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机の上

本を受け取った日から、数日が過ぎていた。


朝、お茶を淹れた。やかんの底が低く息をつく音が、台所の壁に薄く反射した。リビングの机に本があり、表紙の縁に朝の光が薄く降りていた。一日、また一日と過ぎた。


平日の夕方は変わらず病室に通った。街路樹の枝先まで紅葉は散っていた。冬の入口の風が、駐車場のアスファルトの上で乾いた音を立てるようになっていた。彼は目を開けなかった。シーツの上の手の位置も、毛布の襟の合わせ目も、昨日と同じだった。丸椅子に座って一時間、睫毛の影が頬骨の上で動かないのを見ていた。椅子の硬さが太腿の裏に薄く残り、その硬さの方へ、思いの輪郭がほどけて流れていった。


玄関の鍵を回し、靴を脱ぎ、廊下の明かりをつける。机の上の本の表紙の縁が、視界の端で、いつもの場所にあった。


***


ある夜、母から電話があった。鞄を置き、コートをハンガーにかけて、台所の隅の固定電話の受話器を取った。受話器の樹脂は部屋の温度よりわずかに冷たかった。


「もしもし」

「あ、詩織? 今、大丈夫だった」

「うん。今帰ってきたところ」

「ごめんね、夕飯前に。すぐ済むから」

「うん、大丈夫」


父の薬の処方の話、町内の集会の日取りの話、それから少し間があって、


「年末、帰ってくる?」


と母が訊いた。


「うん。お正月、帰るね」

「うん。待ってるよ」


受話器を置きかけて止めた。きっかけはなかった。ただ、声の終わりの間に何かが薄く挟まった。


「お母さん」

「うん?」

「あのね。……前に、話したでしょう。お付き合いしてた、人」


受話器の向こうで、母が小さく頷く気配がした。


「梅雨の頃に、倒れたの。外で。原因がわからなくて。……まだ、目を覚まさないの」


自分の声が、台所の暗がりに思ったよりも乾いて落ちた。一度別れた人だ、と言うべきなのか、それでも通っている、と言うべきなのか、どれもが少しずつ違う気がして、何も付け加えなかった。


母はすぐには答えなかった。受話器の向こうの息の音がふだんより少しだけ長く聞こえた。


「そう」


とだけ、母は言った。それから、もう一度、


「そう」


と言った。問い返しはなかった。いつ、どこの病院で、どんな具合で、そういうことを母は一つも訊かなかった。代わりにしばらくの間があって、


「詩織」


と、私の名前をふだんよりも少しだけ低い声で呼んだ。


「……あんたが決めることだから、お母さん、口は出さないけどね」

「うん」

「次の人を見つけるっていうのも、……あるからね」


受話器を持つ手の関節が、わずかに固くなった。責める声でも、突き放す声でもなかった。母がその一言を、ずいぶん前から胸の中で温めていたような言い方だった。誰かに同じ言葉をかけられたことのある人の声にも、ふと聞こえた。


「うん」


私はそれしか言えなかった。


「ごめんね、こんなこと言って」

「ううん」

「お正月、待ってるから」

「うん。帰るね」


受話器を置いた。家の中の静けさがいつもより一段だけ厚くなった。


仏壇の脇の桐箱の輪郭が、ふと頭の隅をかすめた。なぜ今浮かんだのかは、分からなかった。母の声の温度だけが、箱の薄い木目の縁に重なった。蓋の下に何があるのかを、私は知らない。明かりを一段だけ落とした。


***


初冬のある夜、いつものように机の前に座った。机の上に本があった。布張りの表紙の色褪せた縁を、しばらく見ていた。あの人の部屋の机に、ずっと置かれていた本。上角の布の擦れが、灯りの下で毛羽立っている。指先を伸ばしかけて、表紙の手前で止めた。爪の白い縁と布のあいだに、薄い影の幅が残った。


明日開こうか、と思いかけた。けれども、その「明日」を、私はまだ自分の手帳のどのページにも書き込めなかった。決めなかった。


立ち上がった。少しだけ足元がふらつき、机の縁に手を添えてから台所に向かった。やかんに水を入れて火にかけた。青い炎が底の銅色を低く舐めた。湯が鳴り始めるまで、台所の壁の白を見ていた。考えるべきことの全部が、薄い膜の向こうに順序よく並んでいた。私はその膜のこちら側で、ただ湯の音を聞いていた。


沸騰の音が立ち上がった。火を止め、急須に茶葉を入れ、湯を注ぎ、小さく回した。湯気が灯りに向かって細く立ち上った。


カップを両手で運び、机の上の本の脇に置いた。


湯気が立ち上っていた。


湯気の向こうに、本があった。


——()()()、開く。


その「いつか」がいつなのか、私はまだ決めていなかった。


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