知らせ
十二月二十四日、午後四時五十分。予約していた駅前のレストランの店先で彼女を待っていた。
早めに着きすぎた。腕時計を二度確かめ、彼女が編んでくれた濃紺のマフラーを巻き直した。編み目の下に、首の側の体温が残っていた。
コートの内ポケットの右に手を入れた。紙の袋の中の白地に紺の紐のお守りを指の腹で一度確かめた。今夜、渡すつもりだった。
店先に電飾が点り始めていた。遠くで、誰かが歌う声が低く流れていた。聞き取らないままにしておいた。
朝の彼女からのメッセージが、電話の画面に残っているはずだった。
『今日は薄いベージュのコートで行きます。見つけてくださいね』
『あなたの声が聴きたいな』
——あと、十分。頭の中で数えた。
***
五時を少し前の頃、駅前の交差点の方角から、急ブレーキの音がした。続いて鈍い衝突音、女性の悲鳴。
身体が止まった。指先が紙の袋の角に当たったまま動かなくなった。
——詩織さんは、もう、向こうから来ているはずだ。
足が先に動き始めた。歩いて、いつの間にか走っていた。マフラーの端が顎の下で揺れた。
すれ違う通行人の声が、断片的に耳に入った。
「子どもが、車道に飛び出して」
「あの女の人、押し戻して、自分が代わりに……」
「ベージュのコートの……」
朝のメッセージの一行が頭の中で立ち上がった。コートの色を含む一文の上に、噂の言葉が重なった。
——違う、別の人だ。
組み立て終わる前に、足が先に交差点へ着いていた。
***
救急車は既に到着していた。回転灯の赤と青が夕暮れの中で点滅していた。警官が規制線を張りかけていた。人だかりの後ろから押し入った。
「すみません」
人の肩の間から、規制線の内側を覗き込んだ。
薄いベージュのコート。右の頬の薄い影。後ろでひとつに結んだ髪。胸の前で、左手の指が揃えられていた。本を整えるときと同じ角度で。揃ったまま、動かなかった。
——詩織だった。
喉の奥で空気が止まった。指先が、自分のものではないように冷たくなった。
右手が、コートの裾のあたりで、ひとりでに動いた。机の上のノートの角を、左上から右下へ揃えるときの、あの動きだった。指の腹が、何もない空気を、一度、揃えにいった。揃えるものは、なかった。動きは半分のところで止まり、そのまま宙に残った。止め方が、わからなかった。
一歩、規制線に踏み込みかけて、警官の腕に止められた。
「関係者の方ですか」
「——彼女、です」
自分の声ではなかった。
警官が視線をわずかに強くし、無線に短く何かを言った。
「ご一緒に救急車に」
規制線の内側、処置中の身体の脇に膝をついた。意識はなかった。呼吸はかすかだった。ストレッチャーが救急車に移された。サイレンが始まった。
ご家族には警察から連絡が行く、と告げられた。
サイレンの中で、詩織の左手の指に、自分の指を一度だけ触れさせた。
温度は、思っていたよりまだ近かった。
***
廊下の奥は、思っていたよりも遠かった。ストレッチャーが両開きの扉の向こうへ消えてから、ベンチに座らされた。脇の壁に手のひらを預けた。冷たさだけが指の付け根に残った。
三十分ほどで詩織の母親が到着した。詩織と肩の角度、結び目の高さが、同じだった。
「あの、瀬戸です」
「——あの子から、お名前だけは」
落ち着いた声の語尾だけが、ひと粒早く落ちた。
母の右手が左の手の甲を包み直した。指の節がわずかに白くなった。扉に視線を向け、また膝の上に戻した。扉が閉じている、というだけで、さっき指先に残った温度が遠くなった。
——あの扉の向こうに、桜井さんはいる。
「いる」が、うまく立ち上がらなかった。
一時間ほど並んで座っていた。一度、内ポケットに手を入れた。紙の袋の角が指に当たった。これを渡すはずだった——口には出さなかった。
扉が開いた。医師が出てきた。母が立ち上がった。掴みそこねたまま半分だけ腰を上げて止まった。
「お手当てを致しましたが——」
続きは出なかった。出ないまま、語尾の落ちる速さの中にその一語が置かれていた。
母の膝が、ベンチの縁にもう一度ついた。
ポケットから取り出した電話が一度振動して止まった。新着はなかった。画面にまだ、朝の彼女からの一行が残っていた。
『今日は薄いベージュのコートで行きます。見つけてくださいね』
そのメールに、僕はまだ返せていなかった。
内ポケットのお守りは、依然としてそこにあった。




