った。
ところが、すべての書類を返して執務室へ戻ると、机の上に同じ書類が置かれていた。
「戻っていますね」
ヘドラーが言った。
「戻っています」
バートも答えた。
二人はもう一度、書類を抱えて各部署へ向かった。
「処理できません」
「アリス様が戻られるまで、こちらで保管してください」
「正式な代行権限を持つ者が不在です」
今度は、はっきりと説明した。
それでも、二人が執務室へ戻ると書類は机の上にあった。
誰が置いたのかは分からない。
バートは無言で扉を閉めると、鍵をかけた。
「これで置けませんね」
ヘドラーが言った。
「ええ。明日は何もないことを祈りましょう」
翌朝、二人が執務室へ入ると、机の上には昨日より多くの書類が積まれていた。
マスターキーで扉を開けた者がいたのだ。
ヘドラーは一番上の書類を手に取った。
「王妃殿下の茶会の席順です」
「緊急性はありますか」
バートが尋ねた。
「来月の茶会です」
ヘドラーは書類を机へ戻した。
次の書類には、王太子が慰問先で約束した寄付について書かれていた。
自分の執務をやらずに王太子のやる恒例の迷惑行為だ。
その次は、王女メアリーの嫁入り道具の追加予算だった。
さらに国王の地方視察に関する資料が続いている。
二人は顔を見合わせた。
「放置しましょう」
バートが言った。
「そうしましょう」
ヘドラーも答えた。
二人は自分たちに処理できる仕事だけを片付けた。
アリスの権限が必要な書類には、一切手を触れなかった。
その結果、書類は日を追うごとに増えていった。
最初は机の上だけだった。
やがて椅子の上にも積まれ、床にも箱が置かれるようになった。
それでも、書類を運んでくる者は後を絶たなかった。
誰もアリスがいない理由を調べようとはしなかった。
休んでいる? さぼっている? 侯爵家で甘やかされている?
誰もが都合のいい理由を考え、書類だけを置いていったが、ここにあるすべてはアリスの仕事ではない。
そんな執務室に、メイナード侯爵が訪れた。
侯爵は、アリスが何日も王宮にいると思い込んでいた。
侯爵家へ戻らないこと自体は珍しくなかった。
王宮での仕事が忙しい。
王妃に引き留められた。
王太子と夕食を取った。
そのような理由で、アリスが王宮に泊まることは以前からあった。
少なくとも、侯爵はそう聞かされていた。
「アリス、いるかい?」
メイナード侯爵は軽い調子で扉を開けた。
返事はなかった。
部屋の中にも人はいない。
代わりに、部屋中に大量の書類が積み上がっていた。
侯爵は扉の前で動きを止めた。
「なんだ、これは……」
まず目についたのは、王妃の紋章が入った書類だった。
最高機密ではないが、侯爵令嬢の執務室にあるものではない。
侯爵は書類へ近づいた。
一番上にあったのは、王妃が主催する夜会の予算案だった。
細かな要望が書き込まれ、最後にアリスに計算と予算の調整を求めている。
「姉上、何をしているんだ」
侯爵が低い声でつぶやいた。
視線を隣の机へ向ける。
そこにも大量の書類がある。
見てはいけないと思った。
だが、侯爵は一枚だけ手に取った。
最初は薄目で確認した。
次の瞬間、目を見開いて内容を読んだ。
国王の書類だった。
複数の地方から集めた報告を精査し、どの地域へ予算を優先して配分するか、結論を出すように求めている。
侯爵は書類を持ったまま固まった。
「何故、これがアリスの机にある」
答える者はいない。
侯爵は別の書類へ手を伸ばした。
それは王太子エドワードと、侯爵の次女バーバラが孤児院を慰問した際の報告書だった。
寝具が古くなっているため、すべて買い直すと約束したと書かれている。
予算の計上はアリスへ任せる。
そう明記され、王太子の署名まであった。
侯爵の眉間に深いしわが寄った。
「あの野郎……勝手なことを。アリスは婚約しているだけだぞ」
吐き捨てるように言ったあと、侯爵はふと動きを止めた。
頭の中に、以前の光景が浮かんだ。
その日もアリスは、遅い時間に侯爵家へ戻ってきた。
王宮で夕食を済ませ、食後のお茶まで終えてから帰宅したのだと、侯爵は思っていた。
アリスは家へ戻るなり、バーバラへ言った。
「いい加減にして。慰問先で勝手に約束するのはやめてって言ったでしょ」
「だって、お姉様。孤児の服はどれも色あせていたのよ。髪に結ぶリボンもないの。それくらい良いじゃない。何も高いリボンを買えと言っているわけではないのよ」
バーバラは不満そうに答えた。
「わたしは予算を問題にしているの」
アリスがそう言うと、侯爵は二人の間へ入った。
「アリス、固いことを言うんじゃないよ。ものごとは柔軟に考えないといけない。要望を出せばいいんだよ」
侯爵は穏やかに諭したつもりだった。
「バーバラの優しい気持ちを大切にしてやりなさい。王妃には慈悲が必要だ。アリスはバーバラを見習ったほうがいいね」
それから侯爵は、バーバラに要望書を書かせた。
アリスへ署名するように言い、書類を手渡した。
「ほら、アリス。助かるだろう。バーバラに礼を言いなさい」
アリスは何も言わなかった。
ただ、バーバラへ静かに頭を下げた。
そのとき侯爵は、少し険悪になった姉妹の空気を和らげようとして、ことさら明るい声を出した。
「ほら、これを明日提出すればいいだろう」
思い出した侯爵の手から、書類が滑り落ちた。
(あれは、誰に提出するものだった?)
侯爵は考えた。
要望書を受け取る部署はどこだ。
予算を確認するのは誰だ。
既存の予算を組み替え、国王や宰相の許可を取りつけ、購入先を決め、孤児院へ届けるまでの手続きをするのは誰だ。
答えは、目の前に積み上がった書類が教えていた。
すべてアリスだ。
侯爵は自分の胃から冷たいものが広がり、全身が少しずつ凍っていくように感じた。
「アリス……」
侯爵は娘の名を呼んだ。自分はアリスに二人の尻拭いを押し付けたのか?
「アリス。アリス……」
侯爵は執務室を飛び出した。
向かった先は、王太子エドワードの執務室だった。
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