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12/20

読み直し

金曜日の昼下がり。桜井さんはこの時間、長コマのゼミのはずだった。曜日と時間の表をいつから頭の中に置いていたのか、もうわからなかった。


自動ドアをくぐると、木の床がかすかに軋んだ。三階の窓側の四人がけの机に、いつもの彼女はいなかった。ベージュのカーディガンも水色のカードケースもなかった。「桜井さんの居ない」場所を歩くことに、何周回しても慣れなかった。靴の音だけが奥までついてきた。


***


民俗学コーナーの前で立ち止まった。上から二段目、左から七冊目。布張りの背に指が届いた。引き抜いた。表紙の左下の角に小さな丸い染み。家の机の、彼女から借りた本にも同じ場所に染みがあった。大きさも色の濃さも違った。


——別の一冊だ。


同じ書名の本は世の中にいくらでもあった。


『東日本口承伝承』。


窓側の机に座って開いた。第八章、二、東北地方の口承に見る取り戻しの語り。あの夏祭りの夜、彼女の声が並べた一節が、いま紙の上で乾いた活字になって待っていた。今度は閉じなかった。


愛する者を運命から取り戻すには、二つの心から、その者の面影を消し去るしかない。


二度、読んだ。三度目は、神社の苔の色を思い出しながら読んだ。


***


同じ頁の下に、補注が二段組で置かれていた。指の腹を活字の縁に当てたまま、目だけで降りていった。「二つの心」には表記の揺れがある、とあった。ふたごころと読めば、仏典や和歌にある、一人の中で二つに分かれた心のこと。理性と願い、諦めと執着。補注はその一行だけを置き、それ以上は決めていなかった。


神社のベンチで彼女が静かに続けたときの視線の落ち方が浮かんだ。


——そう読むんですね。私は二人の心と読んでました。


補注の小さな明朝の活字の上に彼女の声が重なった。決めていない補注と、決めていた彼女の声を机の上に並べた。頁の縁を押さえた指が、知らないうちに紙の角を撫でていた。


——僕の中の、二つ、なのか。

——僕と彼女の、二つ、なのか。


窓の外で枯れた葉が短く鳴った。


——考えても仕方がない。これは、選べる話じゃない。どちらにせよ、僕の方は()()()


底にひと粒残る声があった。彼女のいう二人の心の方が近いのかもしれない——その声は決めずに置いた。決めても決めなくても、できることは一つだった。


ただ、一つ気がかりだった。一つ目の読みなら、彼女の中に僕への想いは残る。残ったまま、彼女は空白になった僕を抱えることになる。


——彼女へ、別れを伝えたい。


そう、思った。


***


——伝えるなら、どう残せばいい。


事故の前に直接伝える——それも、まともに取り合ってくれないことは立証済みだった。ノート、と思った。書いたものは戻れば書かなかったことになる。けれど、戻らなければ現在でもノートは白紙になっていない。だから、紙に書いて渡せばいい。


——どこに残せばいい。


家の机の像が浮かんだ。布張りの古い本。二十三日の夜に「祖母が大切にしていた本なんです」と差し出された一冊。表紙の書名はかすれて読めなかった。


——あの本に挟めばいい。


確信ではなかった。ただ、紙の凹みと机の上の本の重さが、頭の中で短い線で繋がった。形見の本。返さないわけにはいかない一冊。いつか必ず、彼女の手に戻る。


神社へ行く。祈る。戻った時間の机の前で、本に挟む形で書く。そのあと、交差点へ行って救い出す。順序はそれだけだった。


——すべきことが決まった。


受付の脇を通り抜けた。自動ドアの外側に、年の瀬の乾いた冷気が立っていた。


——僕の側を消す。それで、彼女は戻る。


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