反復
最初に試したのは、ありのままを話すことだった。
朝、起き上がってすぐ電話をかけた。三度の呼び出し音のあと、寝起きの低い声で「もしもし」と聞こえた。今日の夕方の前に、少しだけ話しておきたいことがある——うちの近くの、いつもの喫茶店で、午前中に。彼女は短く間を置き、「わかりました」とだけ言った。
喫茶店の窓際で向かい合い、両手の指を組んだまま、順序立てて話した。今日の夕方、交差点で君は車に撥ねられる。僕は一度、その先の時間まで行って、戻ってきている。
突拍子もない内容ほど声色で揺らしてはならない——自分の声が平らになっていくのが分かった。
彼女は組んだ手のあたりに視線を置き、最後まで黙って聞いていた。途中で水のグラスにひと口、氷の音がした。
「——透くん、最近よく眠れていますか」
咎める声でも怒っているのでもなかった。ただ心配していた。それが一番こたえた。
「眠れてる」
「そうですか」
「信じてほしい」
「——はい」
はい、の前にわずかな間があった。信じていないことを悟られないように置いた間だった。
別れ際に彼女は「夕方、気をつけて向かいますね」と言った。その日の夕方、彼女は気をつけたまま別の道で別の事故に遭った。
——口頭では届かなかった。届いたのは、心配だけだった。
***
次の周回、朝八時二分に目を開けた。布団の縁を一度握った。机の引き出しの一番上に、お守りは紙の袋に入ったまま、置いたままの位置にあった。取り出してコートの内ポケットの右に入れた。
午後、交差点へ向かった。
五時前から西側の植え込みの陰に立った。向こう側の横断歩道の手前に、薄いベージュの色がひとつ立った。信号が青に変わった。彼女が最初の一歩を白線の上に置いた。同じ瞬間、こちら側の歩道の角で、紺の上着の小さな背中が走り出した。わずかに遅れて母親らしき女の声が短く名前を呼んだ。半歩で出て、走り抜けようとする胴を両腕ですくい上げた。子どもの足が宙で空転した。
その背後で、青信号を無視した灰色の塊が交差点に入ってきた。急ブレーキ、続いて鈍い音。横断歩道の真ん中あたりで、薄いベージュの色が宙に投げ出された。
腕の中の子どもは無事だった。母親が走り寄ってきて、何度も頭を下げながら子どもを受け取った。受け取られたあとも、両腕の内側だけが熱かった。
——救えたのは、僕が救うべきだった人ではなかった。
その夜、病院の廊下に立った。両開きの扉が、前と同じ角度の母の小さな背中の向こうで、開いた。医師の語尾の落ちる速さの中に、前と同じ一語が置かれた。長椅子の背に背中を預けたまま、天井の四角い蛍光灯の継ぎ目を、しばらく見ていた。
——形を変えても、来た。
***
次の周回、朝のうちに電話で部屋に呼んだ。「クリスマスイブだけど、外、寒くて。うちで、ゆっくり過ごしませんか」。口実はそれだけだった。彼女は紙箱を台所の隅に置いた。冬の意匠の上生菓子が二つ。月に一度の習慣なのだ、と付け加えた。前の周回では同じ紙箱が三つ入りだった——記憶の側のずれなのか、彼女の側の小さな選び直しなのか、確かめる手立てはなかった。
米を炊き、夕飯を作った。窓際の床に座って文庫の頁をめくる横顔だけで、たぶんいちばん覚えている時間だった。台所の壁の時計の長針が真上を回り、五時を越えた。彼女は気づかないまま頁を繰り、湯気の立った椀の縁に頬の高さを寄せた。交差点の方角から、急ブレーキの音は来なかった。
——越えた。
日が暮れきってから、「そろそろ帰りますね」と肩にトートをかけ直す彼女に、引き留める言葉を持っていなかった。玄関で見送り、コートの背中が階段の角で消えるまで見ていた。
その夜遅く、電話が鳴った。お母さんの声が「車に撥ねられて」と「亡くなりました」を続けて出した。受話器を持っていない方の手で、流しの縁を握り直した指の腹に、袖口の縫い目の硬さが一点戻ってきた。
——五時は、越えた。越えたあとに、来た。
***
——別れる、ということもある周回で試した。離れれば、僕の知らないところで彼女は静かに生き延びるのかもしれない。
朝、戻った直後に電話をかけた。呼び出し音が三度鳴り、寝起きの低い「もしもし」が落ちた。
「ごめん。もう、会えない」
「——どうして、ですか」
問いの語尾が上がりきらないまま、回線の向こうで止まっていた。
「理由は、言えない」
「——わたし、何かしましたか」
「ちがう。君は何もしていない」
一拍の沈黙が置かれた。布のこすれる音もしなかった。
「——わかりました。お元気で」
最後の母音はほとんど吐息になっていた。通話が切れた。受話器を置いた手が、自分のものではない速さで机の縁を一度押した。押し返してくる木の硬さだけが、確かにそこにあった。
翌日、交差点には行かなかった。一日が過ぎ、二日が過ぎた。四日目の夜、お母さんから電話が鳴った。「踏切」と「亡くなりました」が続けて出た。「四日前に別れた」とは言わなかった。通話を終えてからも、膝の上の自分の手の甲を見ていた。
——僕の不在も彼女を生かさなかった。
***
何度目かはもう数えていなかった。日を変え、場所を変え、形を変えても、結末は同じ場所に着いた。覚えていることが一番つらかった。
一度、メモを取ろうとした。交差点。踏切。そこまで書いてペンを止めた。翌日、ノートは無地のままもとの位置に揃って入っていた。お守りも十一月末から置いてある位置にある。何度繰り返しても、彼女が笑っている時間が増えるだけで明日は来なかった。
どの彼女も、もういない。
——彼女が薦めてくれた本のことが、頭の隅に置かれていた。言い伝えを語ってくれた声と、その本の活字の小ささがひと並びになっていた。




