先輩
雨の翌週の夕方、ひとつ上の名前から短いメッセージが届いた。
『久しぶり。元気にしてる? もしよかったら、お茶でも』
藤村先輩。学部時代から同じゼミにいた数学年上の先輩で、いまは同じ大学の大学院の博士課程に進んでいる。年に何度か、ゼミの研究会や追いコンで顔を合わせる距離にずっといた。詮索する声色は、行間のどこにも乗っていなかった。
『はい。よかったら』
ひと言だけ返した。
***
駅から二駅離れた、古いビルの二階の喫茶店だった。木の窓枠が陽に焼けて、奥のレジの脇にだけ古いタイプの真鍮のランプが点いている。店の奥の窓ぎわで先輩が席を立ち、軽く片手を挙げた。
「卒論、もうすぐ提出?」
「はい。来月の頭です」
「そっか。じゃあ、いちばん、きつい時期だ」
控えめな笑い方だった。運ばれてきた水のグラスを置いた跡が、木のテーブルの上に小さな円を残している。先輩はおしぼりを使う前に、手の甲でその水滴を一度、無造作に拭いた。コーヒーをひと口含み、カップをソーサーの中央に戻す。取っ手の向きが、自分の指で持ちやすい角度にきちんと揃えられていた。
「桜井さん。立ち入ったこと、聞いていい?」
私は湯気の上がるカップに視線を落とした。左手首の腕時計の文字盤を、右手の指の腹で一度だけ撫でた。言葉が、出てこなかった。
「いや、忘れて」
とだけ、先輩は返した。窓の外の街路樹の梢を、しばらく目で追っていた。砂糖壷から角砂糖をひとつだけ取り、カップの縁にそっと沈めて、スプーンの背で押さえる。音は立たなかった。
「桜井さんが、よかったら」
視線が戻ってきた。
「また、こうしてお茶くらい、付き合ってもらえないかな」
言葉の終わりが、ほんのわずか、宙に残った。
カップの底の温かさが、両手のひらの内側にだけ留まっていた。
顔を上げた。
「藤村先輩、ごめんなさい」
言った声は、思っていたよりまっすぐ出た。
「私、まだ前を向けないんです」
先輩は、頷きもしなかった。表情も変えなかった。
「そっか。謝らなくていいよ。気が向いたら、また連絡して」
先輩はテーブルの上の伝票を、字の向きを自分のほうに揃え直してから取り上げた。会計は先輩が先に立って済ませた。私が鞄に手を伸ばすより、わずかに早かった。
***
駅の改札の前で、
「じゃ、僕、こっちなので」
と、先輩は片手を軽く挙げた。背中は上りのエスカレーターの黒い帯のなかへ、振り返らずに紛れていった。私はその場で短く頭を下げ、反対側の階段を一段ずつ下りた。




