10 出産祝い
10 出産祝い
港町を出発した馬車は、石畳の街道を心地よい揺れとともに進んでいた。
窓の外には青々とした麦畑が広がり、その向こうには緩やかな丘陵が続いている。時折、小さな村が見え、煙突から立ち上る白い煙が穏やかな暮らしを感じさせた。
馬車の中では、アレクが書類を閉じてアリスを見た。
「今日は一日、馬車での移動だ。時間もあるし、今回の用事を話しておこう」
「はい」
アリスは姿勢を正した。
「メモを取ってもよろしいでしょうか」
「ああ、もちろんだ」
アリスは嬉しそうに鞄から小さな手帳とペンを取り出した。
膝の上へ丁寧に置き、準備が整う。
「いつでも大丈夫です」
その様子を見て、アレクは思わず笑った。
「本当に真面目だな」
アリスは少し照れくさそうに微笑んだ。
「教えていただくことは、きちんと記録したいので」
「それじゃあ話そう」
アレクは窓の外へ一度視線を向けてから話し始めた。
「今回の目的は、俺の叔母の出産祝いだ」
アリスのペン先が紙の上を滑り始める。
「叔母は前皇帝陛下の妹だ。ビザン帝国の王子へ嫁いで、公爵夫人になっている」
そこまで書いたところで、アリスの手が止まった。
「……叔母様?」
ゆっくり顔を上げる。
「前皇帝陛下の妹……ですよね?」
「そうだ。俺の祖父の遅く生まれた娘だ」
「失礼ですが……その、おいくつなのでしょう?」
「二十歳だったかな」
今度はアリスが固まった。
「……え?」
思わずアレクの顔を見る。
「では……アレク様は?」
「二十八だ」
「に、二十八歳!?」
思わず大きな声が出てしまった。
アリスは口を押さえ、慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございません!」
アレクは豪快に笑った。
「いや、驚いていい」
笑いながら肩をすくめる。
「もう落ち着いている年だが、ふらふらしている」
「自覚はあるんですね」とデイビスが笑いながら言った。
ラズベリーとアリスは顔を見合わせてくすっと笑った。
「ああ。父から『祖父に赤ん坊が生まれた』と聞かされてな、最初は耳を疑った」
デイビスも思い出したように笑う。
「私もその場にいましたね」
「いたな」
アレクは苦笑した。
「父も呆然としていたし、母も『まあ……』と固まっていた」
「だが」と少し表情を柔らかくする。
「生まれてきた子に罪はない」
「はい」
「だから家族みんなで可愛がって育てた」
自然と優しい笑みが浮かぶ。
「小さい頃は俺にもよく懐いていたよ」
「素敵なお話ですね」とアリスも微笑んだ。
「ただ……」
アレクは少し困ったように笑う。
「王女としての教育は、あまりできなかった」
「どうしてでしょう?」
「皆、甘やかした」
その一言にデイビスが吹き出した。
「否定できませんね」
「だろう?」
アレクも笑う。
「それで嫁いだ相手が、ビザン帝国の第六王子だ」
「第六王子様ですか」
「庶子だから王位継承とは無縁だし、後ろ盾もほとんどない」
「政略結婚ではないのですか?」
「いや」
アレクは苦笑する。
「恋愛結婚だ」
アリスは驚いて目を丸くした。
「何人かの候補を城に招いて、交流させたんだ。とても外に出せる娘じゃないから、手元にずっと置くつもりで、そしたら、そいつと仲良くなってな。しかも婚約と同時に子供ができた」
「えっ!」
「俺たちは驚いたが……本人たちは幸せそうだった」
「では、祝福されたのですね」
「もちろん」とアレクはうなずく。
「皇国で暮らすという話だったが、ビザンの方の母親が危篤だと言われてな。二人でビザンに渡った。叔母の体が心配だったが離れたくないとか言って……母親に会えたそうだし、子どもも無事に生まれた。よかったよ」
アレクは少し黙ったが、「外へ出さずに、自分たちの目の届くところへ置いておきたかった」
「そうでしたね」とデイビスが言った。
「向こうの家も同じだったってことだな」
「王子を手放したくなかったのですね」
とアリスが言った。
「そういうことだ」
アレクは肩をすくめる。
「だから今回は、俺が祝いに行くことになった」
アリスは素早く書き留める。
「赤ちゃんのお顔を見たら、すぐお帰りになるのですか」
「そこなんだが、アリスのことになる。アリスのことで王国に話をしに行こうと思う。アリスも一緒だ」
アリスはアレクの目をじっと見た。
「アリスは帝国の文官だ。その身分は確定している。だから、俺はやつらに言ってやりたいことがある。どうだ? アリス。嫌味の一つも言いたくないか?」
アレクはにやりと笑った。
「だが、せっかくビザン帝国まで来たんだ。少しくらい観光もしたい」
「観光ですか」
「市場も見たいし、劇場にも行きたい。食べ物も」
アリスが笑う。
「いいですね」
「そうだ。帝都は楽しそうだ」
アレクも笑った。
「その間、アリスには仕事を頼む」
「はい」
「買った土産の整理と旅の日誌をまとめてもらいたい」
「承知いたしました」
「俺の見えるものと、君の見えるものは違う」
アレクは真剣な表情になる。
「だから、女性だから気付くこと。王太子妃教育を受けた令嬢だから気付くこと。そういうものを書き残してほしい」
アリスは胸に手を当てた。
「精一杯務めさせていただきます」
「期待している」
その一言が嬉しくて、アリスは自然と笑顔になった。
少し考えてから尋ねる。
「帝都では図書館へ行ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
アレクは即答した。
「欲しい本があれば、買って帰ろう」
「本当ですか!」
ぱっと顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「そんなに本が好きか」
「はい!」
迷いのない返事だった。
「知らないことを知るのが好きなんです」
その言葉に、アレクとデイビスは顔を見合わせて笑った。
「なるほど」
「だからあんなに勉強熱心なんですね。」
デイビスが納得したように頷いた。
昼になると馬車は街道沿いの宿場町へ立ち寄った。
簡単な昼食を取り、アリスは外へ出て辺りを見回した。
行き交う人々の服装はまちまちだ。
露店には見たこともない果物や香辛料が並び、焼き菓子の甘い香りが風に乗って流れてくる。
その中に、時折見慣れた服装の人々も歩いていた。
これほど多くの人が行き来しているということは、周辺の国の交流は思っていた以上に盛んなのだ。
(わたくし……何も知らなかった)
アリスは胸の内で呟く。
王太子妃教育で周辺諸国について学んだ。
地図も歴史も外交も覚えた。
けれど、それだけだった。
人々はどんな表情で歩くのか?
何を食べ、何を話し、何を大切にして暮らしているのか。
そういうことは、一度も教わらなかった。
知識は執務室で使うものばかりだった。
(本当の国は、こうして歩かなければわからない)
そんなことを考えていると、自然と思い出した人物がいた。
メアリー。王女だ。
来月には海を越え、メニリーフ王国へ嫁ぐ。
王女である自分が貴族へ嫁ぐのは嫌だと泣いて訴え、国王夫妻は苦労して王家との縁談を整えた。
けれど、メアリーは嫁ぎ先について何一つ学ぼうとはしなかった。
アリスは一度だけ、
『向こうの先生をお招きして学ばれてはいかがでしょう』
と進言したことがある。
返ってきた言葉は短かった。
『必要ない』
その一言だけだった。
(……もう関係ない)
アリスは静かに息を吐く。
(わたくしが心配することではない)
馬車は再び走り出し、夕暮れ前にはビザン帝国の帝都へ到着した。
高い城壁と広い石畳の大通り。
華やかな店々。
王都とはまた違う活気に満ちている。
一行は宿泊するホテルへ入り、それぞれ旅装から着替えた。
「それじゃあ行ってくる」
アレクは上着を整えながら言った。
「今日は王宮への挨拶だけだ」
「承知いたしました」
「退屈だったら街へ出てもいいが」
アリスは首を振る。
「いいえ、窓から町を眺めているだけでも楽しそうです」
その答えにアレクは笑った。
「君は本当に変わっている」
「そうでしょうか。」
「普通の令嬢なら宝石店へ行きたがる」
「わたくしは町を見るほうが好きです」
「なら、帰ってきたら感想を聞かせてくれ」
「はい」
アレクが部屋を出ていくと、アリスは大きな窓辺へ歩いた。
夕日に染まる帝都の街並み。行き交う人々の見慣れない服装。
漏れ聞こえてくる異国の言葉が耳に心地よい。
それらを眺めているだけで、新しい世界が目の前に広がっていくようだった。
アリスは退屈することなく、その景色をいつまでも眺めていた。
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