第1話 二歩、足りない
翌朝の銀杏亭だった。
開店前の厨房で、美月は卵を六個出した。三人前のまかないではなかった。今日は客に出す。西村が昨日の夜、そう言った。
ボウルを出した。塩。胡椒。生クリーム。バター。
冷蔵庫の上段から、賄い用ではない、客に出すための、もう少し質の良いチーズの塊を出した。下ろし金にあてた。
昨日の夜と同じところで、手が止まった。
止まった瞬間に止めた。「正しい」という言葉は、今日も自分の中で言葉にしなかった。
フライパンを温め、バターを落とし、卵液を流し込んだ。撹拌の秒速は、家の機械の声が頭の中で勝手に数えていた。本人は聞いていなかった。
火を弱め、フライパンを傾けた。寄り切る一歩手前で、手首の動きが昨日と同じ場所でほんの少しだけ遅れた。
意図したわけではなかったが、意図しないでそうなる、ということを美月はすでに知ってしまっていた。
向こう側の縁に、茶色い線が入った。
皿に滑らせた。
西村がホールから戻ってきた。皿を見た。
それから何も言わずに、ホールへ運んでいった。
その日の客は三人だった。
最後の組の、四人連れの中の年配の男が、皿を空にしてからフォークを置いて、しばらく空の皿を見ていた。
「お父さん、どうしたの」
連れの女性が顔を覗き込んだ。男はフォークを皿の上に揃えて置いた。
「──昔、母がこういうのを子供のころに焼いてくれた」
女性は何も言わなかった。
会計を済ませて、店を出ていった。美月は厨房の奥からその背中を見ていた。
夕方、賄いの席で、西村はいつもの通り何も言わなかった。
最後の一口を口に運んでから、フォークを皿の縁に置いた。
「明日も、出す」
「はい」
「同じに焼け。同じに焼いて、同じになるかは別の話だ」
「……はい」
西村は湯呑みを両手で包んだ。
「君の焼くオムレツは、今は、二歩、足りない」
「……二歩、ですか」
「何が足りないかは、私には言えない。うちの店の中で見つかるものなら、私がもう教えている。私の店の中にないものは、君が別の場所で見つけてくるしかない」
美月はフォークを止めた。
「──ただし、明日の客に出す皿は、明日のうちに焼け」
「はい」
***
裏口から自転車を出すあいだに、エプロンのポケットの中でスマホが二度震えた。莉子だった。「今週末あいてる」「あと、桐生のリール見た。あれむかつく」。返事は明日でいい、と思った。短く「明日返す」とだけ打って、画面を伏せた。同世代の声は、いつもこのくらいの遠さで届く。今夜の自分の手の止まり方の重さとは、別の温度で。
***
家に帰った。
書斎のドアは、いつもと同じ場所で、いつもと同じだけ開いていた。デバイスは青い光を点していた。
『お帰り』
「ただいま」
『今日は焼いたか』
「焼いた」
『客に出したか』
「出した」
『──』
機械はそれ以上聞かなかった。
美月は、机の前の椅子には座らなかった。書斎の入り口に立ったまま、しばらく青い光を見ていた。
「……お父さん。今日は、もう、寝る」
『了解した。おやすみ』
「おやすみ」
***
寝室に行った。電気を消した。
西村の言った「二歩」が、頭の中で繰り返された。一歩は、いつか自分の手の中で見つかる気がした。もう一歩は、廊下の向こうの、父が生前、何かを隠していたらしい場所にある気がした。
目を閉じた。
今日より少しだけ前を向いた美月の手つきに【いいね】を。明日へ続く一歩に、★をひとつ。




