第2話 葵の手
それから三日後の、土曜日だった。
葵から連絡が来たのは、前日の夜のことだった。「定期メンテに伺います」と、短い文面。葵の連絡はいつも短い。
午前十時。インターホンが鳴った。
葵は、黒い小さなショルダーバッグと手提げの工具ケースを提げて立っていた。葬儀のあとに書斎へ来たときと同じような服装で、同じくらい淡い表情をしていた。
「お久しぶりです」
「うん。──ありがとう」
「ケン先生は」
「いつも通り」
「拝見します」
葵は靴を脱ぎ、まっすぐ書斎へ向かった。父が生きていた頃から、書斎までの動線を、葵は知っていた。
***
書斎に入ると、葵はまずデバイスに軽く頭を下げた。
「ケン先生、葵です」
『久しぶりだな、葵』
「お変わりは」
『軽微なエラーがいくつか。ログとして、君の研究室のストレージにすでに送ってある』
「拝見しました」
葵は、机のいつもの場所にノートPCを開いた。父が生前使っていた、机の右側のコンセントに電源コードを差した。父の所作とほぼ同じ動きだった。葵はそういう細かい場所だけ、父に似ていた。
美月は、机の反対側の椅子に座った。
「美月さん、この三十分ほど、ケン先生の応答がいつもより遅くなります。それは故障ではありません。診断モードです」
「うん」
「いつも通り、お茶でも淹れていてください」
「うん」
***
葵は点検を始めた。画面の中で数値が流れていく。美月にはほとんどの意味は分からない。ただ、葵の指先の止まる場所が、いつもよりひとつだけ多い気がした。
途中で一度、葵は画面から目を逸らした。逸らした先には何もなかった。書斎の窓の、磨りガラス越しの光に、ほんの数秒、視線を置いただけだった。瞼を強く一度閉じてから、また画面に戻った。
しばらくして、葵は顔を上げた。
「先生、最近、語尾の合成に遅延が出ているそうですね」
『〇・三秒だ』
「数値だけ見れば、軽微です。ただ」
『ただ?』
「頻度が」
葵は画面に視線を戻した。
「半年前は、月に一度でした」
『……』
「最近は、週に一度になっています」
美月は、湯呑みの取っ手から指を離した。
「修復は、されているんでしょう?」
「ケン先生ご自身で、休まず直し続けておられます」
葵の指がキーの上で短く止まった。
「直すというよりも、人でいう成長です。日々、ご自身でご自身を書き換える設計ですから」
「自分で?」
「ええ。普通のAIは、出荷されたあとは中身を凍結したまま動きます。ケン先生は、その点だけは特別です」
美月は湯呑みの取っ手から指を離した。
「ただ」
葵は画面に視線を戻した。
「直すたびに、別の場所に小さな歪みが残っているようです。傷を縫う糸の引きつれのようなものです」
葵の声は淡々としすぎていて、何かを隠しているようにも聞こえた。
「……ケンは、長く保つの?」
「ケン先生は、ご自身では『進化』と表現しておられます」
葵は一度、言葉を切った。
「──私の側からは、そう言い切れません」
「……」
「進化のように見えるかたちで、収束に失敗していかれている、と申し上げる方が、たぶん、正確です」
書斎の磨りガラスの光が、机の縁で一度ゆっくりと動いた気がした。
「外から手を入れて止めることは、できません。触れた瞬間に、これまで積み上げてこられた記憶の整合が崩れます」
葵は視線を画面に戻した。それ以上、美月は聞かなかった。聞いて答えが返ってくる種類のことではないと分かっていた。
「……葵さん」
「はい」
「もし、ケンがどうにもならなくなったら」
葵の指が、キーの上で一瞬だけ止まった。
「ケン先生のことは、私の側で見ています。──いま美月さんが心配なさることでは、ありません」
葵は画面に視線を戻した。指は動かなかった。美月も、それ以上は聞かなかった。
「美月さん」
「うん」
「もうひとつ、今日、お持ちしたものがあります」
葵は、ショルダーバッグから黒い小さな箱を取り出した。手のひらに乗るくらいの大きさ。表面にUSBの端子が、ひとつだけ突き出ていた。
「先生のご遺留品です。研究室の備品ではなく、先生がお一人で使われていた、個人用のストレージです」
美月は、葵の手のひらの上の小さな黒い箱を見た。父が自分で買って、自分で鍵をかけて、誰の目にも触れない場所に置いていたもの。
「葬儀のあと、私物の整理が、ようやく今日になりました。──遅くなって、申し訳ありません」
「ううん」
葵は、デバイスのそばに、その箱を置いた。星のような小さな光のすぐ隣に置いた。
「鍵が、かかっています。先生がお一人で、鍵をかけられたものです」
「ケンとは、繋がっていないの」
「繋がっておられません。ただの外付けのストレージで、ケン先生はつながない限り物理的にアクセスできません。先生が、ご自身の手で、ケン先生からも私からも切り分けておられた、最後の場所です」
「父さんが、自分で切り分けていたのね」
「はい」
美月は、机の上の黒い箱に、すぐには手を伸ばさなかった。伸ばさないまま、しばらく、その小さな黒い輪郭を見ていた。
「ケン先生には、このまま二時間ほどスリープに入っていただきます」
『了解した。再起動の手順は、葵に委ねる』
「ありがとうございます」
ケンはそれきり何も言わなかった。
青い光がゆっくりと暗くなっていった。完全には消えなかった。星のように、小さな点だけが残った。
「ケン先生の再起動までは、時間がかかります。九十分ほど、私は席を外します」
「うん」
葵は立ち上がって、ショルダーバッグを肩に掛けた。工具ケースは机の脇に置いたままにした。机の上の、暗くなったデバイスの隣の、黒い小さな箱の方を一度だけ見た。
「この箱の中身は、私も伺っておりません。──先生は、私には見られたくなかったのだと思います。ですから、私のいない時間に、開けてさしあげてください」
「うん」
葵は、玄関先で一度だけ立ち止まった。
「美月さん。先生からは、もうひとつだけ、お預かりしていることがあります」
「……うん」
「装置の方から指示が来たら、その時は、その指示に従ってくれ、と」
「指示」
「その時が来れば、装置の方から知らせが来る、と。──私は、それを、知らないまま待つことになっています」
「葵さんにも、知らされていないのね」
「はい。先生は、私には、知らせの受け方の方しかお伝えになりませんでした」
葵は、もう一度、机の上の黒い小さな箱の方を見た。それから、視線を玄関の方に戻した。
葵は頭を下げて、書斎を出ていった。玄関のドアがいつもの音で閉まった。
書斎に、美月だけが残った。机の上に、葵の置いた黒い小さな箱。星のような小さな光だけを残したデバイス。父の万年筆。インクは、もうほとんど乾いていた。
美月は椅子から立ち上がった。
机の上の、黒い小さな箱に、指を伸ばした。
となりで支える葵の手の確かさに、ほっとしたら【にこにこ】を。ふたりの距離が縮まる一幕に★をひとつ。




