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本が返る

十月の夕方だった。病室の窓の外で、街路樹の枝がわずかに色を変え始めていた。扉を引いて入ると、椅子の脇でお母様が洗濯物を畳み終えた紙袋の口を揃え直していた。


「あ、桜井さん」

「お疲れさまです」

「桜井さん、あの」


とお母様は椅子の背に片手を預けた。


「あの子の部屋、そろそろ少し片付けようかと思っていまして。家賃もずっと払っていますし、夫がいったん引き払おうかと言うものですから。あの子が目を覚ましたら——また借りればいい話、なんですけど」

「ええ。もちろん」

「片付けていて、桜井さんからお借りしていたものが出てきたら、お返ししたいんです。何か心当たりがあれば」


私はしばらく考えた。本のことが浮かんだ。


「ええと、一冊、本を貸していました。もうずいぶん前のことなんですけど、返してもらえずにいて」

「タイトルは、覚えていらっしゃいます?」

「祖母の形見の本で。古い本なんですけれど」


そう答えたとき、仏壇の脇の桐箱の薄い木目が、一瞬だけ視界の隅をかすめた。蓋の上の和紙の畳み目の角を、母の指が直していくのを、ずっと見てきた。中身のことを私は訊かなかったし、母も話さなかった。次の呼吸に進んだ。


「片付けの時に、探してみますね」


とお母様が言った。私は頭を下げた。


病室を出ると、街路樹の枝が夕方の光の中で薄い橙を立てていた。アスファルトの上に銀杏(いちょう)の実の匂いが薄く層になっている。


一週間が過ぎた。変わらず夕方の電車に乗り、四〇八号室の引手を引いた。街路樹は橙から紅へ、紅から暗い色へと移った。十月の終わりの風は、首筋で少し冷たくなった。本のことは、お母様からまだ何の連絡もない。私の方からも催促はしなかった。


***


十一月のある平日の夕方だった。四〇八号室の扉を引くと、椅子の脇にお母様が立っていた。腕に薄いグレーのコートを畳んで掛け、足元に紙袋がひとつ置いてあった。


「あら、桜井さん」

「お母様。来ていらしたんですね」

「先日お話していた本が見つかりましたので、お渡しに、と思って。桜井さんの来られる時間に合わせて、少し早めに伺いました」


ベッド脇の台に紙コップがひとつ置かれていた。さっき看護師さんが置いていったお茶なのだろう、湯気はもう立っていない。お母様はそれを両手で持ち直した。湯呑みのように、紙コップの底を、両手で包んだままだった。


それから腰をかがめて紙袋から本を取り出し、表紙を私の方へ向け直して差し出した。古い布張りで、縁の色が薄く褪せている。祖母が何度もページの角をめくった、あの本だった。両手で受け取った。思っていたより少し重かった。


「ありがとうございます」

「あの子の机の真ん中に、ずっと置いてあったんです。他のものはちゃんと棚や引き出しに整理してあるのに、これだけは。だから、すぐ、桜井さんのものだって分かりました」


お母様はベッドの方に一度目をやって、それから私の顔の高さに目を戻した。視線はすぐに上着の襟の合わせの方に降りた。


「桜井さん、あの」


言葉の先が病室の白い明かりの中で一度宙に止まった。お母様はそれを続けなかった。


「——いえ。本当に、ありがとうございました」

「では、私はこれで」


扉が静かに閉まり、薄いグレーのコートの背中が廊下の奥へ消えた。丸椅子をいつもの位置に置き、本を膝に乗せたまましばらく座っていた。右手の指の腹を、彼の左手首の脈の真上に当てる。脈は今日も規則正しかった。窓の外で街路樹の枝が、暮れの光を細く透かしていた。本の重さは、膝の上で動かなかった。


一時間が過ぎて病院を出た。電車に乗り、最寄りの駅で降り、夜の道を歩いた。鞄の中で本の角が、布越しに腰のあたりに当たっていた。


玄関の鍵を回し、靴を脱いで(かかと)を揃えた。リビングの机に本を置いたが、開かなかった。開ける、その動作の手前で指が滞った。開いてしまえば、彼との関係が()()()()()()()。いつか開く、でも今日は開かない。布の褪せた表紙の縁に、明かりが薄く降りていた。机の手前から、しばらくそれを見ていた。


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