第4話 キモい
冬になっていた。
銀杏亭の定休日、美月は莉子と、駅前の居酒屋にいた。チェーンではない、カウンター八席だけの、古い店だった。莉子が昔から使っている店で、美月も何度か連れて来られたことがあった。店主は無愛想で、注文のとき以外は話しかけてこなかった。それが莉子は気に入っていた。
「乾杯」
莉子が、グラスを軽く持ち上げた。
「乾杯」
美月も持ち上げた。中身はホッピーだった。莉子が、最近これに凝っているのだと言った。理由は聞かなかった。
「銀杏亭、最近どう」
「丼を、洗ってる」
「まだ?もうすぐ、何年だっけ」
「一年と、半年」
莉子は、笑った。少し笑って、それからすぐにグラスを口につけた。
「あんた、よく続くね」
「うん」
「私には、無理だわ」
莉子は、半年前に会社を辞めていた。法人営業に配属されて一年で、部署が言語モデル統合のパイロットに乗り、二十人のうち十六人が再配置された。莉子は、その十六人だった。再配置先のアノテーション会社で半年いて辞めた。
辞めたあと、莉子は、駅から少し離れた場所に、小さなカフェを開く準備をしていた。物件はもう決まっていた。改装は、年明けに始まる予定だった。
「カフェ、進んでる?」
「うん。来月から職人が入る」
「楽しみ」
「楽しみだよ。私が、一番」
莉子は、グラスを置いて、メニューを開いた。指で、いくつかの料理を、続けて指した。店主は黙ってうなずいて、奥に消えた。
***
カウンターの上の隅に、小さなモニタが付いていた。
音量は絞られていた。地上波のバラエティのようなものが流れていた。そのうち番組がCMに入って、画面が白くなった。
海辺だった。
若い女性の隣に、男性のアバターが立っていた。手は取れなかった。だが彼女の名前を呼び、笑った。彼女も、笑った。
> ──あなたの隣に、ずっといる誰かを。
> 月額三千八百円から。
> 対話型AIパートナーサービス「Lumina」。
字幕が淡く流れた。画面の下端を、規制由来の注記が小さく這っていった。──ご利用は十八歳以上。故人の人格データは使用しておりません。
美月は、グラスを口につけたまま、その画面を見ていた。
そして、グラスを、カウンターに戻した。
「……《《キモい》》」
声に、出ていた。
莉子は、何も言わなかった。
「いや、ほんとに、なんなんだろうね、ああいうの」
美月は、続けた。誰に向かってでもなく、ただ自分の中の何かを、言葉にして外に出そうとしていた。
「画面の向こうの、作り物に、本気になるとか。月額三千八百円って、何の対価。人間の代わりになるわけ、ないじゃん」
カウンターの内側で、店主の手が、徳利の口の上で、ほんの一瞬だけ止まった。止まって、そのまま、何ごともなかったように、別の客のグラスに酒を注いだ。
莉子が、軽く、美月の肘を、つついた。
「ちょっと、声」
「……あ」
「私、絶対に、無理」
美月は、声を半分まで落とした。落としても、言いきった。落とした分だけ、自分の中の何かが、まだ収まっていないのが自分でも分かった。
莉子は、グラスを両手で包んでいた。
ゆっくり口に運び、空ける一歩手前まで飲み下してから、カウンターに戻した。
何も言わなかった。
「莉子?聞いてる?」
「聞いてるよ」
「同意くらい、しなよ」
莉子は、笑った。
「うん。同意するよ」
ようやく、莉子は言った。
「うん、まあ、ね。──人それぞれ、なんじゃないの。知らんけど」
それから莉子は、別の話をはじめた。カフェの内装の話だった。床は無垢のオークにするか、それとも安くて手入れがしやすい合板にするか、職人と意見が割れているという話だった。美月は相槌を打った。
***
居酒屋を出たのは、十一時を少し回った頃だった。
莉子は、駅まで歩く方向が反対だった。改札の手前で、二人は別れた。莉子は、いつも通り軽く手を振って、振り向かずに反対側のホームに消えた。
美月は、家までの夜道をひとりで歩いた。
寒かった。マフラーを口元まで上げた。息が、マフラーの内側で白くなった。
歩きながら、美月は、自分が居酒屋で言ったことを、何度か思い返していた。人間の代わりになるわけがない。
家に帰れば、書斎には円筒形のデバイスがある。明日もそれは、青い光を点して、父の声でおはようと言うだろう。
莉子には、家の機械のことは話していなかった。世間が「故人AI」をどう呼ぶか、美月は何度かニュースの見出しで見ていた。親離れできない若者。未練。依存。莉子は、そう言う人ではなかった。だが、莉子の周りの人たちは、そう言う。
「……父さんは、別」
美月は、マフラーの内側で小さく言った。
「父さんは、別。家族だから。恋人ではない」
声は、自分の耳にだけ届いた。
家まで、あと十五分の道のりだった。
歩道の街灯が、二本に一本だけ、間引きで消されていた。電力規制の冬の運用だった。消えている街灯と、点いている街灯の、その境い目を、美月は何度かまたいだ。
家の門のところで、美月は一度だけ立ち止まった。
家の中で、書斎の窓だけが薄く青く灯っていた。
父AIに面と向かって「キモい」と言い放つ美月を想像したら【笑える】、その照れ隠しが微笑ましかったら【にこにこ】を!




