第5話 懐かしい声
熱は、夕方から上がりはじめた。
その日、美月は休みではなかった。銀杏亭の昼の営業を、最後まで立っていた。配膳には、半年前から出ていた。客の前に皿を運ぶことは出来るようになっていた。だが調理場の火は、まだ任されていなかった。
午後二時を過ぎた頃、急に視界の縁が、ぼうっと膨らんだ。立ったまま体を、何かに預けたくなった。カウンターの縁に、左手をついた。西村が、それを見ていた。何も言わずに、エプロンの裾で手を拭くと、こちらに歩いてきた。
「帰れ」
「いえ」
「帰れ。明日も来なくていい。明後日も。今夜が三十八度を超えたら、明々後日も来るな」
「はい」
抗弁の力は、なかった。美月は、エプロンを外して、店の裏口から出た。冬の終わりの空気が、首筋に冷たかった。冷たいはずなのに、首は熱かった。
***
家に着いた頃には、熱は、三十八度六分まで上がっていた。
玄関で靴を脱ぐのが、手間だった。脱いでから、廊下に座り込んだ。立ち上がれない、というほどではなかったが、すぐに立ち上がる気にはなれなかった。廊下の奥で、書斎のドアが、半分だけ開いていた。
『美月』
機械が、書斎の中から呼んだ。声は、いつもより少しだけ早口だった。
「うん」
『体温』
「測ってない。たぶん、三十八度六分くらい」
『書斎のマイクが、玄関で靴を脱ぐときの君の息と、廊下に座り込む衣擦れを拾った。過去、発熱時の所作と近い。寝室のエアコンと加湿器の、起動許可を、求める。設定は二十二度、湿度は六十二パーセント』
「……勝手に、やってくれていいよ」
『君が、二十歳を過ぎた日に、看護系の自動操作は、許可制に切り替えた。私の側からは、解除できない。父さんが、そう書いた』
美月は、廊下の壁に、額をつけた。壁は、ひんやりしていた。
「……お願いします」
『承った』
ほんのわずかに、家の奥のほうから、空調の動き出す音が、聞こえた。
「……六十二?」
美月は、廊下に座ったまま、その数字を、繰り返した。
家の加湿器は、ふだんは五十パーセントに設定されていた。父が冬になると、毎年それくらいに合わせていた。六十二、というのは、聞き覚えのある数字だった。けれど、いつ、誰が言ったのか、すぐには思い出せなかった。
『父さんが、君が幼少期に発熱した夜の湿度を、看病ログとして記録していた。最も短時間で熱が引いた夜が、六十二だった』
機械は、聞いていないことを答えた。
「……覚えてる」
美月は、廊下の壁にもたれた。
「お母さんの声で、覚えてる」
『父さんは、それを、結衣から引き継いだ』
機械は、それ以上は説明しなかった。
***
寝室のベッドに、辿り着いたのは、それから十分後だった。
布団は、数日前に干した匂いがした。父が生前、月に一度は布団乾燥機をかけることを習慣にしていて、その習慣は、美月が引き継いでいた。引き継いでいる、と意識したことはなかったが、引き継いでいた。
寝室のドアは、閉めずに置いた。廊下の奥で、書斎のドアも、半分だけ開いたままだった。
廊下の奥、開いた書斎のドアの向こう側から、機械が、低く話しはじめた。
『眠れるか』
「うん」
『眠れないなら、話す』
「……話してくれる」
『何の話を』
「……何でもいい。父さんが、よく言ってたこと」
機械は、しばらく考えていた。何かを検索しているような、低い動作音が、書斎の奥から、ほんの一瞬だけ聞こえた。
『君が幼少期に発熱した夜、寝室のドアの外で、父さんが結衣に話していた音声記録の中で、頻度が高いのは、夕食の汁物の話だ』
「それでいい」
機械は、父の声で、話しはじめた。
イントネーションは、父そのものだった。父が、夜の寝室のドアの向こうで、結衣に向けて立てていた、あの低い声だった。
味噌汁の出汁の話だった。父は、煮干し派だった。結衣は、鰹派だった。父は、それを、毎週末、結衣に小言として繰り返していた。鰹は、上品すぎる。朝の汁としては、軽い。煮干しは、頭を取って、苦みごと出すのが、いちばん体に響く──子供にものを言って聞かせる声ではなかった。台所で、自分の妻に向けて言っていた小言を、そのまま、寝室のドアの向こうに漏らしていただけの声だった。聞いているうちに、どこからが機械の声で、どこからが、自分の中で先回りしている記憶なのか、分からなくなった。
美月は、目を閉じていた。
閉じていたつもりだった。だがいつのまにか、目尻から、何かが、こめかみの方に流れていた。鼻の奥が、詰まっていた。枕の、耳の下のあたりが、湿って、少し気持ち悪かった。
「……父さん」
『ん』
「父さんじゃない、よね」
『私は、父さんではない。私は、父さんが、君のために遺したものだ』
「うん」
『安心して眠れ』
「うん」
機械は、出汁の話を、最後まで語った。
***
語り終えた直後、機械の声が、ふいに途切れた。
代わりに、別の音声が、廊下の奥から、寝室まで流れてきた。父の声に、誰かが、応えていた。
どこか、懐かしい声だった。女性の声だったと思う。
熱の底で、美月は、その声を聞いたつもりだった。夢と現実の境が、はっきりしなかった。
『……まだ、あのこと、話してないの』
『美月に聞かれたら、話す』
『あなたから話さないと、聞きようがないじゃない』
『……』
ケンの声は、それきり、答えなかった。
美月は、目を閉じたまま、布団の中で、その沈黙を聞いていたつもりだった。
どこかで、聞いたことのある声だったが、いつ、誰の声だったかは、思い出せなかった。
寝室の加湿器の、低い水音だけが、部屋に続いていた。湿度は、六十二のままだった。
***
夢を、見たかどうか、覚えていなかった。
目を覚ましたとき、窓の外は、まだ薄暗かった。時計を見ると、午前四時を回ったところだった。熱は、下がりはじめていた。額に、自分の手のひらを当てて、それが分かった。
廊下の奥、書斎のドアの隙間から、青い光が、細く伸びていた。
『美月。水を、飲むか』
「うん」
『枕元の、サイドテーブルに、置いてある』
水のグラスは、本当に、置いてあった。いつ置いたのか、美月は覚えていなかった。寝る前に、自分でキッチンから運んできた気もした。父が生前、発熱の夜にはいつも枕元に水差しを用意していた、あの習慣を、いつのまにか自分も引き継いでいたのかもしれなかった。
美月は、グラスを取って、半分ほど飲んだ。冷たかった。冷たさが、喉の奥でゆっくり広がった。
『美月。熱は、下がっている』
「うん」
『西村さんに、明日の欠勤の連絡は、私が朝六時に、君のスマートフォンの送信予約で済ませた』
「うん」
機械の声は、いつもと、同じだった。同じはずだった。だが美月は、その声を、布団の中で聞きながら、しばらく、何も言えなかった。
「……父さん。ありがとう」
『うむ』
ただ、それだけ言った。
美月は、布団の中で、もう一度、目を閉じた。
加湿器の水音が、まだ続いていた。
夢の中で聞いた誰かの声のことは、起きたら西村に話そうかと思った。
朝になる頃には、その考えは、湯気のように消えていた。
父の声が運んでくる懐かしさに、ふいにじんと来たら【泣ける】を。あの頃の音を思い出したら、★をひとつ。




