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知人の距離

一月の下旬から二月のなかばまでの四十日に、彼と顔を合わせたのは三回。そのうち二回は私の方から声をかけた。


一度目は駅前の書店で偶然だった。文庫の棚を抜けた先の物理の専門書のコーナーに長身の背中が見えて、廻ろうとした間に彼の方が顔を上げた。視線が合うまでに半呼吸ぶんの遅れがあった。半年前なら、私を認めた瞬間に目尻がほんの少しだけ細まったはずだった。今日はそれが、なかった。新刊、駅前の工事、二月から始まるドラマ。知らない人とでもできる話題で、五分の立ち話で別れた。


一月末の風に肩を入れた。半年前の彼は、忙しくても必ず自分から連絡をくれていた。


——でも。


二度目は、その三日後のメッセージだった。


『最近、どうしてる?』


ひと言を送るまでに十分かかった。返信は八分後。


『元気だよ。研究忙しいけど、まあまあ』


『またご飯でも』


『うん、また連絡するね』


その「また」は来なかった。窓の外、街路樹の裸の枝に、冬芽のごく小さなふくらみが、目を凝らさなければ気づかないほどに乗りはじめていた。


***


翌々日の夜、もう一度、入力欄を開いた。


『ねえ、瀬戸さん。私のこと、いつから』


そこまで打って、指が止まった。


あの夜の彼の声が、頭の中の遠いところで再生されはじめる。クリスマスイブの前夜、私の部屋で、文庫を閉じる手が止まって、「あの、図書館で、肩に、桜の花びらが付いていて」と、桜の花びらの春から完全に覚えていてくれた、あの声。


いま、同じ質問を送ったら、彼は……。


——たぶん、ちゃんと覚えてる。

——でも、答える声は、もうあの声じゃない。


答えがどうなるか、わかっていた。


だから、訊けなかった。


打った文字を、一字ずつ、後ろから消した。全部消えた入力欄を、しばらく見ていた。画面を消した。携帯を伏せた。伏せた手の甲の上で、自分の息が一度、長く吐かれた。吐ききったあとに、次を吸う合図が、なかなか来なかった。


——私の側で、もう、ふざけられない。

——彼の側でも、もう、ふざけ返してくれない。


ようやく一度だけ、心の中で言葉にした。


***


翌週、ゼミ室の片隅で院に進んだ年上の先輩と並んだとき、


「彼氏さんとは、最近どう」


と聞かれた。


「ああ……なんか、自然に冷めたみたいで」


と答えた。声が思っていたよりも平らに出た。それ以外に説明のしようがなかった。先輩は、そう、とだけ言って、それ以上は聞かなかった。


その帰り、廊下の角を曲がろうとして足を止めた。掲示板の前で、知らない女の子が二人、声をひそめて話している。


「物理学科の早瀬さんが言ってたんだけど、瀬戸先輩、桜井さんと別れたらしいよ」


「えー、お似合いだったのにね」


角の手前で、上履きの先だけが止まっていた。聞いてはいけないものではないのに、出ていく機を逃した。二人の足音が遠ざかってから、もう一度歩きだした。誰の耳にも届いている、ということだけが頬の奥に薄く残った。


***


三度目は夜の電話だった。二月に入って、クローゼットの奥から長袖を一枚引き出した夜、袖口の縫い目が手首にひんやり当たった。ベッドの縁で画面の名前を見て、一度立ち上がり、水を一杯飲んでから、かけた。三回目の呼び出し音で彼は出た。最近の読書、卒研、それからもう一度、卒研。話題が同じ場所を二度通ったとき、彼は気づかなかった。


「ごめん、僕、明日早いんだ」


「あ、はい。ごめんなさい、長くなって」


切ったあと、掌に四角い縁の冷たさが残った。


——疲れているんだ。


と、自分に言いかけて、止めた。疲れているのと、興味がないのは、声の出方が違う。いつもの「でも」を、今度はうまく続けられなかった。


***


翌々日、図書館を出ると雨だった。濃い灰色の長傘を開くと、柄に結ばれた麻紐のタグが指の腹をかすめた。二月の冷たい雨は、一月末の通り雨と違い、落ちてくる粒に温度がない。アスファルトの匂いも、紙のような乾いた匂いに変わっていた。街路樹の根元に貼りついた葉一枚、葉脈が街灯で透けていた。


春の終わりに彼と一本の傘で駅まで歩いた日のことを、思い出しかけて、思い出す前に扉を閉じた。


——彼の側から来ることは、もう、ない。


四十日のあいだ何度も浮かんでは否定してきた一文を、今夜は否定できなかった。信号が青に変わった。傘の角度を直して、横断歩道に踏み出した。窓の外で、二月の冷たい雨が降りつづけていた。


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