第6話 足りない一皿
春先の、銀杏亭の朝だった。
店のテレビが、朝のニュースを小さく流していた。駅の反対側に、ロティ・スマートの二号店が建つ、と字幕が流れていた。来月、開店。工事の囲いは、もう立っている。桐生の顔が、画面の隅に、ほんの数秒だけ映った。
西村は、テレビの電源を、無言で切った。
***
開店前の厨房に、美月と西村だけがいた。須藤は、その日は通院で、昼から出てくる予定になっていた。西村は、まかない用の食パンをトースターに入れたあと、振り返って、こう言った。
「君、卵を、焼いてみるか」
「……今日、ですか」
「明日はもう来るな、と言われたいか」
「今日、焼きます」
西村は、笑わなかった。だが目尻が、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。
「オムレツでいい。三人前。客に出すんじゃない。まかないだ。私と、君と、もう一人分は、須藤の昼の取り置きにする」
「はい」
「卵は、奥の冷蔵庫の二段目」
「はい」
「あとは、好きにしろ」
西村は、それだけ言って、ホールに出ていった。仕込みの続きが、ホール側のテーブルに広げてあるのが、戸口から見えた。
***
美月は、ボウルを出した。
冷蔵庫から、卵を六個取り出した。三人前なら、卵は九個でも良かった。だが美月は、六個にした。一人前あたり二個。卵を多くしすぎると、生地が膨らみすぎて、自分が今日、手の中に収められる気がしなかった。
塩。胡椒。生クリーム。バター。
それから、美月は、冷蔵庫の上段に手を伸ばして、賄い用のチーズの塊を取り出した。
ここからは、美月は、ほとんど、自分が何をしているのかを言葉で意識しなかった。卵を割った。三回に一度、白身が指先に伝った。塩を、ふった。量は、量らなかった。生クリームを、注いだ。注ぎながら、もう一方の手で、チーズの塊を、おろし金にあてていた。
おろしたチーズを、卵液の中に、落とした。
落とし続けた。
普通のオムレツに入れる量よりも、少しだけ多かった。たぶん、一人前あたりで、レシピより五グラムから七グラムは、超えていた。美月は、その量を量らなかった。量らずに、止めた瞬間に止めた。
なぜそこで止めたのかは、美月にも、分からなかった。手が、勝手に止まった。それだけだった。
フライパンを火にかけた。
予熱の時間は、家のキッチンで、書斎の機械が声で何度も告げてきた温度を、美月は経験で覚えていた。父が論文の単位をそのまま家に持ち込む癖が、機械の出力にも、そのまま残っていた。家でも、店でも、何度も焼いてきた。秒数は数えなかった。バターの一片を落として、その溶け方の速度で、温度を判断した。
卵液を、流し込んだ。
奥から手前に、撹拌した。秒速は、機械が言っていたのと、ほぼ同じだった。本人は意識していなかった。家の機械の声は、もう美月の中に、内蔵されてしまっていた。
火を、弱めた。
フライパンを傾けた。卵が、ゆっくり、向こう側に寄っていった。寄り切る一歩手前で、美月は、手首で、フライパンの縁を、ほんの少しだけ、こちら側に煽った。卵の、向こう側の縁が、フライパンの金属に、ほんの一瞬だけ、長く触れた。
長く、触れすぎた、かもしれなかった。
意図的に、ではなかった。手首の動きが、そこだけ、少しだけ遅れた。遅れたことを、美月は、フライパンの上で、理解した。理解した、と言うよりは、皿に滑らせる前から、もう、卵の向こう側の縁に、わずかな、茶色い線が見えていた。
焦げとまでは、言わない程度の。
皿に滑らせた。
三皿、続けて、同じ手順で焼いた。三皿とも、向こう側の縁に、ほんの少しだけ、茶色い線が、入っていた。並べると、三つとも、似たような場所が、似たような色をしていた。
西村が、ホールから戻ってきた。
戻ってきて、皿を見た。三皿を、しばらく見た。それから、何も言わずに、自分の皿を持って、カウンターのいつもの席に、腰を下ろした。
美月は、自分の皿を、その向かいに置いた。立ったまま、フォークを取った。
「座れ」
西村は、口を開かずに、目だけで、向かいの椅子を指した。
美月は、座った。
美月は、自分の皿の自分のオムレツを口に運んだ。
塩はちょうどよかった。
バターは適切に香った。
チーズの量は、たぶん、家にある、いつかの記憶の中の、誰かが焼いてくれたオムレツに、近かった。近づけたつもりは、なかった。だが結果として、近かった。
向こう側の縁の、ほんの少しの焦げが、口の中で、香ばしく、苦かった。
美月は、フォークを、口から離した。
──何かに、似ている。
そう、思った。
似ているのに、決定的に、何かが、足りなかった。
塩でも、バターでも、チーズの量でも、焦げの長さでもない、何かが。
その感覚は、一年前の書斎で、機械が焼かせた、あの完璧なオムレツに対して、自分が抱いたものと、温度の方向こそ違え、同じ種類だった。
西村は、自分の皿を、ゆっくり最後の一口まで食べた。
食べ終わってから、フォークと皿を、自分でカウンターの内側に下げた。それから、エプロンの腰のところで、両手を、軽く拭いた。
何も、言わなかった。
「……西村さん。どう、でしたか」
「『どうでしたか』と聞かれて答える種類のものでは、ない」
「はい」
「だが、明日、もう一回、焼け」
「はい」
「明日のは、客に出す」
美月は、フォークを、皿の縁に置いた。置いた手が、少し、震えていた。
西村は、それを見ていなかった。すでに背を向けて、ホールの片付けに戻っていた。
***
夜、家に帰った。
書斎のドアは、いつもと同じ場所で、いつもと同じだけ、開いていた。デバイスは、青い光を点していた。
美月は、書斎に入った。机の前の椅子に座った。父が生前、座っていた椅子だった。革は、座面の真ん中だけ、父の体重でわずかにくぼんでいた。
『お帰り』
機械が、言った。
「ただいま」
『今日は』
「うん」
美月は、それだけ答えて、それ以上は言わなかった。
『美月。何か、あったか』
「……うん」
『話すか』
「ううん」
機械は、聞き返さなかった。
「話す気になったら、話す。今日は話さない」
『分かった』
美月は、しばらく黙っていた。机の上の青い光を、指先で、一度だけ軽く触れた。
「父さん」
『ん』
「父さん、私に、何か隠してることない」
機械は、すぐには答えなかった。
書斎のスピーカーの奥で、低い動作音が、ほんの一瞬、混じった。いつだったか、もっと熱の高い夜に、一度だけ同じ音を聞いた気がしたが、思い出せなかった。
『……なぜ、それを聞く』
「分からない。なんとなく」
『そうか』
「……あるの、ないの」
『……特にない』
「ふうん」
美月は、それ以上は追わなかった。機械は、それ以上は何も言わなかった。
***
書斎の机の上に、父の万年筆がまだ置いてあった。父が亡くなる二週間前まで、毎晩、何かを書きつけていた万年筆だった。インクは、もうほとんど、乾いていた。
美月は、それを、しばらく見ていた。
書斎のスピーカーから、機械が、低く言った。
『美月』
「うん」
『私の勝手な推測だが、今日の君の料理、悪くなかったと思う』
機械が、自分から美月の一日に踏み込んだのは、初めてだった。美月は、それ以上は何も言わなかった。
「……父さん。おやすみ」
『おやすみ』
美月は、机の前を立った。
書斎のドアをいつもと同じ角度まで引いた。完全に閉めなかった。隙間から、デバイスの青い光が、廊下の床に細く伸びていた。
廊下のその光のすぐ手前のところで、美月は一度だけ足を止めた。
何かに似て、決定的に何かが足りなかった皿の上のオムレツのことを思い出していた。
足りないものが、何であるか知りたかった。
書斎の中の機械に聞けば、答えは返ってくるだろうか。返ってくる気は、しなかった。
明日の朝、銀杏亭で、客に出す。
その先に、駅の反対側で、無人のアームが、七十二秒で、同じものを焼いていた。
──私のオムレツは、桐生に、勝てるのだろうか。
声にはならなかった。
美月は、寝室のドアを開けた。書斎の青い光は、廊下に細く伸びたままだった。
何かが「足りない」一皿の余韻に頷けたら【いいね】を。その足りなさが気になって続きを読みたくなったら、★をそっとひとつ。




