第3話 ロティ・スマート
その店は、ある日、駅前にあった。
工事の囲いがいつ立ったのか、美月は思い出せなかった。囲いが取れたとき、建物は、前からそこに建っていたような顔で、白く立っていた。
ロティ・スマート、と看板に書かれていた。
ロゴの下に、小さな字で「無人運営/二十四時間営業/全皿ワンコイン」と並んでいた。入口は自動ドアで、ガラスの向こうに、銀色のアームが見えた。アームは、フライパンを持っていた。
アームは、卵液を流し込み、撹拌し、火を弱め、皿に滑らせるまでを、迷いなく完遂していた。美月が銀杏亭の土間で、ようやくマットの二歩手前を見るようになるまでに、一年半かかった。アームは、その動作を、最初からそこにあったものとして、繰り返しているように見えた。
美月は、その朝、開店前のその店の前で、二分ほど立ち止まった。
通り過ぎる人は、あまり振り返らなかった。何度かこの街でも、似たような店が出来てはまた潰れていた。だがロティ・スマートは違う、という噂は、銀杏亭の客同士の会話の端にすでに上っていた。違うらしい、という言い方で。
***
夜、美月は西村と二人で、店のテレビを見ていた。
銀杏亭は、ホールにブラウン管時代から置いてある古いテレビが一台あって、客のいない時間帯には、西村がそれを点けていることがあった。音量は最低まで絞られていて、字幕だけがちらちら流れていた。
その夜、画面に、若い男が出ていた。
仕立ての良いシャツに、エプロンはしていなかった。手も汚れていなかった。司会者が「シェフ」と呼びかけ、男は薄く笑った。
> シェフはもう要らない時代だ。
字幕が、そう出た。
美月は、皿を拭く手を止めなかった。西村も止めなかった。だが二人とも、画面のその一行を見ていた。
> 料理は、データで決まる。
字幕は、淡々と続いた。
「桐生……涼」
美月は、字幕の下の名前を、声に出さずに口の中だけで読んだ。読んだ瞬間に、なぜかその名前が、舌の奥に残った。
「知ってるか」
西村が、皿を拭きながら、言った。
「いえ」
「うちの孫がな、こいつのファンらしい」
「お孫さん、おいくつでしたっけ」
「中三だ。塾の帰りに、ロティ・スマートに寄って、ハンバーグを食って帰るらしい。一個五百円。うちの一番安いランチの、半額以下だ」
西村は、皿を棚に戻しかけて、一度だけ、手を止めた。
「……あと、一年、もつかな」
止めた手を、そのまま、棚の縁に置いた。それ以上は、何も言わなかった。
***
二週間が経った。
銀杏亭の昼の常連が、週に三回はオムライスを食べに来ていた近所の歯科衛生士の男が、来なくなった。理由を、誰も口にしなかった。
四週間目に、西村は、ランチのスープを一品減らした。
美月は、丼と、玉ねぎと、最近はパセリも刻んでいた。配膳には、まだ出されていなかった。だが客の数が減っていることは、丼の枚数で分かった。賄いのバターはいつのまにかマーガリンに変わり、フライパンに落とすときの、油のはじける音が、少しだけ低くなった。西村は何も言わなかった。美月も、訊かなかった。
シフトの終わりに渡される封筒も、先月より、わずかに薄かった。
ある日、ホール係の須藤が、配膳から戻ってきて、ぽつりと言った。
「桐生って人、また出てたよ」
「テレビですか」
「ううん。雑誌。私が美容院で読んだやつ。『食べないシェフ』って特集」
「そうですか」
「美月ちゃん、聞いたことある? その人」
「……あります」
「お父さんと、関係ある?」
美月は、玉ねぎを刻む手を、止めた。
「え?」
「いや、ごめん。あんたの苗字、佐倉でしょ。雑誌にね、その桐生って人の経歴が載ってて、佐倉健一郎研究室の元・主任研究員、ってはっきり書いてあった。同じ苗字だなあ、と思って」
須藤は、それ以上は深追いしなかった。エプロンを直して、ホールに戻った。
美月は、刻みかけの玉ねぎの前で、しばらく動かなかった。
父の大学。父は、自分の研究室の卒業生のことを、家ではほとんど話さなかった。
***
その夜、家に帰ってから、美月は書斎のデバイスに尋ねなかった。
尋ねれば、機械は答えるだろう。父の研究室の卒業生のリストも、桐生という名前が含まれているかどうかも、たぶん即座に出てくる。だが美月は、なぜか、その夜は尋ねなかった。
代わりに、テレビを点けた。
ニュースの後の情報番組で、ちょうど、ロティ・スマートの特集が流れていた。アームがフライパンを振っていた。卵液を流し込み、火を弱め、皿に滑らせるまでが、ぴったり七十二秒だった。アナウンサーが、その時間を読み上げていた。
最後に、画面の隅に、桐生の顔が、ほんの数秒だけ映った。
> 「シェフはもう要らない時代だ」
字幕は、前に見たのと同じ一行だった。
美月は、リモコンに手を伸ばした。
『美月』
機械が言った。
「ん」
『テレビを、消すか』
「……消す」
美月は、消した。
「桐生」
声に出してから、自分が出したことに気づいた。誰に向けたのでもなかった。舌の上に、その二音だけが、しばらく残った。
書斎のドアは、閉まっていた。閉まったドアの向こうで、デバイスの青い光が、廊下の隙間から細く漏れていた。
その光を、美月は、しばらく見ていた。
書斎の中の機械は、その夜、自分から美月に話しかけてはこなかった。
数年後の調理AIのリアルさに「ありそう」とぞくっとしたら【びっくり】を。近未来の手触りを楽しめたら★をひとつ。




